その8 豊穣なるヘスペリデス。





 地平の彼方までを引き裂いた閃光もやがて残照ざんしょうとなり、地表を包む大気には馥郁ふくいくたる女神の残り香だけが残留していた。ひとつに溶け合えないはだえはだえの境界に覚えるもどかしさや、感傷のたぐいの一切合切を烏有うゆうして、新たなる世界が胎動を始める。


 大いなるそのことわりは、原初、孤掌難鳴 こしょうなんめいあえ雛鳥ひなどりによってもたらされたものであった。霧雨きりさめの降り注ぐ森で、親鳥を待ち侘びる寂しさに身を震わせながら──、創生の神である彼女は、永遠に等しい悠久の暗礁あんしょうほとりで、舞い踊る塵やほこりを結びつけて星座を描き出したのだという。


 そうして生まれた幻想の中の一つが、死を司る剣閃けんせんの女神であった。月も恥じらうほどに艶やかな銀色の髪が戦場に揺れるたびに、ありとあらゆる生命いのち戦塵せんじんと化して数多あまたかばねが積み上がった。


 だが殺戮に殺戮を重ねて、剣閃の女神は心を病んでいった。静寂しじまが音律を得るよりもずっとはやく、彼女の精神は暗闇に堕ちていったのだ。


 その深淵へと手を差し伸べる愉悦は、甘露かんろのように白痴たわけた瑞々しさをもって、創生の神の喉を潤したのだという。


 つまりはそれが、この世界で【原罪】と呼称され、人々におそれられているものの正体である。


 創生神ヴァールは、死の女神である彼女をウィヌシュカと名付けた。




 その名が宿した意味は、




 多くの生命を愚弄し踏み躙ってきた彼女だけが、いたずらに輪廻を生み出す創世神ヴァールにかしずくことをゆるされたのだ。ヴァールが【原罪】の乙女に陶酔し、堕落した己を自覚するまでにそう時間はかからなかった。


 では怠惰なる創世神は、如何様いかようにして自らを罰したのか。その答えは明瞭で、つ簡潔であった。


 創世神ヴァールは、転生の女神リュイリィへとその呼び名を変えて、大いなることわりの中へと自らの身を投げたのである──。





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「ちょっと待って。やっぱりボクは色々と納得がいかないよ」


 下界ミッドガルドのどこかに在る果樹園で、朝の陽射しに目を細めながらリュイリィが言った。その右手に握られているのは、たった今書き下ろされたばかりの新しい聖典である。


「そもそもどこさ、ヒノモトって国はどこにあるのさ!」


 カラクリ王国ヒノモトのくだりには、赤い塗料で罫線が引かれていた。きまぐれな風が聖典を捲り上げれば、他にも改善点が記されている場所が散見される。


「ん。そんなに気に入らないかな。今度の聖典はかなりの自信作だったんだけど」


 色々と合点がいかない様子のリュイリィに応じているのは、瘴気と書紀の神であるシリカであった。可愛らしいシルエットのフレアワンピースに身を包んだシリカの姿は、ともすればリュイリィよりもずっと幼い少女のように映る。

 

 シリカの訝しい眼差しは「面倒事に巻き込まれたぞ」と言わんばかりで、聖典の主人公であるリュイリィを明らかに非難していた。


「なんだかゴーマンな言い分だと思うけれど、いいよ、文句があるなら聞いてあげる」

「だってさ、ウィヌの扱いがひどすぎない? そりゃウィヌには、たまぁに天然なところが目立つけどさ……。それにしたってこのお話の中のウィヌは、あんまりにもポンコツですっとこどっこいじゃん!」


 ぷんすかと頬を膨らませながら、シリカに躙り寄るリュイリィ。


「そうかな、我ながらウィヌシュカの性格をよく捉えてるなって、自画自賛したいくらいなんだけど──、っていうか、すっとこどっこいってどこの国の言葉なのかな」


 さして興味もなさそうにシリカが尋ねる。退屈そうにあくびを噛み殺すシリカの仕草を見て、今度こそリュイリィが地団駄を踏んで暴れ出すのだった。




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