我慢勝負と熱。

 フオルンの長老と会ってからは何事もなかったかのように宿に戻った。それからシャノンとしばらく取り留めのない話に花を咲かせ、うとうとしたアインが気が付くと朝になっていた。

 ベッドで身体を起こした彼は、いつの間にかシャノンが居なかったことに気が付く。



「…………悪いことしちゃったかな」



 恐らく寝落ちをかましてしまった。

 それはもう、あっけなく。



 だが、さして心配はいらない。

 アインは気が付かなかったが、実のところシャノンは満足して姿を消したのだ。

 あまり見られないアインの油断しきった姿を見て、彼をベッドまで案内して寝かしつけてからというもの、しばし横から寝顔を眺めてから。



 このことに気が付かないアインは「また謝っとかないと」と呟き、ベッドから立ち上がり洗面台へ向かう。

 さっと朝風呂を嗜んでから身だしなみを整えたところへ、部屋の呼び鈴を鳴らす音が聞こえてきた。



 部屋の外へ向かったアインはそこでディルと会う。



「アイン様。おはようございます」



 まずは開口一番挨拶を口にした彼が、若干疲れた様子で言う。



「陛下がご興味のある温泉に行かれるそうです。是非、アイン様もと仰っておりました」


「ん、りょーかい。ディルも一緒にいこっか」


「はっ。――――実のところ、陛下は私を含む皆様をお誘いなさっておいでですので、僭越ながら、このディルもご一緒させていただければと」



 ともあれば、中々仰々しい一団となりそうだ。



「出発はいつ?」


「準備ができた方からエントランスに集合、と聞いております」


「わかった。それじゃすぐ支度するよ」



 準備をすると言ったものの、持ち物は一つや二つだ。

 剣と財布くらいなものである。



(服……どうしよ)



 自らの立場を鑑みる。

 統一国家イシュタリカが次期国王、王太子だ。

 そんな自分が浴衣を想起させるラフな格好で温泉街を歩くことについて、見るものは何を思うだろう? さすがにシルヴァードにも叱られそうだ。



 仕方ない。着替え直すか。

 身を包むその服を脱ごうとしたところで、また呼び鈴が鳴らされた。

 ディル? 小首を傾げたアインが部屋の外に戻った。



「何度も申し訳ありません……。言いそびれたのですが、陛下から伝言がございます」


「あ、やっぱり服装とか?」


「お察しの通り、服装でございます」


「分かってるって。俺も王太子になってしばらく経つんだし、そのあたりはちゃんと――――」


「はい。ちゃんと着替えることなく宿の中と同じ服装で来るように、と」


「――――ほう?」



 まるで逆ではないかと唸ったアインが腕を組む。

 だが、昨日見た光景を思い返す。

 宿に来てシルヴァードと合流したアインは目の当たりにしたはずだ。シルヴァードがロイドたちを引き連れ、今のアインと同じラフな格好で温泉街に繰り出した光景を。



「でも、ディルは騎士服じゃん」


「さ、さすがに私は……」



 とディルが苦笑するも。



「ニャニャ? ちょうど良かったニャ! 二人とも一緒に――――って、うちの旦那はなーに真面目な服を着ちゃってるかニャ! ほりゃ! さっさと着替えに行くのニャ!」」


「なっ――――ま、待ってくれ! 私はまだアイン様と――――ッ」


「自分の父もラフな格好だってのに、なーに自分だけ堅苦しい恰好してるのニャ! ほりゃ、キビキビ歩くニャ!」



 連れ去られていく。

 騎士の中の騎士、エリート中のエリートに数えられる金色のケットシーが、妻を前に抵抗らしい抵抗をできず情けなく拉致されていく。



「カティマさん」



 ディルはアインが助け舟を出してくれたのだと思った。



「俺はエントランスで待ってるから。よろしく」



 しかしそうではない。

 項垂れたディルはそのまま引っ張られていき、近くの部屋に連れ込まれた。

 その寸前、ニヤリと笑ったカティマの顔は狩人のそれであった。




 ◇ ◇ ◇ ◇ 




 しばらく後、アインはミスリス渓谷が一角に位置する湯地場の入り口に立っていた。

 その店構えは多くの湯地場が並ぶこの温泉街でも特に目を引いた。



「あの……本当に湯地場なんですか? 魔物の素材が売ってる店とかじゃないですよね?」


「うむ。湯地場で間違いないぞ」


(…………本当なのか)



