お膳立てを前に異を唱えず。
ムートンの工房を訪れた数日後、アインが城内で公務に励んでいた際のことだ。
「ふむ……またですかな」
城内にある執務室の一角で、同じ室内で仕事をしていたウォーレンが小さな声で言った。最近、彼にとっても不思議に思うことが多々あったのだ。
たとえば、自分の頭越しに何か計画が動いているような。
報告書や連絡の中の節々に現れる、小さな異変に対する疑念が深まっていた。
「アイン様」
「ん、なに?」
「単刀直入にお尋ねいたしますが、何か企んでおいでですかな?」
「また人聞きの悪い……」
「これは失礼を。ですが、気になって仕方がないのです」
「…………なるほどね」
アインはこれまで手にしていた羽ペンを置いて、うんと背筋を伸ばしてから苦笑した。
窓の外を見ると茜色の空の端を夜の帳が侵食しはじめている。あと数十分と経たぬうちに夜が訪れることだろう。
「最近はとあるお方の発言力が増したこともあってか、時には私の与り知らぬ場所で話が動くことも珍しくございません」
勿論、クローネのことだ。
彼女は兼ねてより高い能力を誇っていたが、最近ではそこに発言力が増したことでウォーレンにも手が付けられないことがある。
そもそもが王太子補佐官としてウォーレンに叩きあげられた逸材で、努力を惜しまぬ才女だったのだ。
そのクローネが次期王妃の立場になったのなら――――。
「人望も兼ね揃えていると特に難しい。あのリリまでも何か隠しているように思えてなりません」
いまのクローネは文官として、素直に称賛すべき実力としか言いようがない。
この宰相ウォーレンを以てしても、素直に認めざるを得ないほどだった。
「いかがですか? よければお答えいただきたいのですが」
「お察しの通り、ちゃーんと企んでるよ」
堂々とし過ぎたアインの返事を聞き、ウォーレンは面食らっているようだった。
◇ ◇ ◇ ◇
夜が更け、アインの寝室にて。
ベッドの飾り板に背を預けていたアインの胸元に、クローネが背中を預け膝を抱いて座っていた。その彼女は鼻歌を口ずさみながら手帳にペンを滑らせている。
「今は何をしてるのさ」
「これのこと? 日程を調整しているだけよ?」
「へぇー……日程を調整……」
別に隠されているわけでもないので、アインは遠慮なく手帳を覗き込んだ。
所狭しと書かれた数字に対し、無作為に見える〇や×が添えられていた。
(わ、わからない……)
言うなればメモのようなものだから、書いている張本人に分かればいいだけのものだろう。だが、それにしても難解すぎて、片手間に細かな作業をしているクローネに感嘆してしまう。
「もしかして、気になるの?」
「そりゃね。拝見しても分からなかったけど」
「ふふっ。じゃあ教えてあげる」
むしろ彼女は教えたそうに見えた。
アインが気にしてくれるのをじっと待っていたようにも見えるし、この流れになったことを喜んでいるようにだって見える。
「こっちが近衛騎士の予定を纏めたもので、こっちの丸印が付いているのが直近で必須な公務の日付なの。それでこっちが――――」
「えっと……うん?」
わからん。割と全体的に。
「数字だけなのによくわかるね」
「ええ。ちゃーんと覚えてるもの」
だから褒めて。こう言いたげな口ぶりだった。
その証拠にクローネはアインに顔だけ向けると、楽しそうな表情を浮かべて見上げてくる。
構ってほしくてたまらないといった様子であった。
アインはそれを悟って手を伸ばし、淡いシルバーブルーの髪の毛に触れる。
手櫛ですーっと指先を流れる絹のような感触だ。鼻孔をくすぐり、脳を溶かしそうになる甘い花の香りが漂いはじめ、アインの心を落ち着かせる。
一頻りそうしてから手を放そうとしたら、クローネは「それだけ?」と悪戯っ子のように言う。
