第三部

Capture08.三界崩壊~新世界ヘルヘイム~属さない台地グニパヘリル

第28話 神の墜ちたその先に。





 悠久とも呼べる数千年の時の中で、領土を奪い合った宿敵が落命した時、後に残された者は何を想うのだろう。安堵か、憂いか、落胆か、失望か。


 あるいは歓喜。


 胸を支配する感情がそのいずれにしても、コットスの最後について言及する者は居なかった。信じ難い青天の霹靂は、大いなる主神の言葉さえも奪ったのである。粗暴なブリアレオスも、深長なギュゲスも、この事態を容易く受け入れることは出来ない。


 そもそもコットスの絶命を、誰かから伝え聞いたわけではないのだ。


 しかし醜い三兄弟ヘカトンケイルと揶揄された三柱みはしらの一本が折られたことを、彼らは否が応でも知ることとなってしまった。より正確を期すならば、知るというより感じてしまったのだ。


 生命の原木ユグドラシルのが、未だかつてないほど激しく脈打った時に。


 人智を越え、摂理を越え、神々のことわりさえも越えて──、ユグドラシルに内包された三つの世界はそのカタチを変えた。まず最初に起きたのは、天界ヴァルホルの消失である。やがてヴァルホルの消失を埋めるように、冥界ニブルヘイムと精霊界ドヴェルグが膨張した。


 生命の原木ユグドラシルの内側で連なっていたは、無遠慮な力に圧縮されてへと創り変えられたのだ。ことわりの狭間へと呑み込まれて消えたのは、天界の主神コットスに遣えていた幾百の神々も同じであった。無慈悲な裂け目に喰い散らかされる神々の姿は、まるでにえのようで──。


「在り得るのか? いや、在り得てなるものか。このような天変地異は、我の天地創造を記した書物ミストルテインにも記されておらぬ」


 精霊界ドヴェルグの中央に位置する針葉樹林。その中でも一際高く聳えた針葉樹の頂点に座したギュゲスは、久方ぶりに喉を震わせた。遙かな遠方で猛威を振るったことわりの狭間の暴虐は、天地創造を記した書物ミストルテインに記された空虚な次元の裂け目ギンヌンガ・ガップを連想させる。


 だが、あれとは似て異なるものだ。何故ならば先ほどの現象は、空虚でもなければ無秩序でもないのである。


 という明確な意志をもって、ユグドラシルの再構築は展開された。ならばそれは、一体誰の意志か──。


 そこまでを考えて、ギュゲスは思考の糸を断ち切った。自身の呪われた霧の身体をちらと一瞥し、自嘲気味に笑む。


「構わぬ。全て不毛にして全て不要。誰に呪われた身体なのかもり得ぬ我にとって、書物に記された知識以外は詮無きもの」


 瘴気を孕んだ風が吹き抜け、ギュゲスの頭部以外は空気中に霧散した。窪んだ眼窩がんかに目玉はなく、それでも彼の瞳は針葉樹のいただきから、神々の住まう世界を彼方まで見渡している。





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 木樽一杯分の蜜酒をかっ喰らい、ブリアレオスは灼けるような喉の渇きを潤す。万年氷壁ヴァニラで散らされた無数の魂の花アニマが、あと十年は空腹を満たしてくれるはずだが、しかし埋まることのない餓えも確かにあるのだ。


 彼が抱いているそれは、生きるためのものとはまた違ったである。獣欲とはかけ離れた場所に在るその何かは、時に行き場のない感傷を誘う。


 地の底へと続く山ヒンダルフィヤルの麓に構えた根城で、ブリアレオスは思考の波に攫われていた。およそ似つかわしくない行為だという自覚はあったが、吹き抜ける風にも似た空虚が、彼の飢えを加速させているのだ。


 こうして一人静かに酒をあおる時、何者かに覗かれているような心許なさが確かに在った。仄暗い深淵の向こう側で、彼の知らない彼が自問自答を繰り返している。


 ──何かを忘れてはいないか。


 混濁しかけた意識の底に、煌めいては消えていくおぼろげな問いかけ。酒気さかけに塗れたブリアレオスの吐息は、いつものそれより数倍濃厚な臭気を放っていた。気を抜けば、思わず自分自身が噎せ返るほどだ。


 ──何かを忘れてはいないか。


 渦を巻いて繰り返す言葉は、酩酊の海を漂っている。その酩酊は、やがて狂酔へと。それも致し方ないことだろう。白山羊ヘイズルーンの拵えた蜜酒は、女神の裸体よりも淫らな味がするのだ。


 ごろりと寝転がれば、背中の水疱が潰れて白濁した汁を流した。先ほどから続いている微かな振動が、ブリアレオスを心地よい眠りへといざなっていく。


 ──そうか。二つになっちまったのか。


 胸の奥底で何かが引っかかったが、睡魔に勝るものではなかった。そもそも悠久を生きる神々に、考える力など不要なのだ。何かを切り捨ててしまわなければ、およそ数千年というときを生きることは叶わない。哲学や思想などといった愚かな雑念は、いつか身を滅ぼす要因になるであろう諸刃の剣なのだ。


 そう例えば、絶命を乞い願ってみせたウィヌシュカのように。


 ブリアレオスは眠りに落ちる。世界が創り変えられていく際の鳴動に合わせて、誰に焼かれたのかも解らない肉体がズクズクと痛んだ。




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