王都を発つまでと、王都を発ってすぐの話。

 およそ二か月の月日が経つ。

 もう十一月に差し掛かる直前の秋だった。



 あの日、シルヴァードが家族旅行という言葉に喜びを示し、更にアインを筆頭にはじまった計画に対して制止することなく応じてから。

 アインはその日を境に、今までにないほど公務に励んだ。



『シュゼイドから連絡が届いております! なんでも最近の復興状況についてご相談があるとのことです!』


『崩壊したシュトロムの港ですが、復旧が完了いたしました!』


『暇だったらマグナ産のおやつを注文してほしいのニャ!』


『急務にて失礼いたします! ハイム公よりご連絡届いております! バードランドの騒動について、黄金航路の元幹部がイシュタリカに補償を求めているそうであります!』


『殿下ッ! 王都北方の村にて、先日の魔物たちのよる余波で地盤に僅かな沈下が――――ッ!』



 当たり前だが忙しいのはアインだけではなかった。

 執務の際はクローネが傍にいることが多い。二人が一緒に居たいというわけではなく、その方が仕事をしやすいからである。

 そこには一緒に居たいという気持ちも勿論あったが、それどころではなかった。



『シュゼイドの件と、シュトロムの報告はすべて私に回してください!』


『はっ!』


『補償って言っても元幹部は対象外! むしろ、のこのこ出てきたなら身柄を拘束して話を聞くように! って俺からティグルに伝えておく!』


『承知致しましたッ!』


『…………ってなわけでクローネ。ちょっと席を外すよ』


『村に行くのね?』


『そ。俺がどうにかしてくる。すぐに帰ってくるから』


『ええ。気を付けて行って来てね』



 席を立ったアインへと、隣に座っていたクローネは背筋を伸ばして口づけをした。



『ありがと。元気出たよ』



 アインはクローネの額に口づけを返すと、執務室を出る直前に駄猫カティマの首根っこを摘まむ。



『おやつは自分で注文するように。というか、どう考えても暇じゃないでしょ』


『か……軽いジョークだったのニャ……堪忍ニャァ……』



 道中でディルと合流したが、彼は妻の様子を見て絶句していた。

 アインに文句を言うでもなく、また妻が何かしたのだと思い開口一番謝罪したほどだ。



 ――――こうして、アインたちの今までにない忙しい日々が二か月過ぎたのだ。



(いつもの十倍くらい働いた気がする)



 アインは今、飛行船の中にいた。

 朝早くに王都を発って大陸西方に向けて飛行船を飛ばし、ようやく目的地の近くにたどり着いたところである。



(ここがミスリス渓谷か)



 今まさに見えてきた景色を前にして、事前に調べていた情報を思い出す。



 ――――ミスリス渓谷は大陸西方に位置する秘境と言われていた時代がある。

 しかし近年では開発が進み、特にアインがイシュタリカに渡ってからと言うもの、西方におけるもっとも人の手が入った地域である。



 地形は渓谷と表記されるように山間に位置しており、前後を大山に挟まれた環境にある。

 それらの大山は古き時代、魔王大戦が勃発していた当時は活火山であった。

 しかし噴火活動により周囲の異人に影響を与え過ぎたことを鑑みて、巨大な魔道具を用いることでその活動を人工的にコントロールしてきた歴史がある。



 ただ今となっては、それらの魔道具がなくとも噴火することはないだろう、と研究者が宣言しているとのとこで、魔道具に万が一があってもすぐに噴火することはないらしい。



 また、こうした地形の影響もあり、一般的には水列車を何度も乗り継がなければ足を運ぶことはできない。

 だというのに貴族にも人気が高いのは、やはり休暇にぴったりの場所だからだろう。



(…………って話だったけど、癒されても帰りに疲れそうだな)



 幸いにもアインは飛行船でやってきている。だから帰りも水列車に比べて遥かに楽な道のりだった。

 ちなみに、あと十数分もすれば飛行船の炉を止めて降りる予定である。



「ふぅん、随分と様変わりしたのね」



 そう言ったのはシャノンだ。

 彼女は部屋の窓から外を見ていたアインの背後に現れると、背後から遠慮なくアインの胸元に手をまわし、身体を密着させて言ったのだ。



「来たことあるんだ」


「うん。あんまり覚えてないけど、イシュタリカに着く前のことだったかしら。当てもなく旅をしていたら、炎を吐く山を見つけて面白いなーって足を止めたはず」


「当時は何もなかった?」


「当たり前でしょ。こーんな賑やかな場所じゃなかったわ」



 アインはシャンの言葉につられるように眼下の景色を見下ろす。

 視界一杯に広がる巨大な渓谷には白い湯気が漂っていた。その湯気が、山肌に沿って作られた木の道や立ち並ぶ宿を撫でるように空へ昇っていく。



 それにしても、この辺りの建物は珍しい建てられ方をしている。



 平坦と言えるほどの道はあまり見当たらない。

 大山と大山を繋ぐ巨大な橋がそれに該当するくらいだ。この辺りは大山の形を生かした景観づくりを心掛けているからか、宿は大山の頂上へ向かう斜めの山肌にそのまま建てられている。



 それは段々畑を思わせる光景でもあった。

 一際目立つ橋の他にもいくつかつり橋が掛けられていて、アインに立体的な街並みという印象を抱かせる。



 目を凝らすと、橋や山肌に沿った道を歩く人影に気が付く。

 皆、アインが今まで見ない服装に身を包んでいた。



(あれ……ああいう服装ってなんて言うんだっけっか……)