彼女が顎をくっと前に押し出し、唇も僅かにつんと主張していたのを見て、アインはわざとらしく頬に口づけをした。
「…………ふぅん、そんなことしちゃうんだ」
挑発的な声で言ったクローネは涼し気な笑みを浮かべていた。
すると彼女は手帳をたたみ、ベッド横のテーブルに置いてから戻ってくる。
ベッドの端から四つん這いになって一歩、二歩とアインに近づくと、先ほどの体勢のままだったアインの前までもやってきたのだ。
アインはと言うと、数センチまで迫った傾城を前に目を反らして、頬を描いて誤魔化そうとしている。
「私、ちょっとご褒美が欲しかっただけなのに。アインったら、そんなささやかなお願いだって茶化しちゃうのね」
「つい」
「――――もう! ちょっと甘えちゃっただけじゃない!」
「いや……分かってて頬にしたらどんな顔するかなって思って……」
しかし、アインはもう一度茶化したくなった。
馬鹿にするわけではない。単に彼女とじゃれあいたい一心で。
「でもさ、嫌だとかって話じゃないんだけど……。考えてみたら、ページをめくるたびにしてたんだから、一度くらい頬にしても許されるんじゃないかなって」
実はさっきがはじめてではない。
アインが口にしたように、これまでページをめくるたびにしていた気がする。
いや、気がするというより真実なのだが、アインは何となくそう思った。
しかし返事を聞いたクローネはむすっとした様子で、目をじとっと細めていた。
(不満そうだ)
自分は選択肢を間違えたのだと悟ったアインはこれまでベッドに付いていた手を上げて、静かにクローネの頬に添えた。
それから、今度は勢いよく抱き寄せて唇と唇を重ねた。
クローネは一瞬、身体を強張らせて驚いたが、すぐに力を抜いて全身を委ねる。
長い長い十数秒が終わると、彼女は幸せそうに頬を綻ばせる。
そのままアインの背中に手をまわし、彼の胸板に顔を押し付けた。
「もうそろそろ寝る?」
「……うん。そうしましょうか」
時計を見るとすでに深夜の二時を回っていた。
最近は暗躍すべく夜遅くまで起きていることが多かったが、それでも連日になると辛いものがある。朝には朝の仕事もあるから、あまり締まりのない生活をし過ぎると先に体調が崩れてしまう。
――――クローネはそのままアインに身体を委ね、彼の腕を枕にしてベッドに横になった。
絹で作られたネグリジェの隙間からは、豊かな胸元を覆う下着が密かに見え隠れしている。
足元だって、細くて白い太ももが大きく露になっていた。……煽情的だった。言うまでもなく、手を出したらどこまでも理性を奪うであろう艶の塊だった。
だが、そうしない。そうしなくとも心が満たされる。
自分の腕を枕にして幸せそうに微笑むクローネを見ていたら、それだけでも幸せだった。
(明日も早いんだっけ)
最近はどうにも寝不足だ。
そのせいでクローネもすぐに目がとろんとして、間もなく規則的な寝息を立てはじめる。
アインはその寝息を聞いて、自分もすぐに目を閉じる。
ゆっくりと、瞼が閉じきってからは数分と経たずに夢の世界へと旅立った。
――――就寝しつつ、アインはいつしかベッドが軽く揺れるのを感じた。
胸元に居たはずのクローネの感触が遠ざかり、彼女の暖かさが徐々に消えていくのも分かった。
だが、眠いのもあったし、何か用事でもあってベッドを出たのだろう――――と、夢心地ながらに思った。引きつづきの就寝に勤めたのはそれゆえだった。
少しすると、暖かさと彼女の香りが戻った。
胸元にではない。今度は背中に回ってアインに抱き着くようにして。
(…………)
背中から胸元に手を回してきた彼女がぎゅっと抱き着いていた。背中に押し当てられた柔らかい感触のその奥で、確かに鼓動する核の音色が聞こえてくる。
