冬のはじまり。
ミスリス渓谷で過ごす最後の朝、アインは妙にベッドが狭いことに気が付いた。
寝返りを打とうにも左右に何かあって動けず、仰向けに寝たアインの身体の上に誰かいるのか、全く動ける様子がない。
とはいえ、寝苦しさはまったくない。今のアインが持つ強靭な肉体に対して、寝苦しさを感じさせたら逆に称賛に値するくらいである。
逆に心地良さを感じていたのは、周囲に存在する何かを大切に想っているからだろう。
(……なんだろ)
暖かさ、柔らかさ、時折聞こえる寝息の音、頭がくらくらする甘い香りが全方位から届いて止まない。
とうとうアインは目を空け、ベッドの上がどうなっているのか視界に収める。
(なるほど)
左腕にしっかり抱き着いたクリス。
右腕を遠慮がちに握ったオリビア。
最後に、胸の上にクローネが寝ていた。
しかし珍しい。
彼女たちはアインに甘え、甘えさせることに大きな意義を感じているとはいえ、アインに許可を取ることなくこういうことはしない。あまり。
だから少し不思議に思った。
寝たまま小首を傾げたアインはどうかしたのかと思い、クローネに尋ねることに決める。
「クローネ、起きて」
「…………」
「おーい……」
「…………やー。もうちょっとだけ……」
「……りょーかい」
胸板に顔を擦りつけたクローネはどこか小動物のような可愛さがあった。アインは思わず笑みを浮かべて引きつづきの就寝を許可してしまう。
が、実際のところ、これもちょっと不思議だ。
クローネだ。そう、あのクローネだ。
二人きりのときなんかは周囲の者が想像しないくらいには甘えることがある彼女だが、この状況下で説明もなしに就寝を決め込むことは想像に難い。
つづけてクリス、そしてオリビアにも声を掛けてみたが、結果は変わらず。
彼女たちも甘え交じりの寝言を口にするだけで、説明してくれる様子はない。
やはり、不思議の言葉に尽きた。
(あ、そういえば)
思い出すのは昨晩のことだ。
温泉にゆっくりつかれる最後の日だった昨日、アインはこの部屋で三人と夜遅くまで語り尽くした。
此度の旅行の思い出や、これからのこと、取り留めのないことを数えきれないほど話し、それは四人が眠くなってもつづいたのだ。
時計を見れば、まだ日が昇る前だ。
四人が何時に眠ったのかは分からない。だが、数時間も寝られていないことは容易に想像できる。
……言うならば、アインの傍に居る三人は極度の寝不足に陥っていた。
だから普段と違って感情に従い、アインに甘え共に就寝するに至っていた。
――――すべては、昨夜の寝落ちが原因であるのだと。気を許すもの同士語らううちに、いつしかこうなっていた結果であるとアインは理解に至った。
(よし)
理解に至ったらスッキリした。
すると瞼が重くなっていく。
(寝るか)
まだしばらく余裕がある。
三人も寝ているし、アイン本人も眠気の限界だ。
だから、三人を起こそうとしなかった。傍に三人の体温を感じるままに、穏やかな寝息をもう一人分重ねたのである。
◇ ◇ ◇ ◇
『またのお越しをお待ちしております』
定番の挨拶で見送られた一行は飛行船に乗り、王都への帰路に就いた。
帰りは今日までの時間が消えるみたいに思えて切なさがあった。だが同じくらい、今までと同じ王都での暮らしに戻ることに楽しみもあった。
また、明日から公務を頑張れる。
皆同じことを考え、アイン発案の旅行で心身ともにリフレッシュしたのがよくわかる。
……空を飛ぶ飛行船からは、イシュタルの大地が見渡せた。
アインは窓からその景色を見下ろしながら。
「いつかまた、皆で旅行できるといいな」
一人呟く。
でもそれは間違いなく難しいことだ。
一人一人が大国イシュタリカの重鎮で、予定を調整するだけで一苦労だ。