 この湯地場は入り口が八つに分かれていた。

 それらは男女で別れるから実質四つである。



 アインは男湯と書かれた看板側の入り口を端から眺める。



 まず一番左に白いバイソンが描かれた暖簾が掛かった入り口が見える。その一つ横には赤いバイソンが。そしてその横には黒いバイソンが。右端の暖簾には金色のバイソンが描かれていた。



(わ、わけがわからない)



 店構えに唖然とするアインを傍目に、シルヴァードがクローネに声を掛ける。



「クローネよ。左から右に向かうにつれて刺激が強くなるのであったな?」


「はい陛下。仰る通り、ホワイトバイソンからキングバイソンに向かうにつれてお湯が熱くなり、湯に溶けた人体に影響のない魔力が濃くなります」


「ふむ」


「ですがキングバイソンの湯はあまりお勧めできません」



 言い辛そうで、申し訳なさそうな声色だった。



「む? なぜだ?」


「熱と刺激が強すぎるせいで、開店以降、五分を超えて浸かれた方がいないようでして……」


「ほほう……それはすごそうであるな……」


「ねぇ、クローネさん。その魔力は身体に良いの?」



 つづけて尋ねた王妃ララルアへクローネが答える。

 壮年であるはずなのに、ダークエルフの彼女はクローネたちに劣らず若々しく美しかった。当然、今の服装もよく似合っている。



「イストの研究では健康に良い食事をするのと同じく、身体の若返りや健康、美肌に効果があると伺っております」


「あらいいわね。それならなるべく刺激が強い方がいいのかしら」


「お爺様から聞いたところによれば、レッドバイソン以降は大きく変化がないそうですよ」



 その情報に間違いはないはずだ。ここはオーガスト商会が運営する湯地場の一つだから、そのオーナーが言うのであれば疑う余地はない。

 クローネは喜ぶララルアを見て優しげに微笑んだ。



「ねぇねぇ、今日も一緒に入る?」



 そのクローネがおもむろにアインの傍に来て耳打ちした。内容を悟ったクリスとオリビアも同じように近づき、興味津々といった様子でアインを見た。

 だが、どう考えてもあり得ない話である。

 色々な事情は置いておくとして、今日はララルアも居るのだから。



 このことを考え、口に出そうとしたアインに対してララルアが言う。



「いいわね。孫と旅行してるんだから一緒に入らないといけないわ」


「お婆様。物凄い暴論です」


「別にいいんですよこのくらいで。旅行中なんだから常に無礼講みたいなものですから」


「え、ええー…………」



 戸惑いはじめたアインはここで不意にカティマへ目が向いた。

 どうしてだろうと疑問に思っていると、彼女がニヤついていたから気になったのだとすぐに悟った。



「ニャハハッ。愉快愉快」


(――――まさか)


「ニャ~? なんでこっちを見てるのかニャ~? 聡明なカティマ様に助けてほしいってとこかニャ~?」



 言葉がでないほどうざかった。

 表情も声色に至るすべてが本当にうざかった。



(やりやがったな、あの駄猫)



