#12 心と身体に優しい一品

 着替えて階下に降り厨房を覗くと、最初に壱に気付いてくれたのは、コンロでフライパンを握っていた茂造だった。


「おお、壱。マユリに聞いたが、本当にもう大丈夫なのかえ?」


 茂造の声にカリルも気付いて、「大丈夫かー?」と、いたわりの言葉を掛けてくれる。無口なサントが向けてくれる眼からも、心配してくれている感情が見える。


「うん。迷惑掛けてごめんな。もう大丈夫だから」


「迷惑とかは全然無いけどよー、気を付けなきゃよー」


「ありがとう」


 厨房はやはりフル回転だった。昨日パスタを担当していた壱がいないので、ホールからパスタの注文が入ると、その時動ける人間が素早く動く。


 そんな光景を見ると、少しでも手伝いたくなってしまう。


「じいちゃん、パスタ俺やるよ」


 そう申し出ると、茂造は首を振った。


「病み上がりなんじゃから、明日までおとなしくしておれ。それより腹が減ったんじゃろ?」


「うん、まぁそうなんだけど」


「じゃあ何か作ってやるかの。消化の良いものが良いかの」


「いや、それは本当に俺がやるから。コンロひとつ借りて良い?」


「それは勿論じゃ。大丈夫かの?」


「大丈夫。ポトフのスープ少し貰って良い?」


「おお、構わんぞ」


「ありがとう」


 壱は棚から中サイズの鉄製の鍋を取ると、ポトフの大鍋からレードルでスープを掬って入れる。


 そこに昨日サユリに精米せいまいして貰った魚沼コシヒカリの無洗米を入れ、中火に掛けた。


 スープが元々熱いので、すぐに沸く。くつくつと軽く沸いた状態を保ち、米が鍋底にくっついてしまわない様に、レードルでゆっくり混ぜながら火を通していく。


 最初は乾いたもの同士が軽くぶつかった様な、カラカラとした鈍い音がしていた鍋の中が、次第に重みを増して行く。米がコンソメスープを吸って、ふくらんで来た証拠だ。


 様子を見て、数粒すくって食べて見る。うん、しんまでしっかりと火が通っている。


 そこで少し火を強める。ぐつぐつと沸いたところで、真ん中に卵を割り入れる。素早くふたをして、火を止める。


 数分待って蓋を開けたら、洋風雑炊の出来上がりだ。鍋の真ん中で卵が良い具合に半熟状態になっていた。


 卵はボウルなどでほぐして回し入れるのも良いが、少しでも洗い物を減らしたいという庶民的な思いがあった。


 トレイに鍋敷きを置き、鉄鍋を置いて、小鉢とスプーンを添える。


「じいちゃん、みんな、ありがとう。今日は有り難く、ゆっくりさせて貰うな」


「おお、それは何じゃ?」


「洋風雑炊ってとこかな。ベースはポトフのスープだから、いろんな野菜のエキス出てるからうまいと思うんだよね」


「ほうほう、そういうものもあるんじゃな。また儂にも教えてくれの」


「うん、簡単だよ。じゃ、いただきます。上に行って食べるよ」


 居住スペースにもダイニングはあるのである。普段は朝食を摂る時ぐらいにしか使われていないらしい。


「うむ。治ったとは言え、振り返す事もあると聞いたぞ。今夜は食べて、またゆっくりと寝るが良い。明日からはまた忙しいからの」


「うん、ありがとう。お休み」


「うむ、お休み」


 茂造と、カリルとサントにも見送られて、壱は2階に上がってダイニングに向かう。テーブルにトレイを置き、早速食べ始める。


 半熟の卵を黄身から崩して、全体に混ぜて行く。そうすると余熱で、更に卵に良い加減に火が通って行く。卵がふわりとして来たところで小鉢によそって、まずは一口。


 うん、美味しい。米がポトフのスープをしっかり吸って、ほっこりと味わい深く、そして優しい。


 それは数時間掛けてブイヨンを取って、そこからまた時間を掛けてコンソメにしているのだから当然だ。そこから更にポトフの具材からも出汁が出ているのである。


 そして、とろりと柔らかい卵とふっくらとした米が胃に優しい。身体が温まって行く。何といやされる事か。


 そして温度の下がりにくい鉄鍋だからか、底にはほんのりとおコゲも出来ていて、香ばしさも味わう事が出来た。


 先ほどまで寝ていたと言うのに、また良く眠れそうだ。


 壱は洋風雑炊を綺麗に平らげると、鉄鍋や小鉢などを手早く洗い、部屋に戻る。既に完調ではあると思うが、念には念を入れて、朝まで眠れば、もう完璧な状態になると思う。


 SNSの事は引っかかる。だがこれは自分ひとりで判断して良い事では無いのだと思う。明日茂造とサユリに相談してみよう。


 壱は温まった身体のまま急いで新しいパジャマに着替え、またベッドに潜り込んだ。布団素晴らしい。布団ブラボー。そんな事を思いながら、眼を閉じた。心地よいままに、また壱は驚くべきスピードで、意識を手放して行った。






