#13 壱、完全復活、からの

 水銀の体温計。ドラッグショップなどで現物を見た事は何度かあったが、実際に使うのは初めてだった。


 壱が家で使用していたのはデジタルの体温計。測り終わったらアラームで知らせてくれるが、水銀のものはそれが無い。


 時計を見て、茂造に言われた通りに3分ほどが経ってから、脇から外す。体温を見てみようとしたのだが、うまく見る事が出来なかった。


「え、これどうやって見るの?」


 目盛りは勿論見える。だから中の水銀が結果を示すのだと言う事は理解出来るのだが、それを目視出来なかった。


「あーこれ角度がいるんだよ。横にして、向こうにちょっと傾けて、そうそう」


 カリルが言う通りにする。角度を少しずつ調整していくと、体温計の中心を埋める水銀の光を見る事が出来た。


「見えた! やった、6度3分」


「良かったじゃん!」


 しっかりと平熱になっている。大丈夫だとは思っていたが、こうして数値に表されると安堵あんどする。これで風呂に入れる。明日から、いや、今からでも働ける。


「じゃあ俺も掃除やるよ。早く終わらせて風呂に行こう」


「どんだけ風呂に入りてーんだよ」


「だって、今朝熱出してから、下げる為に汗も掻いたし。明日からまた働くんだから、綺麗にしとかないと」


「壱はマジメだなー」


 カリルがまた楽しそうに笑う。ふと洗い物に精を出していたサントと眼が合うと、良かった、そう言う様に頷いてくれたので、壱も笑って頷き返した。


 カリルが調理台を拭き、サントが洗い物。壱は箒を出して、床を掃き始める。するとそのタイミングで茂造が戻って来た。


「壱、掃除などして大丈夫なのかの?」


「大丈夫。熱も測ったけど、平熱に下がってたからさ」


「しかしのう……」


 壱が言っても渋る茂造。壱は手を止めて、静かに口を開いた。


「あのさ、じいちゃん、俺もう14歳の子どもじゃ無いよ。酒も飲めるし」


 ビールはまだ少し苦いと感じるが、白ワインと麦焼酎のソーダ割りは美味しいと思う。


「タバコだって吸えるし。吸わないけど」


 大学時代、20歳になった同級生の何人かが興味本位で口にしていたが、壱は実家が実家だからか、吸いたいとは思わなかった。


「選挙権だってあるし。今は18歳に引き下げられたけど」


 向こう数年は投票に行けなくなった訳だが。


「もうさ、それなりに大人なんだよ。だからそんなに心配しなくても大丈夫だからさ。しんどい時はしんどいって言う。周りに頼る事をこばむなんて、そんな馬鹿な事はしないよ」


 そう言ってにっこり笑うと、茂造は驚いた様に眼を見開き、しかし次第に眼を細める。頬を緩め、感慨かんがい深げに幾度いくどと頷いた。


「そうか。そうじゃの。うんうん、そうじゃの」


 そう言いながら、目許を拭った。


「早く掃除終わらせてさ、まかない食べて、風呂行こうよ」


「そうじゃの」


 茂造はそう言いながらまた頷いた。壱はまた手を動かし始める。カリルとサントは気を使ってくれたか、口出しする事も無く、黙々と掃除や洗い物を進めていた。




 村には共用の風呂が集会所の隣にあり、そこを村人全員が入れ替わり立ち代り利用する。いわゆる銭湯せんとうだ。


 風呂は薪で沸かすので、なかなか重労働だ。シャワーは男湯と女湯にそれぞれ1台しか無いので、基本は湯船の湯で頭や身体を洗う。


 なので全身を洗ってから湯船に浸かる事がルールでありマナー。それは壱たちの世界でもこちらの世界でも同じだ。


 山からの水資源が豊富な村なので、毎日湯を変えても微々たるものなのだそうだ。


 村人ひとりひとりにロッカーが割り当てられていて、桶などはそこに置きっ放しである。なので着替えとタオルだけ持って行けば良い。


 食堂を閉め、全員で掃除をした後、まかないを頂く。営業中にタイミングを見てパンを摘むが、立ちっ放しもしくは動き回るメンバーのお腹は満たされない。賄いは大事である。


 賄いはその日に残ったメニューを大皿に盛り、みんなで分け合う。毎日来る人数が決まっているので、過度に余る事も足りなくなる事も無い。ポトフだけが無くなるという日もあるが、その場合はパスタや肉がその分余るので問題無い。


 食べ終わり、手早く洗い物を済ませると、全員で銭湯に向かう。なのでメンバーは夜の営業の出勤時には着替えなどを持参だ。


「あぁん、今日も疲れたわぁ〜」


 道中、マーガレットが伸びをしながらつやっぽい声を出す。


「ごめんな、俺が熱を出しちまったから」


 壱があらためてみんなに詫びると、マーガレットは眼をくりっと開いた。


「あらぁ、そんなの気にしなくて良いのよぉ。誰だって調子崩す事なんてあるんだからぁ。ワタシだって風邪引いちゃって、お休みもらった事もあるのよぉ」


「そうだよイチ。困った時はお互いさまって言うの? 店長が前言ってたんだー イチたちの世界に伝わるコトワザ? だっけ? それに忙しいのは毎日だもん。毎日疲れてるよボクたち!」


