#09 スイーツで癒しと喜びを

 壱が冷蔵庫から出したのは、バターと卵とミルク。棚からは砂糖と蜂蜜。調理台の箱に残っていたパンを1つ取り、4当分にスライスする。


 ボウルに卵を割りほぐし、ミルクと砂糖を加えて良く混ぜる。泡立て器が見当たらなかったのでフォークで。そこにパンを浸した。


「なになにイチ、何作ってんのー?」


 カリルが掃除の手を止めてのぞき込んで来る。


「え、あ! 掃除! ごめん!」


「良いって良いって。明日からはがっつりやってもらうからよ。それよりそれ何?」


「フレンチトースト。この世界にある?」


「聞いた事無いなー」


「俺らの世界のスイーツなんだ。ちょっと女性の間で流行はやった事もあるんだよ」


 妹の柚絵の好物でもあり、おやつに良く作ってやった。


 柚絵も料理は出来るのだが、人に作ってもらうのが好きな様で、良く作らされた。そのお返しにと、夕飯の時などに壱の好きな味噌料理を良く作ってくれた。


「へー旨そう。どーすんのこれ」


「フロアでエキサイトしているボニーさんに食べてもらって、落ち着いてもらおうと思って」


「ああ、女って甘いもん好きだもんな。まーたシェムスが村の女の子にちょっかい出したって? りねーなー」


女癖おんなぐせ悪いんだってね」


「そーなんだよ、まったくよー ボニーなんて良い女なんだぜ。そんな嫁さんもらっておきながら、他にもって、呆れた奴だぜ」


「へぇ、ボニーさんて良い女なんだ」


「おう。女はみんな良い女だろ?」


 ……もしかしたらカリルも女好きなのかも知れない。癖が悪くなければ良いのだが。


 さて、作業に戻る。パンを液に浸す為に、本来なら少し置いておきたいところだが、今回は時間が無いのでフォークの背で押し付ける様にして染み込ませる。


 しっかりとしっとり浸かったところで、鉄製のフライパンをコンロに掛け、バターを落とす。しゅわしゅわと音を立てながら程良く溶けたところで、パンを入れる。


 少し余った液もパンに掛ける様に入れ、弱火でじっくりと火を通して行く。バターの香ばしく、だが液の甘い香りが厨房にただよう。


「イチ! すっげーいい匂い! オレも食いたい!」


「後で作ってやるよ。じいちゃんが良いって言ったらだけどな」


 フライ返しを使って焼き色を見る。うん、綺麗なきつね色だ。ひっくり返す。そしてまた火を通して行く。


 気付くと、洗い物を終えたサントも近くで鼻をひくつかせていた。


「サントも甘いもん好きだもんなー」


 カリルが言うと、サントは小さく頷いた。無口な性格と体格が甘党とミスマッチで、少しイメージが変わる。


「よし、完成っと」


 焼きあがったフレンチトーストを皿に盛り付け、蜂蜜を掛ける。出来上がりだ。


 生クリームやアイスクリームがあれば添えたいところだが、無いのでシンプルに。


 茂造に無断でした事で、おとがめを覚悟しつつ。しかしあの怒りにまみれたボニーに少しでも落ち着いてもらいたいと思って動いた事だった。


 早速フロアに出る。匂いをぎ付けたのか、何人かが壱を見た。


「じいちゃんどうなった、て、まだ殴られてたか」


 ボニーはシェムスに馬乗りになって、まだまだ足りないと言う様に腕を振り上げていた。シェムスはおとなしくされるがまま。


 とは言え、やはりボニーは手加減しているのか、さほどシェムスにダメージは感じられなかった。


「ボニーも相当我慢がまんしていたみたいじゃのう。ところで壱よ、それは何じゃ?」


「フレンチトースト作った。ボニーさんに食べてもらえたらと思って」


「ほっほっほ、なるほどの。しかし壱よ、そんな洒落しゃれたもんが作れたんじゃなぁ」


「良く作ってたんだ、柚絵の好物」


「ほうほう。おお、これこれボニー、そろそろ許してやれんかの。明日も働いてもらわにゃならんじゃろ」


「そうね! そうよね!」


 そう言いながら、ボニーのこぶしはシェムスの二の腕を打った。そして大きく溜め息を吐いて立ち上がる。


「シェムス、立って」


 シェムスは言われるがままに、のろのろと立ち上がる。


「向こう向いて。壁の方」


 ボニーに背を向け、壁に向かって立つ。その瞬間ボニーは足を素早く振り上げたかと思うと、シェムスの背を思いっ切りり付けた。


「っ!」


 シェムスは声にならない声を上げ、今度は本当に吹っ飛んだ。身体の全面を壁に打ち付け、そのままずり落ちて行く。


 これは加減一切無し、ボニーの全力だった。


「あー! すっきりした!」


 ボニーは言葉の通り清々しい表情で言い、右手を大きく天に突き上げた。壱の頭の中でゴングの音が鳴り響く。勝利、まさにそれが相応ふさわしいたたずまいだった。そしてまた大きな溜め息をひとつ。