 驚くほどに爽快そうかいに眼が覚めた。あれ、もう朝か? 眠っていると過ぎる時間を体感出来ない訳だが、それにしても短かった様な気がする。


 それはその通りで、窓のカーテンを開けると、外は暗いまま。ベッド脇の時計を見ると、22時を過ぎたところだった。


「ありゃ」


 あれから1時間あまりしか寝ていない事になる。だがまた寝ようと言う気にはなれなかった。元気になったからか、風呂に入りたくなった。


 そろそろ食堂も閉店準備に入る頃だろう。昨日のボニーの様な一件が無ければ、だが。


 厨房までならこのままでも大丈夫かな。壱はパジャマのまま下に降り、厨房に顔を出した。


「あれ、イチ。寝てなきゃダメじゃん」


 魚をさばくのに使用していた包丁とまな板を洗いながら、カリルが声を掛けて来た。


「もう本当に大丈夫なんだよ。だから風呂に入りたくて。汗いたから」


「そっか、熱出てたんだもんな」


 カリルがアハハと笑う。


「今夜は相談とかそういうの無かった筈だから、掃除終わったら風呂行けると思うぜ。だから着替えて準備して来いよ。店長には言っとくからさ。今フロアにいるんだ」


「ありがとう」


 壱は着替える為に部屋に戻る。先ほど着ていた服、黒のシャツとカーキのパンツに着替えると、風呂後に着る服などをセットにし、袋に入れてベッドの上に置いておく。


 厨房に行くと、茂造もフロアから戻って来ていた。足元にはサユリもいた。


「おお壱、風呂に入りたいって、大丈夫なのかのう。熱が出た時には風呂は駄目だって聞いていたがのう」


「もう熱も下がってるしさ、熱の時の風呂が駄目っていうのは、環境の問題なんだって。この村暖かいし、湯冷ゆざめする様な事も無いだろうし、帰って来たらすぐにベッドに入るから」


「じゃがのう……おお、そうじゃ、熱を測るかの」


 茂造は渋っていたが、ふと思い立った様に2階に上がり、すぐに戻って来た。手にしていたのは木箱で、中から取り出したのは水銀の体温計。


 茂造はそれを振ると、壱に突き出した。


「脇の下で測るんじゃよ。3分じゃぞ。熱が無いと分かれば風呂に入っても良いからのう」


 そう言い残して、茂造はフロアに出て行った。サユリは残って壱の足元にり寄って来たので、壱はしゃがんで聞いて見る。


「じいちゃんて、あんな過保護だっけ?」


「距離を図っている最中なのかもカピ。もしくは、茂造の中での壱は、別れた10年前のままなのかもカピな。子どもカピ。身内とは言え10年も離れていたのだカピ。壱がその間にどういう成長をしているかなんて、茂造には判らないカピ。幸いにも良い子に育ってくれた様だと茂造は言っていたカピがな」


「うち蔵だろ? 家族全員が仕事してるんだよ。だから家事なんかは俺も妹も手伝ってたし、当然自分の事は自分でやるってしつけられてたよ。それよりも家事育児は女の仕事、身の回りの世話さえ奥さん任せって世代のじいちゃんの方が、こっち来た時大変だったんじゃ無いのか?」


「ふむ」


 サユリはどこか懐かしむ様に眼を細めた。


「包丁を持った事が無ければ、洗い物ひとつもした事が無かったカピ。湯もまともに沸かせなかったカピね。その時を思うと、成長したカピよ」


「そんなに酷かったの? じゃあ何でじいちゃんを連れて来ようと思ったんだよ」


「……暇そうにしていたからカピ」


「そんな理由!?」


 実際はその頃、1週間前に細君さいくんを亡くして気落ちしていた筈だ。暇と言えば暇だったのかも知れないが、サユリのことだから、そんな茂造の気持ちをおもんばかったのかも知れない。異世界などに連れて行かれれば、寂しい気持ちなど吹っ飛んだだろうから。


「幸いだったのが、それらの仕事をすんなりと受け入れてくれた事カピ。この村は男も女も、それこそ子どもでさえも仕事をしているカピ。食事はこの食堂に任せているカピが、掃除と洗濯は家族全員でやるカピよ。最初は「何で儂が」みたいな事を言っていたカピが、村のみんなを見て考え方をあらためたカピ。この世界では、壱たちの世界の「古き良き」なんて戯言ざれごとは通用しないカピ」


 戯言と来たか。だが確かにそうかも知れない。夫が稼いで、妻が家の事をやる。この世界全体の事は判らないが、少なくともこの村ではそうは行かない。


「茂造、壱が来るのを楽しみにしていたカピ。この部屋を壱に使ってもらうんじゃ、と嬉しそうにいそいそと部屋を掃除していたカピ。壱にとってこの異世界転移は災難だったかも知れないカピが、せめて次に我が異世界を渡れる様になるまでは、茂造の傍にいてやって欲しいカピ」


「うん。解ってるよ」


 壱は言うと、眼を伏せる。先代がどうしたのか、どうなったのかは知らないが、茂造はサユリがいたとは言え、実質ひとりぐらしが続いた筈だ。寂しいと思っても不思議では無い。そこで身内である壱を頼ったとしても、責められるものでは無い。


「では壱よ、茂造に渡された体温計で熱を測るカピ。戻って来てまだ測っていなかったら怒られるカピ」


「おっとそうだった」


 壱は慌てて体温計を脇の下に入れた。

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