でも、無理でないことは今回の旅行で分かった。毎年のように旅行をするなんてことは無理だとしても、数年に一度くらいならもしくは、と思える。
そのためには日ごろの公務に精を出さなければいけないのだが……。
「次は五年後とかかな」
なぜなら、来年から特に忙しくなる。
今年の冬で十九歳になるアインは即位の予定が決まっていた。
それは二十歳を過ぎて最初の春だ。再来年の春には国王になっている。
だからこそ、この旅行で得た活力を元に頑張らなければ。
――――記憶はなくとも、一度は失敗した王の生まれ変わり。
失敗は許されない。何が何でも。
このイシュタリカという国の栄華を未来永劫つづけるためにも、必ず。
「あっ」
考えているうちに王都が見えてきた。
王都は空高くから見下ろしてもすぐに分かる。それほどまでに人々の営みが明るい光となり、アインのことを迎えていた。
真夜中でも、満天の空に負けじと煌いていたのだ。
さて、そろそろ降りる支度をしないと。
『アイン様。もうすぐ到着致します』
扉の外から届いたディルの声に「すぐ行く!」と返事をして、旅行に使った荷物をまとめはじめる。
席を立ったアインはその場でうんと背を伸ばし、頬をパンッ! と叩く。
「明日からまた、頑張ろう」
いつかまた、家族で旅行を楽しめるように。
……なんて言うのは、些か不純だろうか?
アインは自問した後に笑い、気持ち新たに決意を固める。
必ずや、立派な王になろう――――と。
「おお、アイン」
「これはアイン様」
部屋を出ると、シルヴァードとロイドの二人と偶然鉢合わせる。
「アイン様。重ねてお礼申し上げます。この度は私とベリアのこともご招待いただきありがとうございました」
「私からもお礼を。ありがとうございました」
そしてウォーレンとベリアの二人もやってきて、皆、顔をあわせ歓談を交えながら移動する。
「夢のような時間だったぞ」
「それは何よりです。俺も、みんなで楽しめてよかったです」
「私もです。このロイド、アイン様に何とお礼をすればよいか……」
「それなら明日から、俺の野望に尽力してくれたら大丈夫。勿論、ウォーレンさんと婆やもね」
「む?」
「私たちもですか?」
野望、この言葉を聞いて口を開け驚いたシルヴァードと違い、ロイドとウォーレンは気になった様子で尋ね返した。
その内容を、アインはすぐに口にする。
「そ。また家族旅行ができるように頑張らないといけないからね」
次期国王の口から出た可愛らしく、素敵な野望に皆の心が温められた。
一度は驚いたシルヴァードも頬を緩め、アインの頭を軽く撫でる。
「そうだな。また余たちに余裕ができた暁には、是非とも皆で旅行に行きたいものよ」
少しずつ迫る王都を、皆は窓から見下ろした。
またいつか、必ず皆で。
何よりも優先すべき国家運営の合間に、その時が来たら――――。
◇ ◇ ◇ ◇
――――いつしか、王都も雪化粧に覆われた。
十一月を過ぎ、もうすぐ十二月に差し掛かろうとしていた冬のある日、真っ白な息を吐きながら王都を歩くアインが空を見上げる。
「……さっむ!?」
至極当然なことを口にして、隣を歩くクリスを笑わせた。
「もー、冬なんですから当たり前ですよー?」
彼女は白雪に負けじと純白のコートに身を包み、片手だけ手袋をつけている。
片手だけなのは、もう一方の手はアインのぬくもりに包まれたかったからだ。重ねられた二人の手に舞い降りた雪の粒は、すぐに溶かされてしまう。
「ところでさ、新しい剣があれば周りも暖かくできるかな?」
「できると思いますよ。でもでも、暖かいどころか灼熱に包まれそうなんで試したりはしないでくださいね? クローネさんもそう言ってましたから!」
「……だよね」