 メリアンも気遣ってか、明るい調子で言ってくれる。


「あ、あの、でも、それは心地の良い疲れと、言うか、達成感と、言うか」


「そうそう、それそれ!」


 マユリの補足にメリアンが全力で乗っかる。


「昨日はイチがいてくれて本当に助かったからさ、今日はしんどく感じたけどさ、元々3人で厨房やってたんだもんな。いやーしみじみ人の大切さを思い知ったっつーか。な、サント」


 カリルの台詞にサントは大きく頷く。


「だからさ、イチ、明日からまたよろしくな! 頼りにしてるんだからよ!」


 この世界に連れて来られてから出会った人は、多少のトラブルを起こす人はいたものの、みんな良い人ばかりだ。素朴そぼくな村だからだろうか。


 壱の心が温まる。まだ知らない事も多い。不慣れな事も多い。数年後には去るかも知れない。だがここにいる間は、この村の一員として、ユミヤ食堂の調理人として、出来る限りの事をしようと思った。


 胸元でそっとこぶしを作る壱を、茂造が穏やかな眸で見つめていた。サユリは壱の足元で満足そうに歩みを進めていた。




 銭湯に到着。男湯と女湯、そして個室に分かれている。女湯はマユリのみ。心が女性でも身体が男性のマーガレットは個室を使用。メリアンは女装しているだけなので、男湯である。


「サユリさんは、今夜はどうするかの?」


 茂造が聞くと、サユリは少し考えた後、言った。


「うむ、今夜は湯を浴びるカピか。昨日は面倒で水浴びだけで済ませてしまったカピが、我も食堂で働く者として、常に清潔にしておかねばならないカピな」


「水浴びでも充分に綺麗になると思うがの。どれ、では洗ってやるかの」


「今夜は壱に頼むカピ。壱、我を洗う栄誉を与えるカピ」


「え、洗うって、俺が? て、いや、その前に、え?」


 壱が慌てると、サユリが怪訝けげんな表情で首を傾げた。


「何を狼狽えているカピか」


「え、だってサユリってメスじゃ」


 最初サユリの声を聞いた時には、少年の様な声だと思った。だが幼い子どもの声は男の子も女の子も大した違いは無い。何せ名前がサユリだ。壱はメスだと疑っていなかったのだが。


「何を言っているカピ。我はれっきとしたオスカピ。ほら、鼻に立派な臭腺しゅうせんがあるカピ」


「じゃあなんで名前がサユリって」


「我の名付け親は茂造カピ。それまでは適当にカピバラとか呼ばれていたカピ。誰も特に名付けようとはしなかったからカピな」


「それじゃあ呼ぶのに不便じゃと儂が付けたんじゃ」


「じいちゃんサユリがメスだと思ったのか?」


「いや、最初からオスじゃと聞いていたぞい」


「じゃあ何でサユリ」


「吉永小◯合さんは綺麗じゃろう?」


 ああ……サユリスト……壱はつい遠い眼をしてしまった。


「サユリという名がお前たちの世界では女性の名前だと知っていたカピが、まぁ別にそこはこだわるところでは無いカピ。名前があるのはなかなか気分が良いカピ。名付け親に拘りがあるなら、それで良いカピ」


「まぁ、サユリが納得してるなら」


 サユリはオス、サユリなんて名前だけどオス。壱は頭に叩き込んだ。




 銭湯の後は、全員で女性を家まで送る。治安の良い村ではあるが念の為。まずは銭湯から近いマーガレットから。女性扱いである。それからマユリ。メリアンは該当しない。


 マユリが家の中に入るのを見届けてから、男性陣は解散である。


「じゃあ、また明日もよろしくの」


「はーい、お休みっす」


「お休みなさーい!」


 身体を清めてさっぱりしたからか、カリルとメリアンは元気に挨拶し、サントは軽く頭を下げると、手を振る壱たちに見送られてそれぞれの家に向かって歩いて行った。


「さて、儂らも帰るかの」


 食堂はもう近い。壱たちは昼よりは少し気温の下がった、心地良い夜風に吹かれながら、ゆっくりと帰途きとに着いた。




「で、サユリは今夜もここで寝るんだな」


 茂造に就寝の挨拶をした後、当然の様に壱の後に付いて、部屋に入って来るサユリ。


「うむカピ。我はコンパクトだから、邪魔にはならない自信があるカピ」


「いいけどね。もしかしてまだ話が?」


「昨日言い忘れてた事があるカピ。この村の事なのだカピが」


「うん」


 壱がベッドに掛けると、サユリも上に上がって来た。


「大半が前科者なのだカピ」


「は、はぁ!?」


 しれっと紡がれた物騒ぶっそうな台詞に、そしてこれまでに感じていた村の印象に似つかわしく無い内容に、壱は驚いて声を上げた。

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