 昨日の混浴騒動がなぜ引き起ったのか疑問だったが、ここで確信した。昨夜もカティマの犯行を疑ったが、証拠がないから見逃していたのだ。

 でも昨日はアインが油断しきっていたことも要因である。

 だから強くは言えない。

 しかし、見逃せるかと聞かれたら答えは大声で無理と叫ぶくらいのことである。



「ならんぞ。アインは余と共に湯に浸かるのだ」


「お、お爺様……!」



 思いもよらぬところから届いた助け舟にアインの心が落ち着きを取り戻す。



「ネームドが相手と言えど恐れはない。挑まずして何が王か。怖じ気る王が統べる国に未来はない」


「陛下、このロイドも供を致しましょう」


「どうやら宰相の私も、怯んでいる場合ではないようですな」


「あの……なんで温泉を前にそんな意気込みを……?」



 戸惑うアインの前を三人が歩いていく。

 その足取りは迷うことなく黄金のバイソンこと、キングバイソンの暖簾へ向かっていた。



「アインはどうする? やめておくか?」



 正直、遠慮したいところではある。

 クローネの説明を聞いた今では、純粋に湯を楽しめる気がしなかったのだ。

 彼の口からその返事が漏れかけたのだが。



「うーん……申し訳ないのですが……」


「そう言うな。旅行なのだから気にせずともよい。また別の湯でゆっくりつかれそうなところで共にしよう」


「……すみません」


「気にするでない。さすがに英雄のアインであっても温泉は別であろうからな」



 その言葉を耳にしたアインがピクッ、と眉を吊り上げた。



「はっはっはっ! 陛下! 温泉は倒す相手ではございませんぞ! 今の言葉ではまるで、アイン様では勝てないと言っているようなものではありませんかッ! どんな魔物にも勝てるアイン様なら、たかが温泉でありましょうとも!」



 悪気はないし、情報を添えただけ。

 ロイドの言葉に込められた意味は本当にそれだけなのだが、アインの心には勝てないという言葉だけが何度も反芻していた。

 近くでその声を聞いたクリスにクローネ、そしてオリビアが顔を見合わせて仕方なそうに肩をすくめた。



「あーあ……ロイド様、言っちゃいましたね」


「残念。これで一緒に入れなくなっちゃったわね」


「ふふっ。アインったら、お顔が凛々しくなっちゃってます」



 挑発に弱すぎるかどうかという問題ではあるが、最近のアインは油断しきっている。それに加え今の彼は感情の起伏に富んでいて、言い換えれば幼い頃のようにやんちゃな側面があった。

 だから、聞き流すことができなかった。



 意気揚々と踏み込んだ足が向くのは、キングバイソンが描かれた暖簾の方。

 一足先に暖簾をくぐったシルヴァードたちの後を追った。



「ア、アイン……様……?」


「ディル。行こう」


「ですが……」


「挑むことを忘れた英雄にはなりたくないんだ」



 ないやら熱い台詞を口にしたが、傍から見れば気が抜ける。

 相手は温泉。言い換えれば温度が高く刺激が強いというだけの温泉だ。

 そこに挑む英雄がいくら熱のこもった言葉を口にしたところで、伝説に刻まれるかというと、答えは確実にいいえであった。



 しかし、ディルは何も言わず供をした。

 自信もアインにつづいたのだ。



「やれやれ。こんな挑発に弱いアインは久しぶりに見るのニャ」


「カティマさんも女湯の方でキングバイソンの湯に行ってみれば?」


「馬鹿言うんじゃないニャ。私は普通にゆっくりしてくるに決まってるニャ」


「ふぅん……まぁ、別にいいけどね」



 暖簾の前で足を止めたアインが背中越しに不敵な声を発した。



「な、なんなのニャ? その嫌な感じは」


「別に。聡明なケットシーも温泉からは逃げる……なるほどね。って思っただけだから」



 挑発の理由は当然、昨日のいたずらへの報復だ。

 先ほども思ったが果たして本当に報復が必要かという話でもあるが、どうしても流せない。それがアインとカティマの関係性で、幼い頃からつづく二人の掛け合いだから。



「――――もう一度言うニャ」



 そして、これもわかり切っていた。

 カティマはアインに挑発されるとほんの一瞬で頭に熱を湛えるのだ。



「誰が何から逃げる、って言ったニャ?」


「カティマさんが、温泉から」


「よく言ったニャ! その言葉は絶対に後悔させるからニャッ!」


「具体的には?」


「勝負ニャッ! 私とアイン、どちらが長い時間浸かっていられるか勝負するのニャッ!」



 互いに嘘はつかないと信じていた。

 だから時間は中にある時計で測ると決める。カティマは一足先に大股で暖簾をくぐって行き、それを見届けたアインもディルを連れて暖簾をくぐる。



「ごめん、奥さんに言い過ぎたかな」


「いえ、あのくらいでよろしいかと」



 その後ろでは、残された女性陣が微笑む。

 彼女たちも見たことのないアインたちが楽しむ姿に、楽しさを覚えずにいられなかった。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 湯は想像以上に熱かった。ついでに、お湯に溶けたという魔力が電気を浴びたように肌を刺激してくる。



