第47話 裸の王様。





 小さな生命いのちの視点を幾つも継ぎ接いで、リュイリィは地の底へと続く山ヒンダルフィヤルの奥地にブリアレオスを発見した。観測したと換言しても過言ではないその力は、彼女が誓いの運命神ヴァールであるがゆえの異能である。


 自らの真名を意識してからというもの、リュイリィは身体中に漲る魔力を感じていた。糸使いの伝承アリアドネを連想させる魔力の鎖も、精度と範囲を大幅に増している。傍らで見守るウィヌシュカの目から見ても、明らかであった。


風詠の大狼エンチャント・フェンリル


 ウィヌシュカは風の力を纏い、リュイリィを腰に抱きかかえて進んだ。常に具現化されたままの水瓶トロイアが加速を妨げるが、頬を赤らめるリュイリィを見ればご愛嬌で済ますほかない。


 言葉にこそしなかったが、役得ではないかとさえウィヌシュカは考えた。しかしあくまでも、表情は緩めずに問いかける。


「リュイ、どんな景色が見えた」

「うーんとね、ライラの場所に似てるかな。新世界ヘルヘイムだっけ」

「そうか、お世辞にも趣味が良い隠れ家とは言えないな」


 ウィヌシュカは薄闇が蔓延はびこあなぐらを思い浮かべた。ライラが創り上げたその世界も、ある意味においては選民たちが見せられた幻想である。


「でもね、ウィヌ。ヘルヘイムで見た光景と決定的に違うのは、ブリアレオスが一人ぼっちってことだよ」

「それはつまり、ギュゲスと同じように配下や腹心を従えていないという意味だな?」


 ウィヌシュカの腕の中で、リュイリィはこくりと頷く。


「そもそもさ、だよ? だったら、跋扈ばっこする神々を従えてこその王だと思わない? 少なくとも、窖の底のライラはそうしてたよ。それと比べたらさ、今のブリアレオスなんて裸の王様ですらないよ」


 リュイリィの言葉に、ウィヌシュカははっとさせられた。これまでかすかな疑問さえ抱かなかった三竦みの状態に、疑心の種が撒かれていく。自分自身を含めたと称される者たちが、いかに恣意的で盲目であったのかを思い知らされたのだ。


 疑心の種からは、疑惑の芽が次々と芽吹いていった。


 ──コットスも、ギュゲスも、ブリアレオスも、そもそも本当にだったのか?


 偽りの王が一度でも、王らしく振る舞っている姿を見たことがあっただろうか。少なくとも聖域ウィグリド以外の場所で、彼らが直截的ちょくせつてきに崇められている光景は記憶にない。ましてやそのウィグリドで彼らを崇めていたのは、私たち女神くらいのものではないか。


「ウィヌ、どうしたの?」


 もぞもぞと身体を捻って、リュイリィはウィヌシュカの表情を覗き込んだ。二人の目が合ったその瞬間、痛みを孕んだ問いかけがウィヌシュカの脳裏に浮かぶ。


「何でもない。大丈夫だ」


 三柱の主神ヘカトンケイルでないのなら、リュイリィは一体何とまぐわってしまったのか。しかしその問いかけは、ウィヌシュカ自身によって即座に葬られた。リュイリィをしっかりと繋ぎ止めておかなかった後悔が、灼け爛れるような熱を持つ。


 腰に回されたウィヌシュカの腕に、痛いほどの力が込められた。リュイリィには当然、強く抱き寄せられた意味が分からなかったが、決して身動ぐことはない。


「ねぇウィヌ、そろそろだよ」

「ああ、すぐに終わらせて共に帰ろう」


 周囲には荒々しい岩肌と、発育不全の痩せこけた枯れ木。早くも見慣れつつある紫の空が、降り積もった瘴気の結晶を薄紫色に染めている。


 ウィヌシュカはほんのわずかに目を細めた。

 順応とは、かくも恐ろしいものだと。


 冥界と呼んで良いものかどうかも分からない大地は尾根のように続き、疾駆するウィヌシュカの脚が小気味よい拍子リズムを刻んだ。音の隙間を縫うように鳴り響く遠雷。だがそれさえも、本当にいかずちである保証はどこにもないのだ。


 を、ゆめゆめ忘れてはならない。


「ウィヌ、あそこ!」


 リュイリィの導きに従って更に先を往くと、突然彼女が斜め前方を指差した。見やれば地底への入り口と思しき洞穴が、不気味に口を開けている。穴の底から吹き付ける風は臭気に塗れ、そして複雑に逆巻いていた。


 その先にあるのは、ごくの地か。


「行こう、私から決して離れるな」

「うん……」


 捏ね上げた魔力の塊を手のひらに乗せて、碧色の発光で周囲を照らす。辺りを警戒しつつ道なりに進んだところで、ウィヌシュカはその足元に何かが滲み入るような感触を覚えた。急に歩みを止めたウィヌシュカの背中に、リュイリィがぶつかる。


 ブーツを上げれば、ねちゃと糸を引く音。水溜まりにでも足を踏み入れたのかと思いきや、違う。ただの湧き水が、こんなにもぬめり気を伴っているわけがなかった。


 ウィヌシュカは指先を伸ばして、地べたに流れるを掬い取った。親指と人差し指で擦り合わせると、瞬く間に粘着性が増してえた臭いが生まれる。


「なるほど」


 表情を歪めながら、ウィヌシュカは合点を示した。一見すれば水溜まりに思えるそれらは全て、ブリアレオスの潰れた水疱から流れ出た体液だったのだ。少しだけ遅れて理解したリュイリィが、ぞわりと寒気立つ。


 薄闇の先を注視すれば、だらしなく寝転んだブリアレオスの姿。


「……なんだぁ? 俺様に抱かれに来たのか?」


 寝ぼけまなこと表現するには悍ましい容姿のブリアレオスが、緩慢な動きで起き上がると共に言った。ブリアレオスの吐息からは、蜜酒を分解する際に生まれる酷い悪臭がする。


 黄土色に混濁した眼球に、体表を覆う水疱から今も流れ出る体液。醜悪なるその姿が、遠い日にリュイリィに覆い被さっていたことを思うと、ウィヌシュカは身勝手な殺意さえも覚えた。


「酩酊しているのか。冥界の主神も堕ちたものだな」


 嘲るような笑みを見せて、ウィヌシュカは死神の大鎌デスサイズを構えた。見るに堪えないブリアレオスに失望しながら、ウィヌシュカは静かに想う。


 ──いや、堕ちたのではない。私たちは最初から、ただの一度たりとも昇ってすらいなかったのだ。




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