 どうにもその言葉を思い出せない。

 腕を組み、唸りはじめたアインを見てシャノンは彼の脇腹を突いた。彼が急に黙ってしまったことが不満だったのだ。



「ふぉわぁっ!?」



 アインはくすぐったくて、普段出さない情けない声を漏らしてしまう。



「…………アインもそんな声を出せたのね」


「あ、あのさ! 自分でやったんだから、微妙なものをみたって顔をしないように!」


「はーい、ごめんなさい。おかしかったから、つい」


「はぁ……おかげで忘れちゃったじゃん。喉元まで出かかってたのに」


「うん? 何を思い出しそうだったの?」


「歩いてる人たちの服装。なんか似た服装に覚えがあるなーって思ってて」



 するとシャノンはアインが考えるのを邪魔したことを若干申し訳なく思ったのか、ころん、と首を寝かせて考えはじめる。アインの胸元に回した腕の先で、何故か彼女の手がアインの肌を撫でるように動きはじめた。



(手の動きを指摘したら負けだ)



 それこそ藪蛇である。

 などと我慢すること数十秒。

 彼女はぽつり、と言う。



「ああいう服装が好きなの?」


「あれ? 心当たりを探してくれてたんじゃないんだ」


「――――? なんで私が考えないといけないのよ? 別の服の名前なんてどうでもいいじゃない」



 さも当然と言わんばかりに言われたアインは、シャノンの額に軽いデコピンを見舞った。



「覚えておきなさい。私にデコピンをする人なんて今も昔もアインしかいないんだから」


「なんで、覚悟しろって感じの声色で言うのさ」


「秘密。――――それでどうなの? アインはああいう服が好きなの?」


「好きか嫌いかで言うと……まぁ、着やすそうだよね」


「それだけ?」


「逆に聞くけど、他に何を答えればいいのさ」


「そんなの、異性が着てたらどう思うかに決まってるじゃない」



 ああ、言われてみれば確かに。

 頷いたアインは先ほどと変わらず、あまり考えることなく答えを口にする。



「可愛いと思うよ。色んな柄もあるしね」


「…………そ」



 聞いておきながら簡素な返事をしたシャノン。

 彼女はするする……っとアインの傍を離れると同時に、身体が半透明に透けていく。

 やがて、完全に消えてしまう前に。



「前に言ってた私へのお礼、まだ覚えてる?」


「もちろん」


「今でも有効?」


「有効だけど……急にどうしたの」


「良かった。それじゃあのお礼、ここに居る間に一つ使わせてもらうから。アインもそのつもりでいてね」



 というと、アインがシャノンに作ったいくつもの貸しの話だ。

 最初は一緒に外出してくれたらいいと言っていたシャノンだったが、アインがそれは貸しと関係なしで構わないと言っていたため、では棚上げということにしていた。

 それを急に、このミスリス渓谷で使いたいと言ったのだ。



「ちなみに使い道は――――って、もういないし……」



 アインが仕方なそうに肩をすくめると、扉がノックされた。



「アイン。そろそろ降りますよ――――って、あらら? 何かありましたか?」



 この部屋を訪ねたのはオリビアだった。

 いつもながら、淑やかな仕草で足を踏み入れるも、一人で肩をすくめていたアインを見てまばたきを繰り返す。

 その姿すら、艶やかで傾城だった。



「いえ、何でもないです」



 アインは迎えにきたオリビアに手招きされて部屋を出る。シャノンは何を求めてるんだろうなーと思いつつ、近くに迫った下船のために歩き出す。



 渡り廊下を進むアインは、再度窓の外に広がる景色を見下ろす。

 先ほどの、気になった服装をした老若男女の姿を見て、また小首を傾げて考えた。

 すると、今回はあっさり思い出せた。

 喉元まで出かかったこともあり、拍子抜けするほどあっさり思い出したのだ。



(ああ、浴衣、、か!)



 確かこういう単語だったはず。

 温泉と言えば浴衣だ。

 ただ、前世の記憶を探るも外を歩く者たちの姿は少し違う。あくまでも浴衣らしさはあるも、意匠がところどころ違っていた。



「あらあら、アインも楽しそうですね」



 窓の外を食い入るように見ていたアインの横顔をオリビアが幸せそうに眺めていた。



「ずっと楽しみにしてましたからね。この日のために頑張ってきましたし」


「ふふっ、私もすごく楽しみでしたよ。――――ここにはたくさんの温泉があるみたいだから、全部回ってみましょうね」


「はい!」


「あと、宿では久しぶりに一緒にお風呂に入りましょうか」


「はい! ――――え?」


「クローネさんとクリスにはもう話してあるんです。よければ四人で一緒に入りましょうって」


「あの、お母様」


「ふふっ……楽しみですね。久しぶりにアインの背中を洗ってあげられるし、髪だって洗ってあげられるって思ったら、幸せ過ぎて倒れてしまいそうです」


「ですから……お母様?」



 オリビアはそう言ってアインの前を歩いて行ってしまう。

 途中からアインの言葉は届いていないようだった。



「わ、分からない……」



 なぜだろう。

 どうして城を離れたからって一緒に入浴できることになるのかさっぱりだ。

 それも四人でなんて、何の答えも見いだせない。



 それに先ほどのオリビアの口ぶりから察するに、クローネとクリスの二人は同意しているようだ。

 オリビアは無理強いはしないし、相手が嫌な提案はしない。

 だからきっと、二人も快く応じたであろう。



「…………なるほどねー」



 アインは遠い目をしてミスリス渓谷を見下ろすと。



「おおー……あれがオーガスト商会の宿かー……」



 一際大きい建物を見て、旅館という言葉と外観を思い出した。

 彼はその巨大さと洗練された外観を見て、「でっかいなー」と呟いたのである。

 

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