「ところでアイン様」



 しかし悠然と湯を楽しむロイドがアインに声を掛ける。



「今朝方……というより深夜ですが、お一人で外に行ってらっしゃいましたな?」


「な、なんのことか分からないな」



 同じく余裕のあったアインがその問いに一瞬どもってしまう。

 その隣で「やれやれ」と口にしたシルヴァードもまた余裕があって、更に近くで湯に浸かるディルも余裕ながら頭を抱え、ウォーレンはただ一人汗もかかずケロッと笑っていた。



「アイン様。なぜ私に何も言わなかったのですか」


「ディルは忙しそうだったし」


「ぐっ……しかし……」


「わかってる。だからって一人で行くのは推奨されないのは間違いない。だからこれは俺が悪いんだよ」


「して、どちらに行かれたのですか? 今朝方、ウォーレン殿も気にしてらっしゃいましたぞ」


「ですな。時間帯から考えるに散策ではないでしょうし……」



 湯に入ってから五分が過ぎた。

 皆はまだ湯を上がる気配がない。



「フオルンの長老に会ってきたんだ」


「まったく……なにを言うかと思えば。しかし、何を思って一人で行ってきたのだ?」



 そして、六分が過ぎた。



「眠れなくて暇だったもので」



 シャノンのことは口にできないためこう言って濁した。

 理由を聞いたシルヴァードが怒ると思っていたアインだが、意外にも叱責されなかったことに驚く。そうしている間にも、シルヴァードはつづけて尋ねてくる。



「収穫はあったか?」


「ありました。フオルンの長老には渋られてしまいましたが、どうにか金剛木を用意してもらえることになった感じです。数日後にフオルン組を経由して連絡すると言ってました」


「おや、よく説得できましたな」



 驚いたロイドが目を見開く。



「私もあのフオルンの性格は聞いております。聞けば聞くほど依頼をするのが難しい相手に思っておりましたのに、さすがアイン様といったところですかな」


「興味ありますな。私もアイン様の交渉術を目の当たりにしたかったものです」


「私もですよ、ウォーレン様」


「アイン、我らにどうやって説得したのか教えてくれんか?」


「…………えっと」



 何て言おう。自分は交渉してないんだ。

 迷い過ぎてもボロがでる。

 だからすぐに返事をしなければと思っていたら、長老を働かせることに努めていた若いフオルンたちのことを思い出した。



 彼らの振る舞いを皆に聞かせたら、思いのほか素直に受け入れられる。

 アインは胸の内で密かに安堵の呟きをした。



 ――――そして、湯に漬かりはじめてから十五分が過ぎた。



「たわいもありませんな。ネームドのキングバイソンと言えど我らの敵ではないようだ」



 不敵なロイドの声が湯が流れる音に混じった。

 開店以来他の誰も達成できなかった時間を優に超え、猶も余力を残した彼らは勝ち誇った様子で天を仰ぎ見る。空からはゆっくり、真っ白な雪が舞い降りてきていた。



(カティマさんはどうしてるだろ)



