第16話 この生命は誰がために。





 ウィヌシュカが浴びせた非難の眼差しを、同じくライラも非難の眼差しをもって返した。少しずつ冷静さを取り戻してはいるものの、やはりライラの態度は攻撃的である。


「ああ、これだから偽善者は嫌いなのです。殺人狂に咎められる筋合いなんて、ただの一つもありませんのに」

「……咎めなどしない。私はただ、お前がしようとしていることを知りたいだけだ」


 竜人の里リズで目にした長閑のどかな風景。穏やかに流れる時間の中でも、ザンカは悲痛な想いで家族の帰りを待ち侘びているはずだ。しかし人道を外れたライラの行いを知ってもなお、ウィヌシュカにライラを咎める資格はない。そんなことは嫌になるくらい分かっている。


「ウィヌシュカさん、よろしいですか? あなたが刈り取ったのは十万の命ではなく、命が十万に至るまでの二千年という歴史です。その所業はまさに悪逆非道。それに比べたら私がしていることなんて、子供のおままごとのようなものですよ」


 ライラのくらい視線が、舐め回すようにウィヌシュカを見た。狂人の物差しにまともに取り合ってはならない。頭ではそう理解していても、冷たい手で心臓をさすられたような感覚が全身を駆け抜ける。


「……私は、私は──」「──いいえごめんなさい言い過ぎました。あなたは英雄でしたわね。少なくとも三柱の主神にとっての英雄。英雄にも等しい立派なワンちゃんですわ」


 反駁はんばくを言い淀むウィヌシュカの一瞬の隙を、ライラは逃さない。わずかながらも狼狽するウィヌシュカを畳み掛けるように、更に言葉を継いでいく。


「あらあら、別にご自身を責めなくても宜しいのですよ。世の中には仕方のないことが沢山ありますもの。ですから、忠犬が忠犬の生き方をしているのは至極自然なことでしょう?」

「黙れ、私は私だ。英雄でも忠犬でもない」

「ふふふ、そうでしたわね。女神なんて所詮、犬畜生以下の存在ですもの。どうかご心配なさらないで、私もあなたと同じです」


 執拗に続けられる挑発が、ウィヌシュカの神経を逆撫でる。それでもウィヌシュカは、怒りの感情に身を委ねることが出来なかった。いびつな笑みで紡がれるライラの言葉が、決して的外れではないと共感出来てしまうから──。


「それにしてもウィヌシュカさん? 言いたいことを言い合える仲というのは、本当に素晴らしいものですわね。私はこれからもずっと、ウィヌシュカさんが掛け替えのないお友達でいてくださることを、心から嬉しく思いますの」


 厚顔無恥のままにライラが告げると、今度こそウィヌシュカは反論する言葉を失った。切なく光る紅色の瞳が、ただぼんやりと虚空を見つめている。


「それにしても自分の愚かしさには、つくづく嫌気が差してしまいます。どちらにせよいつかはお話するつもりでしたけれど、今はまだ時期尚早というものですから」


 まるで過去の罪を自白する教徒のように、ライラは滔々とうとうと語り始めた。その口調と仕草は気品に満ち溢れ、すっかりいつもの様子だ。


「正直に申し上げますと、完全に私の誤算でしたのよ。無能にしか見えないリュイリィちゃんに、まさかあのような探知能力が備わっていただなんてね。ああ、ですが一番の誤算は、騎士団長のあの男ですわね。一時の悲しみに流されて復讐を志すだなんて、期待外れも良いところです」


 ウィヌシュカは薄闇の中に、アレクサンドルの最後の姿を思い浮かべた。そうだ、あの男も気高く散っていった。たとえライラと共に何かを目論んでいたとしても、聖騎士団キルヒェンリッターの団長として、そして千年王国スクルドの最後の民として、皆の無念を晴らそうと断罪の使徒に噛み付いたのだ。


