#78 健康診断の時間割り作りと、藁をいただきに

 食堂、昼の営業を終えると、茂造が何枚かの用紙と付けペン、インクを手にダイニングに現れる。


 壱は珈琲コーヒーを、サユリはミルクを飲んで一息吐いているところだった。


「ノルドに渡す、健康診断の時間割を作るからの。邪魔するぞい」


「うん。紅茶れる?」


「おお、それはありがたいのう。よろしくの」


 茂造はテーブルで早速作業を始め、壱は紅茶を淹れる為にキッチンに立つ。


 まずは薬缶やかんで湯を沸かす。ふたがカタカタと鳴るまでに沸騰させて。


 まずはその湯でティポットを温める。


 茶葉をスプーンではかり、温めたティポットに入れ、湯を静かにそそいで行く。


 蓋をして、蒸らし時間は3分程。砂時計などは無いので、適当に時計を見て測る。


 時間になったら温めたティカップに入れる訳だが。紅茶は高い所から空気に触れさせながら注ぐと風味が立つと聞くが、あまり高くしてしまうと跳ねて周りを汚してしまう。


 掃除が面倒と言うよりは、勿体無い気がしてしまうので、跳ねない高さを保ちつつ、慎重に注いて行く。


「はい、じいちゃん、紅茶入ったよ」


「ありがとうのう。良い香りじゃ」


 茂造は手を止めて、早速ティカップを持ち上げ、そっと一口。


「うん、旨いのう。壱は紅茶を淹れるのも巧いんじゃな」


「本当? ありがとう」


 壱は普段紅茶を飲まないので、淹れる事も殆ど無い。なのであまり慣れていないので、世辞せじでもそう言って貰えると安心する。


 茂造はこうやっていつも壱を褒めてくれる。爺馬鹿じじばかな面もあるのかも知れないが、褒めて伸ばす手段なのかも知れない。


 壱は叱られてもそれを素直に聞き入れるたちである。


 実際、実家の味噌蔵で修行していた時はしょっちゅうお叱りを受けていた。なので叱られ慣れていると言うとおかしいかも知れないが、それを嫌な事だとは捉えていないのだ。


 茂造も、壱が悪い事をしてしまえば叱るだろう。しかしこれまでその機会は無かった。それはそれで、喜ばしい事なのだろう。


 茂造は何口か紅茶を口にした後、また付けペンを手にし、作業を続ける。壱が珈琲を啜りながら手元を見ると、淀み無くえがかれる、やはり壱には読めない、しかしやや見慣れつつある、この世界の文字。


 壱も早く覚えなければと、あらためて思う。


 そうして壱とサユリにとっては静かな時間が流れ──


「ふむ、こんなもんかのう」


 茂造から声が上がった。小さく息を吐き、手元で数枚の用紙を揃えている。


「時間割り出来たの? 見せて」


「ふむ」


 茂造に手渡され、壱は上から順に見てみる。が、やはり。


「読めない……」


 がっくりと項垂うなだれる。その様子を見て、茂造はおかしそうにほっほっほっと笑う。


「明日には文字の一覧表を作ってやるからの。勉強してみたら良いぞい」


「そうする」


 そう言い時間割りを茂造に返そうとすると、サユリが口を開いた。


「壱、我にも見せるカピ」


 そう言われ、サユリの前に並べて置いてやる。


「ふむ」


 サユリはそれをじっくりと眺め、やがて納得した様に頷いた。


「良いカピな。これなら仕事もとどこおる事無く行けるカピ」


「サユリさんにそう言って貰えたら、益々ますます安心じゃの。ではの、夜にノルドに渡してやるかの」


 その時、壱は時計を見る。休憩時間はまだ少しあった。


「じいちゃん、俺少し散歩に行って来るから、渡して来ようか? 営業中だったら、俺らは良いけど、ノルドさんが恐縮しそう」


「そうじゃの。ではそうしてもらおうかの」


 茂造が頷くと、壱はサユリの前に広げていた時間割りを取り、それぞれの右上に振られている番号順に重ね、揃える。


「壱よ、ノルドなら察すると思うが、念の為、埋めるのに聞きに行く時間帯も、この時間割りに合わせてくれたら良いと、伝えてくれんかの」


「解った。じゃあ行って来るね。サユリはどうする?」


「……行くカピ」


 サユリは言うと、のっそりと立ち上がり、床に降りた。




 ノルドの診療所の場所は聞いていたので、行った事の無い壱でも迷う事無く到着する。


 横に広く作り直されたであろう木製のドアの横には、やはり壱には読めない文字で書かれた、木造りの看板。多分「診療所」とでも書かれているのだろうが。


 ドアをノックしてみる。しかし返事は無かった。奥にでもいて聞こえないのだろうか。


「いないのかな」


「開けて声を掛けてみたら良いカピ」


「え、良いの?」


「大丈夫カピ」


 壱は遠慮しつつ、静かにドアを開ける。そっと中を覗いてみると、電気は消えていたが、カーテンが開かれた窓から陽の光が入って、中の様子が良く見えた。


 待合室になっているのだろうか、壁際に数人が座れるベンチが置かれている。そしてそう広くは無い空間の奥にはドアが3つ。それぞれ診察室、患者用の手洗い、居住スペースへのドアだと思われる。


