第19話 炎の化身はその身を焦がしながら。





 ウィヌシュカの焦りと苛立ちは、わずかな逡巡の末に影を潜めた。代わりに揺るぎない歓喜が、彼女の胸を震わせている。同胞の窮地を前に湧き上がったその感情は、軋むような罪悪感に塗れていたが──。


 それでもウィヌシュカは、歓びを拭えない。


 人間たちの知恵が神を滅ぼす未来が、彼女の目の前で今まさに体現されようとしていたからだ。無力の集合体だからこそ、彼らは万能を討つ。否、我らが万能であるという幻想こそが、神々にとって最大の瑕疵かしではないか。


 ならば穿つらぬけ。我らの奢りを。


 ウィヌシュカは夢想する。彼らの刃が、三柱の主神を討ち滅ぼす未来を。


「しかし、それはそれとて──」


 ウィヌシュカはまなじりを決して、体内を巡る魔力を練り合わせた。剣呑な眼差しで中空を睨み付ければ、紅蓮の大渦が轟々ごうごうと巻き起こる。


 万年の時を刻む氷雪を、刹那にして焼き払う業火の華。


 動揺の声が衛兵たちのあちらこちらから上がり、老兵の号令も待たずに水撃小銃エーギルの弾が飛び交った。しかしそれらの水撃がつぶてに変わることはない。ましてや槍のように凍りつくことは、ウィヌシュカの操る爆炎が許さなかった。


火焔の豎子エンチャント・ムスペル。──さかしい人間どもよ、水遊びは終わりだ」


 低くくらくウィヌシュカがそう呟くと、死神の大鎌デスサイズの刀身がどすぐろい炎を纏った。付与エンチャントの能力はウィヌシュカの真骨頂であり、取り分け炎を操る能力であれば三柱の主神に勝るとも劣らない。弾けることも忘れて静かに燃え盛る黒炎は、全てを消し炭と化す莫大な熱量を宿している。


 戦場の気温が更に上昇し、氷のフィールドが見る見るうちに蒸発していく。たじろぐ衛兵たちの中には、生まれて初めて剥き出しの大地を目にした者もいた。


「漆黒に燃え盛る鎌……、まさか貴様は、シンモラの化身だとでも言うのか」


 指揮を執る老兵が独りごちたのは、いにしえに語られた炎神の名だった。畏れに震え上がった老兵の姿に、ウィヌシュカは肩を落として落胆する。その畏れさえ捨て去ることが出来れば、お前たちはもっと強く在れるだろうに、と──。


「いや、畏れているのは私か」


 冷たく薄い嘲笑。彼女の根底にある自己嫌悪が、憤怒の炎を滾らせる。放たれた豪炎の一太刀が、衝撃波を伴って衛兵たちを薙ぎ払った。


「伏せろ! 総員待避っ! たっ──」


 かろうじて回避した者が避難を勧告したが、凄まじい熱波がその喉を焼いて絶命させた。剣撃による物理的切断、衝撃波による間接的破壊、そして熱波による追撃が、衛兵たちに再三の絶望を与える。


 ウィヌシュカの刃が通り過ぎた後は真空となり、周囲の空気が瞬く間に吸い寄せられていく。人間界ミッドガルド全体を根こそぎ掻き回すように放たれる剣撃の美しさに、魅了されたまま絶命に至る衛兵も後を絶たない。


 そして彼女の熱は救い出す。

 転生の女神リュイリィを、海神エーギルの氷牢の中から。


「リュイリィ、痛むところはないか」

「……どちらかと言うと痛いところしかないよ」


 青白い表情で崩折れたままリュイリィは答えた。彼女がうっすらと浮かべた悔し涙も、ウィヌシュカの放つ熱でたちまちのうちに乾き上がる。


「今は休んでいろ。すぐに片付く」

「はは、何それ。カッコ良すぎ」

「次は城だ。最後に城下町。お前のトロイアの出番はこれから山程にある」


 素っ気なく言って、ウィヌシュカは力強く大地を蹴った。黒炎を放つ死神の大鎌デスサイズと共に、彼女は道化のダンスを踊り続ける。リュイリィが十を数える間もなく、残る標的は老兵一人となった。彼の首元に光る三ツ星の勲章が、この状況では陳腐にさえ見えてしまう。


「老兵よ、実に見事だった。せめて楽に殺してやろう」


 称賛の言葉とは裏腹に、ウィヌシュカの声には何の感情も滲んでいない。対する老兵も同じだ。すでに全てを諦めたのか、恨みも畏れも感じさせない声で、言う。


「なるほど、まさに一騎当千。殺すがいいシンモラの化身よ」


 一騎当千──、その言葉に反応したウィヌシュカが片眉を吊り上げる。これは偶然か、はたまた必然なのか。かつてその言葉をウィヌシュカに放ったライラの不敵な笑みが、ウィヌシュカの脳裏をぎった。


 躙り寄って問い詰めたい気持ちを振り払う。何しろ今は、リュイリィの前なのだ。それにもしも、この茶番の水面下にさえライラの思惑があるのだとしたら──、それはウィヌシュカにとって、歓迎すべき事柄ですらあるはずだ。


「逝くがいい。お前たちの不徳は、新しい世界のいしずえとなるだろう」


 ──そして私の不徳も。必ず。


 言外の言葉を継ぎ足して、ウィヌシュカは老兵の首を一思いに刎ねた。ゆっくりと視線を上げれば、その彼方にヴァニラの王城が気高く聳え立っている。


 ウィヌシュカはリュイリィの方を振り返り、まだ膝を折ったままの彼女に手を差し伸べた。しかしリュイリィは力なく首を横に振って、自らの足で立ち上がる。


 永遠のような沈黙が、二人の間を支配した。やがて意を決したように、リュイリィが重たい口を開く。


「──ねぇ、ウィヌは一体、何を見ているの?」


 ウィヌシュカはその問いかけに微笑もうとしたが、どうにもうまくいかない。思わず「何も見えない」と答えそうになって、唇を噛み締めて言葉を殺す。


 ウィヌシュカには分からなかった。

 ライラがウィヌシュカに囁いたあの夜から、六十年の歳月が流れた今でも。


 分からなくなっていくばかりだった。

 動揺を見透かすようなリュイリィの視線を、初めて恐ろしいと感じて目を逸らした。




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