#74 フジノの隠し事と、見えている落ち

 フジノは小さく息を吐く。


「マルタさんは、何と仰っていたんでしょうか」


 声が小さいので、壱はサユリ越しに少し耳を寄せ、澄ます。


「ノルドと浮気しているのでは無いかと心配していたカピ」


「えっ!?」


 フジノにしては大きめな声。かなり驚いた様だ。


「まさか。そんな事ある訳無いです。私は患者として、お医者さまであるノルド先生に掛かっているだけで」


 フジノはそう言い、狼狽うろたえた様子で首を振った。


「判っているカピよ。我も壱も、勿論茂造も、お前が浮気をしているだなんて、露程つゆほども思っていないカピ。しかし我らも意外だったカピよ。マルタがあんな思い込みをするカピとは」


「あ、もしかして、私、今まで隠し事とかする必要が無くて、この事が初めて言わなかった事なんです。だからそう思ってしまったのかも。でも、マルタさんにはその理由を知られたく無くて」


「と言う事は、マルタに関わる事なのだカピか?」


「はい……お恥ずかしながら……」


 フジノは消え入りそうな声で言い、俯いてしまう。やや頬を赤らめているだろうか。


「マルタに知られたく無いなら、我らも言わないカピ。だが、どうにも不安でたまらない様子だったカピ。安心させてやる為にも、我らには教えて欲しいカピ。マルタには適当に誤魔化ごまかしておくカピよ」


 フジノか不安げな顔を上げる。サユリを見、そのまま視線は壱に移る。壱はサユリの台詞を思い出し、ニコッと笑って小さく頷いた。勿論壱もマルタに言うつもりは無い。


 夫に隠したい様な病院通い。その理由を考えてみる。


 ご懐妊。いや、それはいの一番に夫に報告したい事だろう。夫婦が子どもを望んでいる場合は特に。


 大病。いや、それはサユリの加護のお陰で、この村では有り得ない。


 さて、どうした事か。


 フジノは迷った表情を見せながら、少し考え、決心した様に大きく頷くと、口を開いた。


「サユリさんたちに相談してみようかとも思ったんです。でもお店がお忙しいのに、こんな事でわずらわせる訳には行かないと思って。そうしたらお医者さまが来られたって聞いて、それならって。あの、実は私、声を大きくしたいんです……!」


 威勢の良いマルタ、大人しくて声の小さいフジノ。アンバランスに思えて、ふたりとも幸せそうに見えた。


 しかし、フジノはいつもマルタに気圧けおされ気味なのだったと言う。


 それが辛かった訳では無い。マルタが楽しそうにフジノに話をしてくれるのを、フジノは笑顔で聞いていた。何時いつだって嬉しい一時だった。


 しかし、マルタと同等とまでは行かなくとも、もっと感情を表現して返したい、そして自分ももっと話をしてみたい、その方がきっとマルタももっと楽しめるのでは無いか。常々つねづねそう思っていたのだと言う。


「なので、ノルド先生に方法を教わって、腹式呼吸の練習をしているんです」


 フジノは言うと、言い切った、そう言う様にまた小さく息を吐き、静かに微笑んだ。


 ああ、成る程、成る程……しかしそれは。


 壱は軽く右手を上げる。


「あの、良いですか?」


「はい、何でしょうか」


 フジノがゆったりと聞き返す。


「それはただの惚気のろけにしか聞こえません」


「え、ええっ!?」


 壱の台詞に、フジノは顔を真っ赤にして慌てる。


「そうカピな」


 サユリも半ば呆れ気味に溜め息を吐く。


「言ってやると良いカピ。マルタは確実に喜ぶカピよ。自分の為にしてくれていたのだカピ。マルタがただ大人しいだけの妻が良いのならともかく、奴はそこまで馬鹿ばかでは無いカピ」