 一応、勝負を仕掛けた身である。

 相手のことが気になって仕方ない。



 ――――やがてニ十分、そして二十五分と時間が経った。



 すると遂に脱落者が現れる。

 とうとう我慢しきれず湯を上がったディルは洗い場に行き水を浴び、疲れた様子で脱衣場へと向かって行ったのである。



 つづけての脱落者はシルヴァードだった。

 彼は三十分を過ぎるや否や勢いよく湯を上がり、ディルに倣って水を浴びて脱衣場に戻ったのだ。



「アイン様、絶対にご無理はなさらぬように。……これは煽りではありませんぞ」



 本心からの言葉を口にしたロイド。

 彼の肌はもう真っ赤だ。

 汗も絶え間なく流れている。



 ――――しかし、結局ロイドも脱落した。

 三十五分を過ぎたところで彼もまた湯を上がったのである。



 残されたのはアインとウォーレンの二人だけ。

 だが、アインは戦慄する。傍で湯に漬かるウォーレンの顔を見て、湯に入った当初とまるで同じ顔つきの事実に口をあんぐりと開けて言葉を失った。



「それにしてもいいお湯ですな」


「……そうだね」


「此度はアイン様に感謝するばかりでございます。まさか私とベリアまで連れてきていただけるとは思いませんでしたぞ」


「じ、実際家族みたいなものだし……。それにグレイシャー家の元をたどれば……」


「おや? 随分と古い話ですが、アイン様にお教えしたことがあったでしょうか?」


「ウォーレンさんじゃないよ。ハイム戦争前にウォーレンさんが倒れたとき、婆やから聞いたんだ」



 婆やことベリアは昔、ウォーレンとともに夫婦として生活していたことがある。その際、現代にもつづく大貴族の祖となる養子を育てたのだ。

 その大貴族の名はグレイシャー。いまや大公となった元帥の家系である。



「だ……だから、どこまでいっても家族旅行だよ……!」


「――――ははっ、貴方、、にそう言われるとは思わなかった。過去の私に言えば何と驚いたことでしょう」



 感情に訴えかける会話をすること、更に十数分。

 アインは一時間が過ぎたところで遂に我慢の限界を迎えた。

 湯舟を飛び出し洗い場で水を浴び――――。



「ウォーレンさん! これからの旅行も一緒に楽しもう! それと、俺はもう限界だから涼んでくるッ」



 こう言い残し、ウォーレンが浮かべた好々爺然とした笑みを見てからこの場を後にした。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 男女共有のサロンに行くと、中央に置かれたソファに横たわる猫がいた。



「…………今日のところはこのくらいにしといてやるニャ」


「勝負を吹っ掛けといてなんだけど……大丈夫?」


「ディルに冷たい飲み物をたくさん持ってきてって頼んであるニャ」



 もう駄目だ。彼女は起きる気配がない。

 しかし、疲れ切っているようではなかった。



「意外と悪くなかったニャア……刺激が強すぎたけど、癖になりそうな温泉だったニャア……」



 その感想にはアインも同意した。

 風呂上りは独特の気だるさはあっても、身体の軽さも同時に感じたのだ。

 さすがに運動する気にはなれないとしても、湯に入る前と比べると、今の方が身体の調子がいいように思えてならない。



 二人は最後に親指を立て合って互いを称賛した。

 すると、アインもまた飲み物を取りに行く。

 飲み物を手にしながら、自分もどこかで休憩しようと思いこの広いサロンを見渡した。布で仕切られた休憩用のソファの片隅に、オリビアを見つけたのはこのときだった。

 彼女はアインのことを手招く。



「いいお湯でしたね」


「はい。長く浸かり過ぎた気はしますが、結構身体が軽くなりました」


「それはよかったですね。……あらら? 首と顔が真っ赤になっちゃってますよ」



 アインはオリビアの隣に座り、肌の赤さのことを苦笑した。

 隣の彼女も湯上りで火照った肌だがそれでも常識の範疇だった。常識の範疇にないのは彼女自身の艶だけだ。



「ふふっ、ちょっと休憩しましょうか」


「そうしようかなって思ってます。あれ? そういえばクローネたちやお爺様たちは?」


「建物の中にある売店を見に行くんですって。だからもうちょっと戻ってこないと思いますよ」


「道理でカティマさんしかいなかったわけですね」



 合点が言ったアインは持ってきた飲み物を一気に飲み干し、ふぅ、とため息を吐く。

 こうしているとカティマのように横になりたくなってきた。

 心地良い気だるさに抗わず、身体を休めてしまいたくなったのだ。



「どうぞ」



 トン、トン。

 隣に座るオリビアが自らの膝を叩く。



「横になりたいんですよね?」



 何も言ってないし表情だって特に変わっていないのに、それでもバレてしまった。

 オリビアにとってはごく当たり前のことだ。



「ここなら布で仕切られてるから見られたりしませんよ。それに誰か来たら声で分かりますから、安心して休んでください。――――さぁ、いらっしゃい」



 温泉の熱で溶け切ったアインに抗う術は皆無だった。

 むしろ、アインの身体に手を伸ばしたオリビアの方から彼の身体を横たわらせ、自分の膝の上にアインの頭を乗せてしまう。



「ふふっ。いい子いい子」



 横になったアインに伝わる熱と柔らかさ。それに香り。

 すべてが精神を落ち着かせ、そして堕としにかかる絶対的な兵器だ。聖女オリビアがアインにしか向けない愛の塊が、彼の心に宿る抵抗をあっという間に砕ききってしまう。



 不意に彼女の手がアインの頬に伸びた。

 髪を避けるその指先がこそばゆい。

 でも、そのこそばゆさが心地良くて目元がとろんとしてきてしまう。



 そんな至福の時間は、皆が戻る十数分後までつづいた。

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