Capture06.新世界ヘルヘイム

第20話 窖に虹。





 不確かな希望こそが、精神を崩壊させる何よりの絶望である。再生の女神ライラは、その理屈を熟知していた。


 捕らえた竜人たちを切り刻み、治しては潰し、また治す時──、彼らはひとつの例外もなく終幕を望む。生命に縋ることを諦めた方が、いっそ楽になれると理性が囁くからだ。


 明日を願う想いと、身を壊される苦痛は等価ではない。ライラのいびつな笑みを見れば、子供でも導き出せる簡単な答えである。この優美な女神は決して飽くことなく、自分たちの生き血を採取し続けるだろう。そう悟り狂気に屈すれば、今すぐに殺してくれと懇願せずにはいられない。


「私は慈愛に満ちた再生の女神ですから、何度でも治して差し上げますわ」


 無理やりに握らせる希望が、竜人たちの精神をさらに崩壊させる。次はどんな悲鳴を聞かせてくれるのかしらと、疼く心が彼女のわらいを更にひずませた。


 ライラを突き動かす知識欲の前に、倫理や道徳は一切の価値を持たない。そんな彼女の興味の対象は、ひょんなきっかけからウィヌシュカに派生する。


 潮風の吹き抜けるあの夜に、彼女はふと思い至ったのだ。


 三柱の主神の忠実なる下僕として、永遠にも近い時間を生きる我ら女神たち。ミッドガルドに放牧された家畜の命を刈り取るだけの、犬畜生以下の無価値な存在。


 その大前提から目を逸らし、気高く振る舞ってみせる死の女神の眼前に、甘く熟れた未来をぶら下げてみたらどうなるのかと。


 愚鈍なる三柱の主神ヘカトンケイルの支配から、いつか解き放たれる可能性──、そんな不確かな希望を植え付けられた美しい女神は、悠久の時間をどのようにして生きるのかと。


 結果、ウィヌシュカ彼女かげっていった。誇り高く在ろうとする眼差しのその奥深くで、揺れ動く薄暗い感情を見抜けないライラではない。


 万年氷壁ヴァニラを陥落させることで、ウィヌシュカはまた己の闇に喘ぐだろう。今もなお濁り続けるウィヌシュカをるたびに、ライラの中で満たされていく何かがある。


 そうだ、ライラには識りたいことが山ほどにあった。

 悠久の時間をもってしても、まだまだ足りないくらいに。


 ──知識だけが、私の孤独を埋めていく。好奇心だけが、夜の運命神ノートと引き合わせてくれる。


 ライラはそう信じていた。

 数多あまたの人間たちに、創世神リーヴという概念を与え崇拝されるようになった彼女は──。


 信じていた。

 自らもまた、不確かな希望に因われた哀れな存在に過ぎないのだと気が付かないままで。





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 人間界ミッドガルドの地底奥深くで、新世界ヘルヘイムと名付けられた世界が密かに栄えていた。無数のあなぐらを無数の転移方陣によって結んだ、途切れ途切れの新しい世界である。


 天界でもなく冥界でもなく精霊界でもなく、突き詰めれば人間界でさえもない。神々の目から逃れた人間たちが暮らし続ける新世界ヘルヘイム。統べる女王は、民たちから創世神リーヴと崇められている再生の女神ライラである。


 選民と呼ばれる人間たちは、魔具を装着しての生活を日常的に送っていた。いつか精霊界の主神ギュゲスが予想してみせたように、人間たちの体内から発散される微弱な魔力は、魔銀の特性である魔力絶縁性によって日々蓄えられていくのだ。


 魔具の内側に蓄積された魔力の全ては、魔弓まきゅうロロノアへと捧げられライラの糧となっていた。塵も積もればとはまさにこのことで、魔力を喰らう神具のこの上なく有用な使い方である。