「それは、それは勿論そうだと思います。でも、出来たら、驚かせて、喜んでくれたら良いな、って思って」


「ああ……練習の成果はどうカピか?」


「え? あ、意識をしたら、少しは大きな声を出せる様になりました。でも私対比なので、普通の人の大きさだと思うんですが」


「ふむ……」


 サユリは考える様に眼を閉じる。が、少し後に眼を開く。


「練習の成果を見せてやると良いカピ。今から行くカピよ」


 サユリがきっぱりと言うと、フジノは大慌て。


「え、こ、心の準備が出来てません! 待ってください!」


 そう言うフジノの声は、充分に大きいと言えるものだった。もうかなり腹式呼吸をものにしているのでは無いだろうか。


「大丈夫だカピ。マルタは充分に驚くカピよ。気付いているカピか? 今の声の大きさ、上々だカピ」


「で、でも」


 フジノは煮え切らない。決心が付かない様だ。


「壱、フジノを捕まえるカピよ。逃げられない様にするカピ」


「え?」


 言われて、壱は咄嗟とっさにフジノの手首を掴んだ。


「え、ええっ!?」


 フジノはそれから逃れようと身をよじる。しかし壱は力を弱めない。痛くは無い様に加減しながら。


 壱も解っているのだ。ここで解決してしまった方が、話が早いと言う事を。


 ここで知られてしまっても、フジノの目論もくろみのタイミングだとしても、マルタの驚きの種類は変わるだろうが、程度は変わらない様な気がする。


 やや強引の様な気もするが、壱もサユリの考えに賛成だった。


 このままずるずると日を伸ばしても、マルタの疑惑がふくらむばかりだ。壱たちが適当にはぐらかして報告したとしても、あの様子だと理由が判るまでは悶々もんもんと悩むに違い無い。


 そして隠し事などが出来ないマルタは、きっとフジノといても挙動不審になるだろう。それがフジノの心配や後ろめたさを引き起こす可能性が高い。


 それはあまり良く無い。下手にストレスを溜めさす訳には行かない。


「大丈夫ですよ、フジノさん。マルタさんを信じてらっしゃるでしょう?」


 壱が優しく言うと、フジノは我に返った様に動きを止める。そしてきっぱりと言う。


「勿論です! マルタさんは素敵な人です!」


「なら大丈夫ですよ。意識しないと大きな声を出せないんなら、それを逆手に取るんです。あ、これは言い方が悪いな。それを訴えるんですよ。フジノさんは、マルタさんを喜ばせる事と、不安を拭う事、どちらを優先しますか?」


 壱の穏やかな台詞に、フジノは眼を見開いた。そして、まなじりを下げて俯いてしまった。


「そ、そうですよね……。これは、マルタさんを不安にさせてまで、する事では無いんですよね」


 ぽつりと言うと、顔を上げた。その表情は決意を固めている様に見えた。


「解りました。行きましょう」


「はい」


 壱は頷くと、フジノの腕を解放した。フジノは逃げる事もせず、気合いの入った様な表情でその場にとどまる。


「さ、行くカピよ」


 サユリを先頭に、壱とフジノが並んで畑に向かった。




 畑に到着し、枝豆畑にいるであろうマルタの元へ。マルタは壱とサユリ、そしてフジノの姿に驚いて駆け寄って来た。


「フジノ、どうしたよ?」


「あ、あのね、あのね!」


 フジノは大きく息を吸い、腹式呼吸で少しでも大きな声を出そうとしている様だ。


 壱とサユリは少し離れ、フジノが頑張ってマルタに話している様子を眺めていた。


 心配はしていない。理由がマルタの、夫婦の事を思っての事なのだから、マルタが怒る必要は無いのだ。


 するとやがて、予想通りにマルタの安心した様な歓声が上がった。


「そうだったのか! そうだったのか〜!」


 マルタは両手でフジノの両手を握り、飛び跳ねそうな勢いで喜んでいた。


「良かった〜! 心配したぜ! 言ってくれてありがとうな! よし、これからはふたりで練習しようぜ腹式呼吸!」


 マルタの声はこれ以上大きくなる必要は無いのだが。むしろもう少し控えて欲しいくらいだ。


「サユリさん! イチ!」


 マルタは笑顔のまま壱たちに視線を移し、駆け寄って来た。その後ろからフジノも早足で。


 壱の手を取って、力任せに上下に振った。


「ありがとうな! 本当にありがとう!」


「う、うん、良かったね」


 その振動で、壱は声を震わせる。目眩めまいがしそうなので早く離して欲しい。


 幸いすぐに解放され、次にサユリの頭が撫でられた。サユリは得意げに眼を細めている。


 しかし、良かったと言う思いは本当だ。フジノから理由を聞いた時から落ちは見えていたが、やはり現実になってくれると安堵あんどする。


 マルタとフジノは嬉しそうに微笑みあっていた。壱もついほっこりしてしまう。


「では、無事解決したカピだし、壱、帰るカピよ。フジノも工房に戻ると良いカピ」


「あ、はい。じゃあマルタさん、また後で」


「おう。ありがとうな!」


「こちらこそありがとうございます」


 マルタは、フジノには勿論壱たちにも手を振って、持ち場に戻って行った。


「じゃ、帰ろうか。フジノさん、良かったね」


「はい! サユリさん、イチさん、ありがとうございました」


 フジノは壱たちに深く頭を下げた。


 そして壱とサユリは食堂へ、フジノは陶製工房へと向かって歩き出した。途中までは同じ道のりである。

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