 そして殺した。他ならぬウィヌシュカの手によって、スクルドは二千年の歴史に終止符を打たれた。


「やはりあの男は、お前と同じ志を持つ者か。一体何をさせるつもりだった」


 ウィヌシュカの問いかけはどこか形式的で、心ここに在らずだった。死の女神の内側では、自らに課せられた使命への葛藤が、ただ静かにその身を焼き焦がしている。


 顔色の優れないウィヌシュカの胸の内を、ライラは奥底まで見通していた。常に自らの思慮と向き合い、時に苦しみながら彷徨ってきた彼女にとって、ウィヌシュカが抱える葛藤などすでに消化し尽くした過去の感情だったからだ。夜の運命神ノートと語り合った幾千の夜。それはライラが人心掌握のすべを磨き上げていく時間でもあった。


「ふふふ、何も出来ませんよ。ええ、きっとウィヌシュカさんの考えている通りです。あの男一人では何も出来ません」


 意味深長な答えに、ウィヌシュカが眉を吊り上げた。ライラは緩慢な動きで、高みを目指して立ち並ぶ鉄塔を指し示す。


「やがて天を貫き、悠久の神々を脅かす詮索の鉄塔バベルの塔は、神々の怒りに触れて滅ぼされる運命ですわ。ああ、なんという不条理でしょう。未開を切り拓こうとする知恵の結晶を、野蛮にも力で捻じ伏せようだなんて」


 それは芝居がかった狂気か。それとも狂気そのものか。


「ウィヌシュカさん? あなたになら解るでしょう? あってはなりません。神話の世界から抜け出し、歩みを始めようとする彼らが裁かれるなんてことは。だからこそ滅ぼすのです。愚かな神々を、殲滅してやれば良いのです」


 詮索の鉄塔バベルの塔外典とつふみの逸話を絡めながら、想い人に焦がれる乙女のように瞳を輝かせるライラ。うまくはぐらかされているのではないかと、ウィヌシュカは怪訝に目を細めてはみたが──。


 しかし胸を打った。神々を討つという荒唐無稽な夢物語は、確かにウィヌシュカの深い場所を叩くのだった。


「……お前になら、それが出来ると?」


 口を衝いた言葉にはっとしたのは、誰よりもウィヌシュカ自身だった。わずかに滲んだ切望と懇願の色が、敗北にも似た感情を連れてくる。ライラは否定とも肯定ともつかぬ笑みを浮かべて、困惑を隠せないウィヌシュカをそっと抱き寄せた。


 そして耳元で言う。


「私はただ、りたいだけですよ。神々への畏れから解き放たれた人間たちが、一体何を創り出すのか」


 ライラの甘い吐息に身体の芯が痺れていく。振り払うのは容易いはずなのに、同じくと感じてしまうウィヌシュカの何かが、それを許さなかった。


「ねぇウィヌシュカさん? 例えばあの千年王国スクルドが、もう千年を栄えたとしたらどうでしょう。そこにはきっと、神々の想像など及びもつかない、素晴らしい世界が広がっているとは思いませんか?」


 いつか訪れるはずだった遠い未来。その輝かしい世界を葬り去ったのは自分だ。執拗に胸を焦がす憤怒の炎を、ライラの言葉が優しくなだめる。


「私は私の知識欲の赴くままに生きます。まずは必ずや私の願いの妨げになるであろう、三柱の主神を転覆させたいのです。そのためにどうか、ウィヌシュカさんも手を貸してはくださらないかしら。あなたが一緒ならば一騎当千、とっても心強いのですけれど──」


 甘美な響きを宿したライラの声が、ウィヌシュカの耳朶を打ち続ける。


「ウィヌシュカさん、どうか目を閉じて考えてみてください。ねえ? 私たちのこの生命いのちは、一体誰のためにあるのでしょうか」

「私の生命は──、誰の、ために」


 救いの手か差し伸べられているのか、それとも悪魔が囁いているのか。

 ウィヌシュカにはまるで分からなかった。


 ただゆっくりと視線を上げれば、ライラが妖しく微笑んでいる。たとえ彼女の言葉が甘言だと理解していたところで、多くの者の魂はこのまま魅入られてしまうのであろう。




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