#83 壱の健康診断と、新たな問題勃発か

 10分ほどして、診察室から茂造が出て来た。


「検診なんて久々じゃったぞい。懐かしい感じがしたのう」


「そっか。この世界に来てから受けて無かったんだよね」


 茂造が元の世界にいた時には、既に定年退職を迎えていたが、再就職していたので、そこで健康診断が毎年あった筈だ。


 その時には採血やレントゲン、心電図などもあったと思うので、今回の内容はかなり簡略化されいると思うが。


「どうだった?」


 壱が聞くと、茂造はにこにこと笑った。


「健康そのものじゃぞい。心音も綺麗じゃと言われたし、血圧も正常値じゃ。そもそもわし自身が毎日調子が良いからのう」


「はい」


 茂造に続いて出て来たノルドが、穏やかに頷いた。


「スミナさんも他のご高齢の方もそうですが、本来ならこの位のお年になれば、何かしら調子の悪い部分が出て来たりするものです」


 それはそうだろう。茂造自身も元の世界にいた時には、腰や関節が時折ときおり痛むやら、血圧が高めやらと言っていた。だから壱は常々、少しでも茂造にゆっくりして欲しいと思っていたのだが。


「ですが、これまで診察させて頂いた皆さま、ご健康そのものです。これはサユリさんのご加護のお陰なのですね。凄いですね!」


 そう言いながら、ノルドは興奮気味に胸元で両のこぶしを握った。


「サユリさんが相当凄い魔法使いなのか、それともご加護の大半をそこに割いておられるのかは、私には判りませんが、これは凄い事ですよ」


 実際は前者である。しかしそれを言う訳にはいかず、壱は「はは」と苦笑いするしか無かった。


「ああ、イチくんお待たせしました。店長さんお疲れさまでした。ではイチくん、診察室へどうぞ」


 そう促され立ち上がると、サユリが素早く壱の歩みに合わせる様に横に沿った。


「あれ、サユリも来る?」


「当然カピ。ノルドに聞きたい事もあるのだカピ」


「俺は良いけど、ノルドさん、良いですか?」


「イチくんとサユリさんが良いのであれば、勿論。では行きましょう」


 そうして診察室に入る。


 診察室は壱たちの世界で言うところの6畳程の広さで、壁に沿ってテーブル、椅子、患者用の椅子、それと対面する位置にシンプルなベッドが置かれ、全て木製ではあるものの、壱にも見覚えのある診察室の様だった。


 大きく違うのは、テーブルの上がシンプル過ぎると言う事だった。


 手前の隅に銀色の長細い箱の様なものが置かれていて、横にはインクの瓶、奥の隅には数枚の用紙。用紙は恐らくカルテの様なものだろう。


 診察室には良く置かれている、製薬会社のノベルティや身体の展開図の様なものは無いし、当然パソコンも無い。レントゲンフィルムを見る為のシャウカステンも無い。


 余計なものなど何も無い、シンプルに作られた診察室だった。


「ではまず、心臓の音を聞かせてくださいね」


 ノルドが言うと、首に掛けていた聴診器を手に構える。壱はトップスをめくり上げようとするが、止められた。


「そのままで大丈夫ですよ」


 ノルドは安心させるかの様に穏やかに言うと立ち上がり、トップスの上部、首回りの隙間から手を入れて、壱の胸付近に聴診器を当てて行く。


 聴診器のひやりとした感触に、壱は小さく肩を上げてしまったが、ノルドはいつもの事なのか、気にする風も無く、聴診を続けて行く。


 数秒後に、ノルドは小さく頷いて、壱から聴診器を外すと、用紙に付けペンで何やら書いて行く。


 この世界の文字は、やはり壱には読めない。問題無しとでも書かれていると良いのだが。


「では、次は血圧を測りましょう」


 ノルドは言うと、長細い銀色の箱を手前に寄せて開ける。そこに入っていたのは、布製の幅のある濃いグレイのバンド。そしてそこから出ている薄いグレイのチューブに繋がっている目盛りと、チューブと同じ色の、ゴム製の小さな風船の様なもの。