「メリアン、お水ちょうだい」


「はいはーい」


 メリアンがカウンタに小走りし、水を入れた銅製のカップを持って来ると、ボニーに手渡す。


 ボニーはそれを一気に飲み干すと、「ぷはー!」と息を吐いた。


「さてと、シェムスを起こして帰らなきゃ。マゼラとテナムにも謝らせなきゃ。て、あれ、何か甘い良い香りがする」


 ボニーが鼻をひくつかせたところで、壱が声を掛ける。


「ボニーさん、よければこれ、食べませんか?」


 わざと少しくだけた言い方をしてみる。メリアンたちホール係の接客の様子を聞いていたので、この方が良いと思ったのだ。


「なぁに? それ。あなた誰?」


「あ、俺はじいちゃ、店長の孫で壱と言います」


「ああ、あなたがシェムスが言っていた。よろしくね」


 ボニーは笑顔を寄越よこしてくれた。綺麗だった。カリルが良い女だと言ったのが解った気がする。


「よろしくお願いします。ボニーさんが甘いものが好きそうだって聞いたんで、作ってみたんです」


 そう言って、手にしていたフレンチトーストにナイフとフォークを添えてテーブルに置く。ボニーはその香りにつられる様に鼻を近付けた。


「あ、これこれこの香り。すっごい甘そうで香ばしくて良い香り! え、何? 私が頂いちゃって良いの?」


 ボニーがひとみを輝かせる。壱はその反応にほっとする。


「もちろんです」


「じゃあ、早速頂くわね!」


 ボニーは嬉しそうに言うと椅子に掛け、ナイフとフォークを手にした。食堂の面々、そして客が見守る中、フレンチトーストにナイフを入れた。


 しっとりふんわりとしたそれは、ナイフで簡単に切れる。ボニーは1口大にカットすると、皿の上で艶々つやつやと輝いている蜂蜜をたっぷり付けて、躊躇ためらいも無く口に放り込んだ。


「……やだこれ何、おいしーい!」


 濃厚なミルクと甘い砂糖に卵のコク、そしてバターの香ばしさが合わさり、そこに蜂蜜が加えられる事で甘みとコクがプラスされ、口の中に広がる。それがフレンチトーストの真骨頂しんこっちょうだと壱は思っている。


「喜んでもらえて良かったです」


 壱は安堵する。柚絵もいつも美味しい美味しいと食べてくれてはいたが、家族以外に食べてもらうのは初めてだったので、少しは不安もあったのだ。


「でもイチくんどうして? いつも話を聞いてもらってシェムスを殴るだけですっきりするのに、こんなサービスなんて」


 そう言いつつボニーは手を動かし続ける。


「いえね、ほら、甘いものって人を落ち着かせるでしょう? これならここにある材料で作れるから、食べてもらって、少しでも穏やかな気持ちになってもらえたらって」


 壱が少し照れた様に言うと、ボニーは手を止めてうるんだ眼で壱を見つめた。


「い、イチくん! 何て優しい良い子!」


 ボニーは感極かんきわまった様子で言うと、壱に力一杯抱き付いて来た。あ、これ今日で2回め。そう思いながら壱はよろける。


「ああっ ごめんなさいね! 嬉しくて!」


 しかしボニーは壱や周りが何かを言う前に離してくれた。


「えーいいなぁ。イチ、ボクも食べてみたーい」


「そんなに美味しいのなら、ワタシも食べてみたいわぁ」


 メリアンとマーガレットがそう言うと、客たちも俺も俺も、と声を上げる。


「じいちゃんが良いって言ってくれたらもっと作るよ。良い? じいちゃん」


 茂造は「うむ」と少し考えると、言った。


「そうじゃの。ボニー以外の客からはきっちりお代を頂いて、従業員の分は今夜のまかないに加えるかのう」


 すると食堂内に歓声が上がった。いつの間にかカリルとサントも混じって声を上げていた。


「あ、あの、イチ、さん」


 マユリが近付いて来る。


「こ、この、フレンチ、トースト、でしたっけ? 私も一緒に、作って、い、いいですか?」


 顔を輝かせて壱に詰め寄る様に言う。壱は少しけ反った。


「ええと、じいちゃんが良いって言うなら。調理師免許とか、あれ? 俺今日普通に厨房手伝ってた」


「壱がやってた範囲なら問題は無いから大丈夫じゃ。どの道この世界では1年の実地経験がいるでの。この世界の縛りは緩いんじゃ。じゃから壱がフレンチトーストやらを作って客に出すのも、マユリが手伝うのも、何の問題も無いんじゃ」


「何か線引きが良く判らないけど、まぁ大丈夫なら良いや。マユリさん、じゃあ一緒に作ろうか」


「は、はい!」


 マユリは嬉しそうに笑みを浮かべると、壱の腕を取って厨房に向かった。


 そうか。マユリは吃音癖きつおんぐせはあるみたいだが、決して引っ込み思案だとかそういう訳では無いのか。壱の懸念けねんは余計だった様だ。


 壱はマユリに引っ張られるままに厨房に入った。

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