Capture02.聖域ウィグリド~竜人の里リズ

第5話 三竦みの主神は均衡を愛さない。





 天界ヴァルホル、冥界ニブルヘイム、精霊界ドヴェルグ──、その三界のいずれにも属さない聖域ウィグリドに、生命の原木ユグドラシルはあった。


 人間界ミッドガルドの上空を覆う雲海に有翼獣ナグルファルはしらせ、その硬質な背に乗って悠々と大空を往けば、やがて聖域ウィグリドは巨大な岩山に似た姿で来訪者を迎え入れるのだ。


 不戦の誓いに守られた天空の大地の中央に聳え立ち、遥か古の時代から豊かな輪廻を育んでいる大木こそが、生命の原木ユグドラシルである。原色の緑に祝福されたその姿は、聖域全体を監視する厳格な看守のようにも映ることだろう。


 多くの魂の核アニムスを無下に消費したリュイリィは今、そのユグドラシルの麓で雑木ざつぼくの一本にはりつけにされていた。あらわにされた白い腹部には太い杭が打ち込まれ、虚ろな傷口からは鮮血が滴り落ちている。


 瀕死のリュイリィのすぐ傍らには、再生の女神ライラの姿があった。


 腰元まで伸びた豊かな黒髪を揺らし、深い藍色に染められたローブに身を包む彼女。その出で立ちは、女神というよりも魔女に近いものに見える。その名の通り再生の能力を有するライラは、転生の女神リュイリィがこのまま絶命してしまわぬよう、彼女の側に立って治癒を施し続けているのだ。


「こういうことをするのは、あまり私の趣味ではありませんけれど──」


 鈴を転がすような声でそう断りを入れながら、ライラはリュイリィの脇腹に突き刺さった杭を真っ直ぐに引き抜いた。彼女が傷穴に両手をかざすと、魔力特有の碧色の発光が腹部を包みこむ。すると白い肌を染めていた真っ赤な華は、みるみるうちに萎んでいった。


「世の中には仕方のないことが沢山ありますものね」


 そう言うか言い終わらないかのうちに、ライラはリュイリィの柔らかな腹部にもう一度杭を突き刺した。ライラのそれはあくまでも淑やかな仕草で、激痛に身悶えるリュイリィを慈しんでいるかのようでさえあった。


 終始一貫して淑女として振る舞うライラの表情は、この場の誰からも窺うことが出来ない。彼女が大切に伸ばしているその艷やかな黒髪が、吹き抜ける風に広がって彼女の顔を遮っていたからだ。


「主神コットス。主神ブリアレオス。主神ギュゲス。恐れながらここは聖域。その土壌に不浄な女神の血を撒き散らす行為は、好ましくないのではありませんか」


 リュイリィが凄惨な罰を受ける光景を横目に、ウィヌシュカは三柱の主神らにそう提言した。三界を統治する主神たちはそれぞれに鷹揚な態度で、しかし息苦しくなるほどの威圧感を放ちながらウィヌシュカを見やる。


 しなやかな男体を持つ天界の主神、コットスが言う。


「ならばウィヌシュカよ、愚かなリュイリィには場所を変えて、未来永劫の苦痛に身を委ねてもらうとしようか」


 焼け焦げた肉体を持つ冥界の主神、ブリアレオスが言う。


「いいやコットス、赤眼せきがんの嬢ちゃんは口下手なんだ。不器用な嬢ちゃんはつまり、頭が空っぽの小娘の身代わりを申し出ているんだろうよ」


 呪われた霧の身体を持つ精霊界の主神、ギュゲスが言う。


「空っぽなのはおぬしらの頭ではないのか。匙加減を見誤り転生の女神が絶命すれば、空腹に飢えるのは我ら三神の腹だと分からぬのか」


 コットスが握る曰くつきの宝剣バルムンクと、ブリアレオスの構える河を焦がす槍スヴォル。そしてギュゲスの広げる天地創造を記した書物ミストルテインが、絶大なる魔力を放った。


 それぞれの誇る神具の重圧が三竦みとなるその中心で、ウィヌシュカは「やはり醜い三兄弟ヘカトンケイルだな」と腹の底で嘲笑する。度を越えた懲罰からリュイリィを救出したその暁には、世話の焼ける彼女にもう一度宣言せねばなるまい。「三柱の主神ヘカトンケイルとまぐわう趣味はない」と。


 ライラは場の緊迫感などどこ吹く風で、リュイリィの腹に何度も杭を突き刺していた。このまま悪趣味な主神たちの満足のいくまで、リュイリィの呻き声を聞かされるのは御免だとウィヌシュカは考える。


 しかしそうは思っても状況は芳しくない。この聖域が不戦の誓いに守られていなければ、ウィヌシュカは既に臨戦態勢を強いられているだろう。あるいは、命の危機に瀕しているかもしれない。


「そんなことよりよー、ウィヌシュカお前、面白いもん持ってんじゃねーか」


 突如として乱入した快活な声。各々が振り向けば、そこには破壊の女神クロードの姿があった。


 ウィヌシュカの銀髪よりも色素の薄い白髪はくはつに、女神には随分と稀有けうな褐色の肌。何よりも特筆すべきは、左右それぞれが気の向くままに色付いた七色の瞳オッドアイである。


 これらの外観的特徴は、彼女がいくさの運命神オーディンの気まぐれな祝福を受けたことを意味する。


 三柱の主神よりも、更に上位の存在である運命神の加護を授かった破壊の女神クロード。それ故に彼女の戦闘能力は、現存する女神の中でおそらく最強であるともくされていた。


「クロードよ、礼儀をわきまえろ。お主も永遠の苦痛を望むのでなければな」


 不愉快を隠せないコットスの忠告を、クロードは鼻先でせせら笑う。そのやり取りがとても愉快だとばかりに、ブリアレオスが耳障りの悪い濁声だくせいで言った。


「がはは、相変わらず行儀の悪い娘だな。なんならこの俺様が冥界へと持ち帰って、良い子になるまでしつけてやってもいいんだぜ?」


 水疱だらけの醜い舌を出してブリアレオスが凄んだが、やはりクロードは鼻先で笑い飛ばした。このやり取りを見兼ねたギュゲスが問う。


「破壊の女神よ。いかに血の気が多かろうとも、勝ち目の無い戦いに臨む汝ではあるまい。一体何を企んでいる」


 ギュゲスの問いかけを背に、ウィヌシュカが腰元にいた魔銀製の尖刀サーベルをまじまじと眺めるクロード。一連の身勝手な振る舞いを前に、主神たちが持つ神具の重圧が更なる魔力を帯びた。


 やれやれといった様子でクロードは踵を返し、さも気怠そうに言う。


「確かにあんたらは不条理なまでに強い。だけどこの場には四人の女神が居る。まあ、は瀕死みたいだから、実質は三人なんだけどな」

「それがどうしたと言うのか。我ら三神を前にして、女神の力など赤子に等しいと知っておろうに」


 明白な苛立ちを滲ませるギュゲスを前に、クロードは高らかな哄笑を上げた。


「だからだよ。仮にあたしらが一斉にギュゲスあんたに飛びかかったとしよう。そしたら残りのコットスとブリアレオスが、わざわざギュゲスあんたに加勢してくれると思うのかい?」


 不規則的に輝くクロードの七色の瞳オッドアイが鋭さを帯び、ギュゲスが確かにたじろいだ。破壊の女神が啖呵を切るその様子を、ライラは黒髪の隙間からそっと覗き見ている。彼女は誰にも気付かれないように、くつくつと笑いを噛み殺すのだった。




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