話をしつつ、数分も経てば目的の場所へたどり着く。
二人が向かった先にあるのは、三角屋根を雪化粧するも、煙突の周囲だけが工房から発する熱で屋根がさらけ出されたムートンの家だ。
少し古くなってきた木製の門は、手を当てて動かすと若干軋む。
その音を聞き、工房の扉が開かれエメメが姿を見せる。
「よーこそお越しくださいましたっ! ささっ、中へどーぞ! ししょーがお待ちですっ!」
「うん、ありがと」
実際のところ、立場を鑑みればムートンが城に運んでもいいのだ。
彼からもそれを提案されたが、アインが自分で取りに行くと言ったから今に至る。
せっかくだから散歩にもなるし、ムートンもムートンで、何か問題があればその場で剣を調整できるから、本当のところはアインが来てくれた方が助かっていた。
「おじゃましまーす」
アインが工房に足を踏み入れれば、いつものように寝不足で重い瞼のムートンが姿を見せる。
よく見れば、傍に控えるエメメもだ。
二人はアインの剣を鍛えるとなればいつもこうだ。
言わずもがな、アインが急かしているわけではない。
単に二人の気分が高揚しすぎて、剣を鍛えることに楽しみを見出し、寝る間も惜しんで鍛冶師ごとに勤しんでいるだけ。
アインをクリスを迎えた二人が疲れていながらも達成感に満ち溢れた笑みを浮かべているのは、そのせいだ。
「すげえモンができた。どのぐらいすげえかっていうと、こんぐらいだ」
ムートンが両腕を雄々しく広げる。
どのくらいか、よく分からない。
「前までの剣はどのくらいだったんですか?」
「あァん? そりゃ殿下……こんぐらいにきまってんだろ?」
両腕が十数センチほど狭まった。
やはり違いがよく分からない。
「別格だぜ、こいつは。前までも値を付けられない化けもんだったが、こうなっちまうと、殿下が崩御してからもこの件は余に残さねぇ方がいい」
不穏な言葉に若干クリスが眉をひそめたが、彼女もすぐにその意図を理解する。
「アイン様以外が持つと、国の危機とも言えるのですね?」
「そうだ。そもそも殿下以外にこの剣が忠誠心をも使って話だけどよ。それにしても、万が一を思うと、後継ぎに渡さない方がいい。こりゃ、あのバハムートっちゅう船を凌駕する戦力だ」
すると、ムートンは床に置いていた長い木箱を持ち上げた。
煤で汚れた切り株のテーブルに置くと、蓋を取って中を披露する。
納められていた剣、イシュタルは若干変貌を遂げていた。
漆黒の剣身はマルコがリビングアーマー時代にあったような筋が完全に消えている。
アインが握ると、深紅のオーラが一瞬だけ瞬いて、刃の部分だけ僅かに深紅に染め上げた。
「あの偏屈フオルンが殿下の素材を用いて作った、っていう金剛木があるだろ? あの火が良すぎた。良すぎたせいで予定外の問題が生じたわけだ」
「もしかして、炉が壊れちゃいましたか?」
「んなもん気にすんな。殿下の剣を打つときは毎回壊れてんだよ」
「……クリス」
「はい。過去の分も踏まえてお支払い致します」
なぜ教えてくれなかったのかとアインが一瞬、肩をすくめた。
その後で謝罪すると、ムートンは豪快に笑い飛ばす。
「んなぁーっはっはっはっはっ! いいじゃねえか炉が壊れるくらい!」
「そうですそうです! じゃないと剣が打てないんですから、仕方ないですよー!」
「おうともさ! ま、補填してくれんのはありがたいけどな!」
閑話休題。
ムートンはここで机に置いていた水を飲みはじめた。アインとクリスにもエメメが淹れた茶があって、二人もそれを口元に運んだ。
「で、予想外の問題って話だが、一度、そのイシュタルが丸ごと溶けちまってよ!」
「……え?」
「いやーすごかったですよねー」
「びっくりだぜ。炎は静かだってのに、剣を置いた瞬間溶けだしたんだからな!」
