第二部
Capture05.岩窟要塞ケルン~万年氷壁ヴァニラ
第17話 濁っていく。恋も命も。
「お前たちの不徳は今、世界の
ウィヌシュカの玲瓏な声が、時の流れと共に少しずつ苦しげになっていくことをリュイリィは知っていた。
いつからか気付いてしまった。断罪の天秤が傾く度に、ウィヌシュカの紅い瞳の中で憤怒の炎が燃え盛ることに。
岩窟要塞ケルンが滅び去ったのは、千年王国スクルドの崩壊からおよそ三十年を経たある日のことである。
屈強な守備を誇る巨城と、鍛え抜かれた二万の衛兵を相手に険しい戦いが予想されたが、
夜空に輝く銀河を思わせるウィヌシュカの髪に、赤黒く不吉な血の雨が流星となって降り注ぐ。リュイリィはその姿を間近で見るたびに、幼い顔立ちに似合わぬ複雑な面持ちを浮かべるのだった。
死の女神を焼き尽くす業火は、一時も鎮まることを知らない。
転生の女神は憂う。彼女の輝きが、いつか拭えぬ血によって濁ってしまうのではないかと。
「ねぇ、ウィヌ」
「……なんだ」
「今日もいい匂い」
銀の髪を洗い流しながら、リュイリィは言った。ウィヌシュカがこうして洗髪を任せてくれるようになったことに、喜びと不安を同じくらい感じながら。
以前のウィヌシュカならば、こんなことはなかったはずだ。例えばそう、スクルドを滅ぼしたあの夜の彼女だったら。近付くだけで斬り伏せられそうな、
「あんまり近付くと、血の匂いがするだろう」
ウィヌシュカがそう問いかけたのは、交易都市ビフレストの宿だったか。思い返せばあの時、ウィヌシュカはすでに壊れ始めていたのだ。
どうしてあの夜に、そう気付いてあげられなかったのだろう。取り戻せない過失に、リュイリィの後悔は募るばかりだった。ウィヌシュカでも酒に酔うことがあるのだと、微笑ましく思った自分を呪ってやりたかった。
遥かな孤高に立ち、紅蓮の炎の中で神々しく咲き誇るウィヌシュカ。
リュイリィが激しく恋焦がれた彼女は、もうどこにも居ないのかもしれない。
「ねえウィヌ、ボクと一緒に行かない? たとえば……、ほら、ずっと遠くまで」
何度目かの台詞を投げかけるリュイリィ。しかしウィヌシュカは今日も、静かに首を横に振ってみせるだけだ。
三柱の主神からの逃亡を夢見るリュイリィの思考は、神々の転覆を目論むライラとはまるで真逆であった。リュイリィはこうも考えていた。転生の担い手である自分さえ消えてしまえば、ウィヌシュカはいつかこの苦しみの連鎖から解き放たれるのではないかと。
リュイリィは様々な想いを巡らせながら、沈黙を貫くウィヌシュカを背中から抱きしめた。背に頬を寄せ、やがて肌を擦り合わせ、愛おしいはずのウィヌシュカの体温を全身で感じようとする。
だがリュイリィの肉体は、かつてほどには疼かない。
彼女に斬り伏せられる間際の恍惚は、いつの日にか過去の遺物へと風化してしまった。
だからこうも考えるのだ。
ひっそりと、決してウィヌシュカに気取られないように。
日々曇っていくウィヌシュカの輝きに、果たしていつまで恋をしていられるのだろうかと。
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それから更に三十年の
ウィヌシュカとリュイリィのデュオは今、次なる裁きの対象である万年氷壁ヴァニラを目の前にしている。広大なミッドガルドの北の最果てに位置し、吹き荒ぶブリザードと豪雪が築き上げた天然の氷壁に守られた都市、それがヴァニラである。
スクルドが崩壊してから六十年の間に、女神たちは小さな殺戮を百も二百も積み重ねていた。しかし三柱の主神は、時に
「まったく、いつまで殺し続ければいいのか」
呆れたように呟くウィヌシュカの言葉には、様々な意味合いが込められていた。だがその言葉の真意を知るはずもないリュイリィは、複雑な感情を滲ませて唇を噛み締める。ウィヌは腑抜けてしまったわけじゃない、ボクに気を許してくれているだけなんだと、必死で自分に言い聞かせている。
リュイリィが抱く憧れが、いつしか薄氷のように脆くなってしまったことになど気付くはずもなく、ウィヌシュカはただ静かに待ち望んでいた。漆黒の意志に身を包んだ、再生の女神ライラの準備が整う日を。
三柱の主神は、すでに膨大な時間をライラに許していた。つまりは強大な力を持つが故に生まれた慢心が、未知なる勢力に対して六十年という準備期間を与えてしまっていることになる。
その結果
ウィヌシュカは生命を愚弄する。
自らの精神が疲弊することも厭わずに。
ただ殺し続ける。
やがて人間たちが、神々の手のひらから解き放たれる日を夢に見ながら。
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