 ライラは確信していた。三柱の主神さえも討ち果たす力が、今の自分には備わっていると。黄金の林檎を象った豪奢なベッドに寝そべり、お気に入りの選民の男根を妖艶ようえんな手付きで愛でながら、彼女は優雅に微笑む。慢心に座した神々に代わって、自らの望む世界を創造する明日が、もうすぐそこまで来ているのだと。


「しかしお前、こんな辛気くせーとこに住んでんのな。カビかっつうの」


 暗がりから投げかけられたのは快活な声。声の主が持つ七色の瞳オッドアイが、真夜中の星屑のように幾度か瞬いた。その褐色の肌は、薄闇に溶け込んでいる。


「ふふふ。いつだって神出鬼没のあなたは、まるで暗殺者アサシンか何かですわね」


 わずかな動揺を殺しつつ穏やかに返すライラに、クロードはけらけらと笑い声をあげた。暗殺者アサシンに例えられたことが、大層お気に召したようだ。


「いやー、本当にっちまおうかと思う時もあるぜ? だって最高の相棒デュオであるこのあたしに黙って、こんなに怪しげな秘密基地を作っちまうんだもんな」


 やはりクロードはすこぶる上機嫌のようだったが、ライラは存分に気を引き締めた。


 破壊の女神は、再生の女神にとって長年のデュオであると同時に、最も腹が読めない相手である。この新世界ヘルヘイムのことだって、一体どこでどうやって嗅ぎ付けたのか。


「あらあら秘密基地だなんて──、発想がロマンチックですわね」

「そうか? 基地なんて物騒なだけだろ」


 微笑みながらライラは、ベッドの上にはべらせていた選民の首を掻き切った。同じことをクロードに出来るならばどれだけ楽かと思案しながら、もう一度ゆったりと微笑む。


「私はただりたいだけですわ。それに強大な敵と戦うためには、そのための砦が必要だとは思いませんこと?」

「何と戦うのか知らねーが、勉強したいなら図書院で本でも漁れよ」


 ライラが含みを持たせてみても、クロードが取り合う様子はない。クロードの自由奔放さは、策士であるライラにとって天敵であった。


 ──私が戦う相手は、大いなる無知。


 ざわめく胸の奥に本音を沈めて、ライラは代わりの軽口を叩く。


「それではクロードさんが探してきてくださるかしら。私たちが何者であるのかが記された書物を」


 ライラの軽妙な挑発を、クロードは「はん」と一笑に付した。当然だが彼女は、哲学という概念に食い付くような玉ではない。


「あのな、ずいぶんと昔に飲み友達になった、ザンカって名前の竜人のおっちゃんがいるんだけどよ」


 ここからが本題ですと言わんばかりに、クロードは身勝手に話題を改める。しかし飄々ひょうひょうと切り出されたその言葉に、ライラは思わず耳を疑った。


 ──女神が? 竜人と? 酒を酌み交わす?


 クロードが天衣無縫な性格だと理解していたつもりだったが、まさかここまでとは。ライラの引き攣る笑みにも構わず、クロードは続けた。虹色の瞳を、ほんのわずかに凄ませながら。


「ちょいと情が移っちまってさ、そのおっさんの人探しを手伝ってたんだよ。そしたらなんと! 蟻の巣ごっこをしてるお前に辿り着いちまった。さあどうするってところだなー」


 色味の一切が抜けた白髪はくはつをぽりぽりと掻きながら、クロードは天井を見上げた。土を掘り下げた造りのこのあなぐらは、やはり蟻の巣か良くて土竜もぐらの巣だ。


「……クロードさんさえよろしければその人探しとやら、私もお手伝い致しましょうか? 微力ながらお力になれ──」「──辿って言ってんだろ?」


 ライラの言葉を遮って、これ見よがしに辺りを見回してみせるクロード。彼女はと、鼻を効かせる犬の真似をする。


 ライラは知っていた。目の前の女が、三柱の主神ヘカトンケイルの忠犬などではないことを。忠犬どころか猛犬──、あるいは外典とつふみに綴られた、地獄の番犬に違いないことを。




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