「ですです!」
「ってなわけだから、せっかくだし一から打ち直せたってわけよ! 黒龍の素材やらなんやらみたいなんを重ねてきたが、実際、重ねるよかちゃんと混ぜた方がいいしな」
「だからリビングアーマーの特徴は消えちゃいましたが、安心してくださいっす! あくまでも外見が変わっちゃっただけで、特性はむしろ遥かに増していかされてるはずですよ!」
それは別物だろ。
アインは心の内で呟き、隣で苦笑いを浮かべることしかできないクリスを見た。
「あははっ……絶対に後世に残せませんね」
これには端から端まで同意せざるを得なかった。
「でもま、安心してくれや。殿下が主人なのは変わらねぇから、殿下以外が持っても力を発揮するようなことはないはずだ。訓練でその剣を使ってもらっても構わない」
「いや、切れ味の問題がですね」
「それも心配いらなくなっちまった。刃は確かにあるんだが、何度押し当てても引いても何も斬れやしねぇしな!」
大問題じゃねえか、とアインは唖然とした。
しかし、ムートンの話にはつづきがある。
なんでも、アインが持てば斬れるはずなのだとか。
「斬ってみてくれや。あの炉とかぶっ壊れちまったし、解体がてら頼むぜ!」
大工仕事を頼むようだが、実際、炉はかなりの耐久力だ。
特にムートンの工房にあるのはイストで造られる最新鋭の炉のため、冒険者の聖地バルトの鍛冶師であっても、導入している者が僅かな逸品だった。
アインは言われるがままその炉に近づき、生まれ変わったイシュタルを軽く振った。
深紅のオーラが刃に宿ると、触れ合った炉がすぐさま両断される。
一見すれば切れ味の違いは分からないけど、手にしたアインは遥かに増したことに気が付いていた。
まるで違う切れ味だ。
今までが鈍らだったと勘違いしてしまうほどに。
「な?」
イシュタルを眺めて驚くアインの横でムートンが腕組み。
「すっげぇだろ? 切れ味が良すぎて困ることもあるが、そのイシュタルは殿下の意識次第で多少なりとも手加減できるはずだ。これまで同様、可愛がってやってくれよな」
まるで生きた剣だ。
以前も似た感想を抱いたが、それが更に進化している。
(……良かった)
力自分の意思で抑えられるのなら、それに超したことはない。
アインが慣れた手つきで鞘に納め腰に携えると、イシュタルから仄かな熱が届いた。
それは、主人の元に戻ったことに喜んでいるようだった。
◇ ◇ ◇ ◇
同じ頃、城に届いた一通の手紙。
それは城に足を運んだギルドの者からで、手紙を見たウォーレンは眉をひそめる。
「大陸西方で不穏な動き、ですか」
同じ執務室に居た燕尾服のデーモンがそれを聞いて言う。
「西方と言うと、あのミスリス渓谷のさらに奥の方であるとでも?」
「どうやらそのようです。ゴーレムの調査に向かった研究員を護衛する冒険者たちが、更に奥地で得体のしれない魔力を感じたとのことでして」
「魔物ではないのか?」
「はい。人工的な――――たとえば、魔石砲を思わせる魔力の波動であったそうです」
ここまで言ったウォーレンは手紙を認める。
送り先はギルドで、他にもミスリス渓谷へも。
まずは情報が欲しい。
一つでも多くの手掛かりを得るため、迅速な行動をしなければ。
「――――やれやれ」
と、ウォーレンが苦笑い。
つづけていつもの調子で言う。
「本当にこの国は、いつの時代も賑やかですな」
すると、今度はマルコが。
「だからこそ、いい国なのだろう」
古き時代からイシュタリカを支えてきた老躯二人。彼らは今日も賑わう城下町を見下ろし、好々爺然とした笑みを浮かべたのだった。
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