 蓋の内側には目盛りが付いていて、起立する様になっていた。


 ノルドはバンドから出るチューブの繋ぎ部分を、腕の関節部分に合わせる様にやや強めに巻くと、関節の血管に聴診器を充て、風船を握る。


 風船を幾度と握ると、バンドに空気が送られて膨らみ、壱の腕が圧迫される。それで一瞬体内の血流が激しくなったかと思った瞬間、ふっとその力が弱められる。


 これは元の世界で血圧を測っていた時と同じ感覚だ。壱が経験した事があるのは機械の血圧計だったが。


 ノルドの目線は目盛りに注視されている。それが恐らく血圧を表示するのだ。


 圧迫は徐々じょじょに緩められ、途中で腕が脈打つ。そしてそれが落ち着いてやや後、締められていた腕が自由になった。


「上が112、下が73。イチくんはヒューマンですよね?」


 ノルドは言いながら付けペンを取り、インクを浸けると机の上の用紙に数値を記した。


「はい」


「でしたらやはり健康ですね。エルフやドワーフは、基準値が違うんですよ。エルフは低く、ドワーフは高いんです」


「そうなんですか」


 初めて聞いた。壱はこれまで血圧で異常値を出した事は無く、この村は医者いらずだ。自分の事も含めて気にした事など無かった。


「心音と血圧から見ましたところ、イチくんの健康状態はとても良好です」


「そうですか。良かった」


 知恵熱は出したが、完治してからこちら、体調不良を覚えた事など無かったので、正直不安は無かった。サユリの加護もある訳だし。


 しかしこの健康診断を無意味だと、壱は思ってはいない。寧ろ村人の安心の為、そして医者であるノルドの為、必要な事だと感じている。


 そして心配はしていなかったものの、こうして医者から「健康ですよ」と言われると、更に安心するものなのである。


 若い壱ですらこうなのだから、高齢者は余計にそうなのでは無いだろうか。


「何か心配事などはありますか?」


 そこで、壱は「心配事では無いんですが」と前置きして、受付に付いて聞いてみる事にする。


「ああ。どうしようかとも思ったのですが、現状では必要無いかと思いました。事務作業から診察から、私ひとりで充分事足りるでしょうから。今回の様な健康診断では無く、普通の診療では、待合室すら必要無いのではと思っているところで。ですが万が一患者さんが被ってしまったら、調子を崩された患者さんを外でお待たせする訳には行きませんからね」


「不便は無いカピか?」


 サユリも聞く。


「ええ。大丈夫です。ご配慮頂きありがとうございます」


 ノルドははっきりと言い、小さく頭を下げた。


「あ、ノルドさん、もうひとつ。初めてここに来た時、待合室の奥の3つのドア、どれがどのドアか判らなくて困っちゃったんです。プレートみたいなのを付けられたらどうかと思って」


 するとノルドは「あっ!」と短く声を上げた。


「そうですね! それはうっかりしていました! 早速ロビンさんにご相談させていただこうと思います。ご迷惑をお掛けしました」


「いえいえそんな」


 深く頭を下げるノルドに、壱は焦って手を振る。


「ノルド、我も聞きたい事があるカピ」


「あ、はい、何でしょうか」


 サユリの問いに、ノルドがようやく顔を上げる。


「以前言っていたカピな。この村の噂、犯罪者が暮らす村があるという噂を聞いて、ここに来たカピと」


「ええ、私が勤めていた病院の患者さんがおっしゃっていたのを小耳に挟みまして。その時は「そうなのか」程度にしか思わなかったのですが、私が巻き込まれた件の時に思い出したんです。ですがその時の立場ゆえ、その患者さんに詳細をお伺いする事も出来なくて。結果として辿り着く事が出来ましたから良かったんですが」


 ノルドが穏やかな笑みを浮かべながら言うと、サユリは考え込む様に眼を閉じてしまった。


「サユリ? どうかした?」


「……何でも無いカピ」


 冷静な声で応えられるが、この様子だと気になる事があるのだろう。しかしサユリはそれ以上口を開かない。


 この場で聞いても無駄だと悟り、壱はまたノルドに向き直る。


「ええと、俺は特に気になる事は無いです。しんどいとかも無いですし」


「そうですか。それは何よりです。特にイチくんの隣にはサユリさんがおられますから、益々大丈夫かとは思いますが、万が一何かありましたら受診してくださいね。往診もいたしますから」


「はい。ありがとうございます」


 ノルドの頼もしげな台詞に、壱は小さく頭を下げた。


「ああ、そろそろ時間でしょうか。次の方は来られているでしょうか。イチくん、サユリさん、お疲れさまでした」


「ありがとうございました」


 壱は立ち上がり、診察室を出る。すると待合室のベンチでは、茂造の横にミルが座っていた。


 壱の後に着いて出て来たノルドが笑みを浮かべる。


「次はミルさんですね。診察室へどうぞ。店長さん、イチくん、サユリさん、お疲れさまでした」


「はい。お願いします」


 ノルドの台詞にミルは立ち上がり、壱たちとれ違いざまに丁寧に会釈えしゃくをし、ノルドに促されて診察室に入って行った。


「さて、帰るとするかの。少しはゆっくりで出来るかの」


 茂造が言いながら立ち上がると、サユリは小さく息を吐く。


「ゆっくりは出来るカピが、話もあるカピよ。あまり良い話では無いカピ」


 それは先程のノルドとの会話が起因だろう。壱は小さく息を飲む。


「……ほいほい、解ったぞい」


 サユリの様子を見て察したか、茂造の顔から笑顔が消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る