「こんにちはー!」


 奥に向かって大きな声で呼んでみる。するとドア越しに、どのドアからは判らないが、「はい!」と張りのある返事があった。


 ややあって、ノルドは右側のドアから姿を現した。


「おや、イチくんとサユリさん、こんにちは。どうしました? 不調でもありましたか?」


「いえ。昨日じいちゃんが言ってた、健康診断の時間割りを持って来たんです」


 言いながら用紙を差し出すと、ノルドは眼を見開いた。


「そんな、わざわざ持って来てくれたのですか!? 夜に頂きに行くつもりでしたのに!」


 恐縮し、狼狽うろたえるノルド。予想はしていた事だが。


「ああでも、営業中でもお時間を頂くのは申し訳無いと常々つねづね


 これも予想の通りだ。勿論どちらも、壱たちにとっては何でも無い事なのだが。


「大丈夫ですよノルドさん。そんなに恐縮しないでください。俺たちの方が恐縮してしまいますよ」


 壱が笑みを浮かべながら言うと、ノルドはまだ慌てた様に頭を下げた。


「そう言っていただけると……ありがとうございます」


「いえいえ、本当に」


 ノルドにプレッシャーを与えない様にと、笑みを絶やさない。


 そんなノルドを見て、サユリはやや呆れた様に小さく息を吐いた。


「では、この時間割りはありがたく活用させていただきます。ええと」


 壱から時間割りを受け取ったノルドは、それに素早く眼を通す。


「皆さまにお伺いするのも、この時間割りに沿うのが良いですね」


「はい」


 やはりノルドは医者だけあって、頭も良いのだろう。茂造の想像通りだった。


「明日の朝から回って行きましょう。俺、朝いちは苗の水りがあるんで、それが終わったらここに来ますね」


「ああいいえ、そこまでご足労させる訳には。私が迎えに行きますので、壱くんは食堂でお待ちください」


 ここはノルドの性格的に、そうした方が良さそうだ。


「じゃあお願いします。待ってますね」


「はい。明日、よろしくお願いします」


 壱の台詞に、ノルドはまた頭を下げた。




 サユリと並んで食堂に戻る途中、壱はわらが欲しかった事を思い出す。


「サユリ、麦畑に寄りたいんだけど」


「良いカピよ」


 方向転換、麦畑に向かう。


 かつおのタタキを作るのに使うのだ。今日の夜営業に使う魚類と一緒に入荷して貰う様に、漁師に頼んである。


 ようやく藁焼きのタタキが食べられる。壱は高知料理屋でいただいたタタキを思い出し、楽しみで喉を鳴らす。


 麦畑に着くと、精麦小屋の横に茶色く乾燥した藁が積まれていた。その殆どが牛や豚などのえさになる。


 その中から2掴み分でも貰えると嬉しいのだが。


 畑仕事に勤しんでいる女性に声を掛けた。


「ボニーさん、こんにちは」


「あら、イチくんサユリさん、こんにちは」


 明るい笑顔で返してくれた。


「藁を分けて貰いたいんですけど、良いですか?」


「良いよ。どれぐらいいる?」


 言いながら藁の山に向かって歩き出す。壱は後に付いて行った。


「2掴みとかあれば有難いです」


「そんなもんで良いの? もっと持って行きなよ」


「でも家畜の餌にするって聞いてるので」


「全部じゃ無いから大丈夫だよ。でも何に使うの? 肥料か何か?」


「肥料にもなるんですか?」


「なるよ。余った分は麦畑の肥料にしてるよ。だから大丈夫なの」


「じゃ、じゃあ3掴みくらい?」


「あははっ、欲が無いねぇ」


 ボニーは楽しそうに笑い、藁山に手を伸ばすと、両腕でごっそりと藁を抱え上げた。


「ほら、持ってって」


 そう言いながら、藁の束を壱に押し付ける様に。


「わっ、こんなに! 良いんですか?」


「良いんだって。余ったら裏庭にでもいておいたら良いよ」


「じゃあ有り難くいただきますね。ありがとうございます!」


 これだけあれば何節分のタタキが作れるか。しかしこれで余裕を持って作れそうだ。何せ藁の燃える速度が判らないのだから。


「何に使うの?」


「これで鰹の表面をあぶるんです。美味しいですよ」


「鰹? 臭みがあって村の者は食べないけど、食べるの?」


 ボニーがやや驚き、興味深げに訊いて来る。


「俺の世界では良く食べられるんですよ。表面だけを焼く食べ方が多いんですけど、藁を燃やした炎で炙るのが一番美味しいと思います」


「へぇ、それはちょっと興味あるなぁ」


 ボニーが眼を輝かせる。


「食べて貰える機会もあると思います。楽しみにしててください」


「うん。ありがとうね!」


「こちらこそありがとうございました」


 壱はボニーに頭を下げ、またサユリと並んで、今度こそ食堂に戻るべく、麦畑を辞した。

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