第15話 再生の女神の腹の底。





 朧気に浮かんでいた幾つかの点が、やはり朧気ではあるが線を結びつつあった。全てが仮定に過ぎず、同時に確証もない。ましてやウィヌシュカが思い至った推測の中には、およそ人道と呼べるものから逸脱した行為が含まれている。


 そもそも断罪の執行者である自分こそ、人道などといった概念から遠くかけ離れた存在なのだが、と嘲笑を噛み殺すウィヌシュカ。


「リュイリィ、少し表に出てくる。考え事に集中したい」


 薄手のキャミソールの中で、柔肌に舌を這わせているリュイリィに告げる。すると「ボクに恥をかかせるのかよ」と、くぐもった声が返ってきた。


「戻ってきたら相手をしてやる。お前が嫌になるまでだ」


 それが場を収めるための方便なのかどうか判断が付かなかったが、リュイリィはもぞもぞと顔を出した。上気したその表情は恍惚のためか、はたまた泣き出してしまう一歩手前なのか。情婦と幼児性の両極を内包した転生の女神は、「ウィヌが帰ってくるまで起きて待ってるから」と、まるで恋人のような台詞を零した。


 積極的でありながらも、不用意な詮索をしないリュイリィの性格を、ウィヌシュカはとても愛らしく思う。持ち前の警戒心がそうさせるのか、己の精神を自衛してのことなのか。あるいは思いやりなのかもしれないが、そのいずれにせよリュイリィは、ウィヌシュカと絶妙な距離感を保ってくれていた。


「リュイリィ。私が考えていることなんて、神々にとっては益体も無いことばかりだ」


 この状況において、「何も心配することはない」と真っ直ぐに伝えられないウィヌシュカもウィヌシュカだった。しかし言外に秘められた気遣いを充分に感じ取ったリュイリィは、べえっと赤い舌を出して上着を羽織る。


 お互いに、ほんの少しの微笑み。ウィヌシュカは「行ってくる」という言葉の代わりに、暖色の灯火に同化してしまいそうなリュイリィの黄金色の髪を、くしゃくしゃと掻き乱した。





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 鳴動する蒸気船の汽笛と、海面を旅する潮風の複雑な匂い。交易都市ビフレストが眠らない街と呼ばれている理由を、ウィヌシュカは肌で感じていた。


 低い空には黒煙が垂れ下がり、形容しがたい不気味な造形を描いている。石炭を燃やし、黒煙と同時に生み出されたであろう熱量が、この眠らない街を支えているのだ。魔力に恵まれなかった人間たちは、知恵を繋ぎ合わせて莫大な動力エネルギーを我が物としている。


 研鑽を続ける彼らは、神々でさえも目を見張る巨大建造物を造り出している。防波堤の向こうには潮騒が響き、海面の漆黒には豪華客船が浮かんでいた。ウィヌシュカの背には賑やかな繁華街の喧騒。天空を目指して幾つもの鉄塔が聳え立っている。


 考え事に集中したいと言って宿を出たのに、ウィヌシュカの思考はまるで定まらなかった。目蓋を閉じて視界を遮れば、誇り高き最後を遂げた国王の問いかけが頭をぎる。


「知っているだろう? 今宵は二度目の千年祭ミレニアムだ。我らはこの二千年間、神への感謝を忘れたことなどなかった。……それでもまだ、我らの信仰は神に届かぬというのか。どちらでも良い、答えろ!」


 彼の望み通り、ウィヌシュカは答えた。

 わずかな迷いもなく、「届かぬ」と──。


 しかし彼女には分からなかった。光輝く世界を築きながら、人間たちが神々への信仰を続けるその理由が。


 自分たちが神々の食料として、ミッドガルドに生かされているだけの存在なのだと知ったら、彼らは全ての信仰を捨て去って神々を憎むだろうか。それとも真実を知ってなお、かの国王のように高潔な心を持ち続けるのだろうか。


 例えば天空を突き刺そうとする鉄塔が、いつか三柱の主神を脅かす時が来れば──、断罪の天秤はこの交易都市ビフレストに傾くことだろう。"喰らう"ための断罪ではなく、殺戮を目的とする侵略の宴が始まるのだ。


 花を咲かせようとする脅威を"滅ぼす"ことで、神々はまた慢心の座へと帰る。断罪を命じられるのはウィヌシュカかクロードか、主神にとっての女神とは、使い勝手の良い眷属でしかない。


「私は──」


 その呟きは、いつもの玲瓏なそれではない。ウィヌシュカの震える声は、誰にも届かぬまま虚空へと呑み込まれようとしていた。しかし深淵にも似た夜の闇の中から、迷えるウィヌシュカに呼びかける者が居る。


