Capture12.三界だったはずの場所

第46話 あまねく幻想に際限はなく。





 熟れた幹の表皮は鼈甲べっこうの色を深め、金色こんじきと表現しても差し支えがないほどだ。ウィヌシュカが上方を見やれば、聖域ウィグリド中に降り注ぐ陽光まで強奪するように、深緑の枝葉が広がっている。


 かつて清浄しょうじょうにして神聖な印象を与えていたユグドラシルの姿は、今の心境で眺めれば肥大した自我の表れのように映った。


「崇めた覚えなどなかった。しかし不思議なものだ。この禍々しさに気が付かなかったとは」

「ウィヌの言おうとしてること、なんとなく分かるよ」


 生命の原木ユグドラシルが放つを、ウィヌシュカとリュイリィは今まさに初めて意識することが出来た。


 見る者の主観によって、世界が目まぐるしくその色を変容させることは、ある意味において至極当然のことである。しかしこの感覚は、その極地。変容どころか流転であり、流転にして反転であったのだ。


 たとえば透き通った白山羊ヘイズルーンの瞳さえも不気味だと感じる彼女たちは、世界のことわりから外れた場所に存在しているとも言えるだろう。


 だからこそ、


 ウィヌシュカはリュイリィを、リュイリィはウィヌシュカを──、絶え間なく強く意識し続けることで、不可侵であるべき精神を守り合っているのだ。これこそがつまり、大いなる意志に書き換えられないための観測行為なのである。


 クロードの荒療治に導かれ、揺らぐことのない結束を手にした二人だ。呼吸をするよりもずっと自然に、お互いがお互いを容認し合っている。


 あまねく生命の揺りかごであるユグドラシルを見据えるウィヌシュカに、リュイリィが言う。まるで今思いついたというふうに、何でもないことのように。


「ボクらが伐採しちゃえば良いんじゃないかな。ユグドラシルをちょん切って燃やして、それで何もかも解決だよ」

「そうだな。それが通用するなら、クロードもそうしたことだろう」


 ウィヌシュカの口調に棘はない。それどころか、遊び心のある冗談を零したリュイリィへの愛しさが溢れている。


「武力行使に出たら、どうなるのかな」

「考えるまでもないさ。クロードの話を聞くまで、私たちにはユグドラシルを滅ぼすという発想すら思い浮かばなかったくらいだ」

「あは、そうだね。ウィヌはやっぱり賢い」


 二人のあいだに流れる空気は、とてもではないがこれからブリアレオスの元へ赴こうというものではなかった。それどころか、草原を駆け抜ける春風のように柔らかい。


「リュイ、そろそろ行こうか。悍ましき生命の原木に、箱庭の終わりをらしめなければならない」

「うーん、つまり絶命を与えるってやつだね?」

「そんなところだな。私は創られた世界を拒絶する。たとえそれが、遠い日のお前が見た夢だとしても」


 ほんの刹那、哀しそうな瞳を見せたリュイリィを、ウィヌシュカは抱きすくめた。守るべきものは、ここに在るのだと諭すように。





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 ユグドラシルの幹に空いた巨大な孔を颯爽と抜けて、ウィヌシュカとリュイリィは内なる世界へ。


 属さない台地グニパヘリルはいつもと変わらぬ姿で、二人を迎え入れた。しかし変わらないのは、あくまでも切り立られた岸壁の一部だけ。開けた視界の高台から、ウィヌシュカは周囲をぐるりと見渡す。


 紫色に爛れた空にほとばしる稲光と、喘鳴ぜんめいにも似た底気味悪い風の音。右方うほうの彼方に聳えるはずの地の底へと続く山ヒンダルフィヤルは、地殻変動でも起きたかの如く


 その光景は、異様そのもの。


 分かってはいたことだが、かつて三界であったはずの場所には冥界の気配しかなかった。


 否、今現在のユグドラシルの胎内に、冥界しかないのだと仮定すれば──、ここに在る全てが、属さないだと換言出来るだろう。


 瘴気の結晶を踏み締め、険しい面持ちを見せるウィヌシュカ。しかし彼女の胸の内にあるのは、決して絶望ではない。それどころか、今ならブリアレオスを討滅出来るという、確信めいた得心だ。


「早速で悪いが、ブリアレオスを探知してくれるか」

「……うん。でも、本当に大丈夫なの? あのね、そのね──、別にウィヌの強さを疑っているわけじゃないんだけどさ」


 しどろもどろに問いかけるリュイリィは、最終的に首を傾げてしまった。それに対して、なぜだかウィヌシュカは不敵に笑う。


「リュイ、よく聞いてくれ。クロードはまだ、私たちに嘘をついている。責める気持ちがあるわけじゃないから、そこは誤解しないで欲しいんだが」

「へ?」

「クロードは三柱の主神をたおせないのではなく、のだということだ。そうでなくては矛盾がある。クロードが何度も三柱の主神に挑み、本当に──、クロードが無事に生きていることの説明がつかない」


 リュイリィは眉間にしわを寄せて考え込んだ。ウィヌシュカの言っている理屈は分かるが、何を言いたいのかが見えてこない。


「クロードが持つ七色の瞳オッドアイの力によって、彼女自身は書き換えられないとしてもだ。世界はそうじゃない。クロードがはしらを斃したところで、一夜にして修復されてしまったことが少なからずあったはずだ」


 ウィヌシュカの理知的な相貌が、リュイリィに向けられる。


ためには、一人きりの勝利では駄目なのだ。ユグドラシルが都合良く世界を書き換える以上、書き換えさせないための観測者が必要になる。そして考えられる限り、観測者としての役目に最適なのは──、リュイ、お前だ」

「ああ、そっか……。ボクがウィヌを覗き見ることまで全部、クロードの手のひらの上だったんだね」


 ウィヌシュカは首肯した。懺悔と恥じらいを混ぜ合わせたような表情のリュイリィを、胸元に抱き寄せる。


「コットスの絶命もギュゲスの絶命も、お前は観測した。揺れ動く心グングニルの投擲者であるお前が、この世界を認識し受け入れることには、きっと私たちの想像以上に大きな意味がある」


 ウィヌシュカの見解に、リュイリィは思わず感嘆の吐息を漏らした。ウィヌシュカが無表情の裏側で、様々な推測を思い巡らせているのはいつものことである。その行為は時にとなり、聡明なウィヌシュカ自身を苦しめてきたのだが、今回ばかりは違う。


 世界を観測するリュイリィを、ウィヌシュカは更に俯瞰するようにして観測しているのだ。ひどく冷静に、ある意味では第三者として冷酷に、観測するようにして見守っている。


 そこまでに思い至って、リュイリィは「あ!」と気付きの声を上げた。


「そうだ。おそらくだが、私たちのこの行動もクロードの手のひらの上。つまり、私がリュイに何を言いたいのかというと──、その、大丈夫だということだ」


 ここでようやく、ウィヌシュカはリュイリィの最初の質問に帰結した。"大丈夫だ"とただそれだけを答えるために、不器用な説明を続けてくれたウィヌシュカをリュイリィは愛おしく思う。


「三柱の主神の力が、絶対にして絶大なのだという認識さえ、ユグドラシルに見せられた幻想なのだ。だからリュイ、心配は要らない。ブリアレオス討滅は、私が必ず成してみせる」




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