第48話 持たざる者の刃を。





 鍾乳石から滴り落ちる水滴がウィヌシュカの頬を打った。三柱の主神からの解放を悲願としたはずであるのに、その達成を目前にした今、ウィヌシュカの心には伽藍堂がらんどうのような虚しさが広がっている。


 死神の大鎌デスサイズを構えたウィヌシュカに代わり、リュイリィが水瓶トロイアを発光させて光源とした。ぬらぁりと、ブリアレオスが焼け焦げた肉体をふらつかせる姿が浮かび上がる。


 酩酊の度合いが過ぎて直立出来ない彼は、神具である河を焦がす槍スヴォルを支えにして何とか転倒を免れていた。突如現れた上玉の女たちに、喉輪のどわに締め付けられているような濁声だくせいで問いかける。


「なぁ、テメーらも一杯やるか? 蜜酒は良いぞ。脳みそにまで染み込む酒なんざ、のどこを探したって他にないぜ」


 ブリアレオスが顎先で促した暗がりの奥に、年季を感じさせる木樽が並んでいた。ウィヌシュカの横薙ぎの一閃が、古びた木樽の幾つかを無惨に斬り砕き、流れ出た蜜酒が芳しい香りを放つ。


「こんなものがなくても、愚鈍ぐどんな私たちは充分に酔わされている」

「ああん? この世界を支配する俺様に向かって、テメーのその態度は何だ?」

「世界を語る資格など私たちには無いのだ。ましてや、などと──」


 ウィヌシュカの言い終わりを待たずして、ブリアレオスは窄めた口元から火焔の吐息を噴射した。ウィヌシュカの器用な手捌きによって、死神の大鎌デスサイズは風車のようにその炎を捌いていく。


「その程度の曲芸で俺様に挑むとは、愚かな!」


 ブリアレオスの剛力が河を焦がす槍スヴォルを振るうと、放たれた凄まじい熱気が空間を歪めた。


 深い洞窟の奥に揺らめく、起きるはずのない蜃気楼。ただでさえ醜いブリアレオスの顔が、怒気に塗れてより醜悪なものへと変化する。最初から分かってはいたことだが、やはり話をしてどうにかなるような相手ではない。


 だがそれを差し引いても、ブリアレオスのあまりの愚かしさに、ウィヌシュカの伽藍堂は広がるばかりだった。


 ──ああ、こんなにも傲慢だからこそ! だからこそ私たちの心は、揺れ動く心グングニルに巣食われたのではないか。それこそ、足元を掬われるようにして。


 燎原りょうげんの火の如く湧き上がるウィヌシュカの苛立ちの陰に、一片ひとひらほどの恐怖があった。しかしそれは、冥界の王に対して向けられたものではない。口に出すのも憚られる、一つの最悪な仮定。


 ──そもそも私たちが、そのように創られていたのだとしたら? 何一つ書き換えられずとも、慢心と傲慢に彩られたとして、生命の原木に成った蟲喰い果実だったとしたら?


「ウィヌ、ダメだよ。揺らいじゃダメだ」


 裾を引かれて目線だけで振り返れば、リュイリィの強い眼差しが在った。背中を預けるに相応しいパートナーの姿が、ウィヌシュカを闇から引き戻す。


「ブリアレオス、終わりにしよう。我は死の女神ウィヌシュカ。不毛なるお前に絶命を授け、この世界を在るべき姿に還す者だ」


 ブリアレオスを見据えるウィヌシュカの紅い瞳には、憐れみと哀しみの感情が複雑に混ざり合っていた。ブリアレオスには解らない。どうして王であるはずの自分に、そういった憐憫の情が向けられているのか。


火焔の豎子エンチャント・ムスペル


 ウィヌシュカが詠唱を呟くと、死神の大鎌デスサイズの刀身がどすぐろい炎を纏った。万年氷壁ヴァニラの今は亡き老兵が、もしも今この場に居合わせたのなら──、彼ならばきっと、こう喩えるに違いない。


 忘却を自覚した炎王の伴侶シンモラが、暴虐の象徴である炎王スルトを討ち果たそうとしている。ならば彼女の握るその刃こそがまさに、実存さえも疑わしい刃レーヴァテインなのではないか、と。


「ブリアレオスよ。あなたが河を焦がすのならば、私は海を燃やしてみせよう」


 ウィヌシュカがそう告げると、死神の大鎌デスサイズは更なる炎に包まれた。炎の波を脈々と漲らせる刀身の放つ熱量が、垂れ流された蜜酒や水溜まりとなっていたブリアレオスの体液を瞬く間に蒸発させる。


 傍に立つリュイリィや向かい合うブリアレオスの目には、ウィヌシュカ自身がまるで炎そのものに成ったかのように映った。神々しいまでのそのまばゆさに、もはや水瓶トロイアの光源も不要である。


「小癪な。この俺様に炎で挑もうなどとはっ!」

「炎? 火遊びの間違いではないのか?」

「くっ、貴様ぁぁぁっ! 俺様を愚弄するのかあぁぁっ!」


 冷ややかなウィヌシュカの挑発に、ブリアレオスは怒髪天を衝いた。獰猛な雄叫びが空気を震わせ、同時に繰り出された河を焦がす槍スヴォルの一突き。大津波を連想させる炎の渦を伴ったそれは、ウィヌシュカの心臓を最短距離で狙う。


「ウィヌ!」


 ウィヌシュカの身を案じるリュイリィの声よりも疾く、彼女は身を翻して一撃を捌いていた。風の力を付与エンチャントするわけでもなく、一縷の無駄もない最小限の動きで。


 怒り狂うブリアレオスとは対象的に、ウィヌシュカは頭の芯まで冷静であったのだ。


 澄み渡る思考が導く。生命の原木ユグドラシルによってしつらえられた三柱の一柱ブリアレオスは、つまりこの世界のいしずえのひとつであると。


 だからウィヌシュカは、こう考えたのだ。炎神としての役割をお膳立てされたブリアレオスを、より激しい爆炎をってして葬り去ることには、確固たる意味があるはずだと。聡明かつしたたかな彼女は、そう考えていたのだ。


 変容には観測で。

 幻想には結束で。

 そして炎には炎で、ウィヌシュカは証明する。


 揺れ動く心グングニルには、揺れ動く心グングニルから脱却するという強い意志を──。


「ウィヌ、もうちょっと奥に開けた場所がある。このまま戦ったら、洞窟が壊れちゃうよ!」


 リュイリィが探知能力で得ていた情報をウィヌシュカに伝えると、ウィヌシュカは一足飛びに大地を蹴って駆け抜けた。怒号を絶やさぬまま、ブリアレオスが後に続く。焼け焦げた肉体からは白い湯気が上がり、硫黄にも似た嫌な臭いが周囲を満たしていた。


 リュイリィも、慌てて二人の後を追いかけた。この世界の行く末を、他ならぬ自分が観測しなくては意味がないのだから。


 そして何より、一秒でも長く目にしていたかったのだ。

 気高き死の女神の姿を、もう何があっても見失わないようにと。




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