「あらあらウィヌシュカさん。そのような薄着で夜風に当たっていては、お体にさわりますわよ」


 ウィヌシュカが振り返れば、そこにはライラの姿。彼女は豊かな黒髪を一つに纏め上げ、スリップドレスにコートを羽織っていた。その印象はいつもより幾分か柔らかかったが、それでも多分に怪しげだ。つまり拭い去ることの出来ない不気味さは、ライラの内側から生まれ出づるものなのだろう。


 それに今のウィヌシュカにとって、ライラの怪しさはそれだけではない。


「湿った空気が少々寝苦しくてな。子犬が待っているから長居するつもりはないが──、お前の方こそ夜遊びが過ぎるんじゃないか」


 ウィヌシュカの鋭い眼差しがライラを射抜く。が、彼女に動じる様子はない。ウィヌシュカの与える重圧は、沼に杭を打つように受け流されていた。


「たまには息抜きも必要でしょう? 先ほどは当たりを引きましたの。ええ、とてもお上手で、実に素敵な殿方でした」

「女神としての誇りはないのか」

「それは心外ですわ。私たちは女神である以前に、純情可憐な乙女だと思うのですけれど。理解して頂けないのでしたら、至極残念ですわね」


 人間との交わりを蔑むウィヌシュカの声に、ライラはわざとらしく萎れてみせた。その様子がウィヌシュカの癇に障る。


「答えろライラ、竜人たちをどこに匿っている」


 静かな苛立ちと共に、ウィヌシュカは一足飛びに本題に切り込んだ。全ては仮定のままだったが、疑うに値する要素は充分に揃っている。しくもライラと二人きりになれたのだ。この機を逃すすべはなかった。


「はて、仰る意味が分かりません。ウィヌシュカさんったら、まだお酒が残っているのかしら」


 剣呑な空気に怯むことなく、ライラはゆっくりと首を傾げる。怯えるどころか、その仕草は優美ですらあった。


「竜人の里リズでは、長年に渡って神隠しが続いている。その原因について、お前には心当たりがあるはずだ」

「それは初耳ですね。あなたもクロードさんも、ウィグリドでの報告の際には仰っていませんでしたわ」

「不正確な情報をいたずらに報告したりはしない」

「その不正確な情報で、私にあらぬ疑いを掛けているのはウィヌシュカさんなのですけれど?」


 ライラの顔面には、優雅な笑みが張り付いたままだ。しかしウィヌシュカは構わなかった。何の確証もない以上、ライラを自白させられないことは最初から理解している。


 だからウィヌシュカは、ライラの芝居には取り合わない。否定も、沈黙も、何もかもが意味を成さないからだ。答えの出ない問いならば、答えに触れるまで踏み込むしかないだろう。現状で分かっている事実を、ウィヌシュカはただ端的に並べていく。


聖騎士団キルヒェンリッター団長が所持していた魔銀製のフルアーマー。竜人たちが生命いのちを削って行う魔銀鋳造術。辺境の地で突然行方不明になったままの竜人たち。千年王国の地下に無造作に散乱した魔具。お前の靴裏で踏み均された転移方陣」

「うふふウィヌシュカさん。いつになく饒舌なことですけれど、一体何が仰りたいのかしら」


 ウィヌシュカとの距離を詰めるライラは、更に笑みを深めた。にたりと弧を描く目元。にやりと弧を描く口元。今にも鼻歌を歌い出しそうなほど、ライラは上機嫌そのものに見えた。


「何度もリュイリィをいたぶってみせたお前が持つに、激昂したリュイリィに見せた。ライラ、お前には全ての点が結べるんだ」


 今も眠らずに待っているであろうリュイリィを思い浮かべながら、ウィヌシュカは雄弁に言い放った。これでウィヌシュカの持てる情報は全てだったが、彼女の揺るぎない剣幕が、とライラに錯覚させる。


 いつだって笑みを絶やさなかったライラが、突然に表情を失くす。それはウィヌシュカが初めて目にするライラの真顔だった。


 それから今度は──。

 わらう。


 目の前の淑女が、優雅さで身を守っていた再生の女神が、作り笑いを崩さなかったライラが、見間違いかと思うほどに下品に、嗤った。その目を歪めて、その口元を歪めて、その腹を抱えて捩れるほど。あははは、あはははははあははああ、と。


「あああああ、可笑しい。はは、傑作です。これは傑作ですわ!」


 その声は、いつもの鈴を転がすような声音ではない。いやそれでも間違いなく、そのどす黒い声はライラの喉元から放たれている。嫌悪感すら覚えたウィヌシュカは、より一層険しい表情でライラを見やった。


「ウィヌシュカさん、つまりあなたはこう仰るのですね。この私が竜人たちをさらって、かくまって、育てて、孕ませて、産ませて、増やして、その生き血で魔具を量産しているのではないかと。切り刻んで、壊して、すり潰して、治して、更なる魔具を鋳造して良からぬことを企んでいるのではないかと!」


 溢れ出る狂気に胸がざわつく。独白にも近い状態のライラを前に、ウィヌシュカはただ無言で首肯するほかになかった。




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