規則正しい寝息と共に、規則正しく鼓動する、子守歌のようなリズムだった。
(…………)
ふと、アインの胸元に新たな暖かさと感触が訪れる。
その主は身体をわずかにくの字にして寝ていたアインと足を絡め、彼の胸元に顔を運んでいた。
クローネと違い、まだおずおずと遠慮がちな動きだった。
しかしその気配も、数分と経たぬうちに甘えはじめる。
背中から漂うクローネとはまた違う、甘くて心が落ち着く良い香り。いつからか二人が三人になっていたことに、アインは違和感を抱くことなくその空間の心地良さに浸った。
きっと、無意識のうちに分かっていたのだ。
胸元に訪れた者が誰なのかを。
「…………あれ?」
不意に目が覚めたアインは窓の外から差し込む薄青色の光に気が付いた。
もうすぐ夜が明けるのだ。
だがその前に、胸元の気配の主を見た。
その主は、金糸の髪をベッドに広げて眠っていたクリスだ。
彼女はアインの声を聞いて、眠気眼を擦りながら目を開けた。
「アイン様……おはようございます……」
「ああ、おはよ」
彼女はまだ眠そうだったから、手短に尋ねることにした。
「朝から会えて嬉しいけど、いつの間に?」
「えへへ……嬉しいですか……? 良かった……逢いたいって思ってみるものですね……」
曰く、真夜中に目を覚ましたクリスはアインに逢いたくなったとのこと。
他に目的なんてない。本当にそれだけだ。
強いて言うなら、アインの家族旅行計画にクリスも関わっているから、その進捗具合を報告に来るという名目はあるだろうが、本当にそれくらいだ。
「お部屋の前に来たら……クローネさんが来てくれたんですよー……」
クローネが気遣ったというよりは、クローネもそうしたかったというのが正しい。
だから一度彼女の気配が消えて、戻ってきたときは気配が二人分に代わっていた。合点が言ったアインはクリスの頭をそっと撫でて言う。
「教えてくれてありがと。――――まだ寝られるから、もう少し休もっか」
するとクリスは人懐っこい笑みを浮かべ、アインに一度口づけをして目を閉じた。
じゃれつくようにしてアインの胸元に何度も顔を擦りつけると、先ほどまでと同じく規則的な寝息を立てはじめたのだった。
だがこの朝、二人に先んじて身体を起こしたアインは異変に気が付いた。
それはバルコニーから。
ふわっと部屋の中に入り込んだ風に、
足を運んでみるが、誰も居ない。
代わりにバルコニーにあるテーブルの上に、一枚の紙が置かれてある。
「…………もしかして」
慌てて駆け寄り紙を手に取る。
書かれていたのは短く、簡素に。
『落ち着いた頃に顔を出す。何も案ずることなく家族旅行を楽しんでこい』
――――と。
「セラさん、なのか」
先日、シュトロム沖で
黄金航路の相談役の件然り、どうして自分に話しに来ないのかと。
その理由が今、分かった。
アインが思う以上に面倒な状況になっていたのだ。
「だったら俺も――――ッ」
それならそうと言ってくれたら手伝った。
家族旅行を断念したくないが、セラのことも捨て置けないと思った。
詳しく話してくれないことに悔しさを覚えていると。
『いいから家族との時間を大事にせよ。儂も大丈夫じゃから、これ以上遠慮するでない』
紙に浮かんでいた文字が変わった。恐らくこれは魔道具で、何処かからセラがメッセージバードのように言葉を送っているのだろうと思った。
アインは異を唱えようとして口を開いたが、言葉を発するより先に紙が燃えだした。
その紙は燃え尽きる寸前で。
『家族との時間を大事にできないのなら、何も教えてやらんぞ。ま、儂が言うのもなんじゃけどな』
セラの自重交じりのメッセージが浮かび上がって、今度こそ紙は燃え尽きた。
◇ ◇ ◇ ◇
アインの執務室にて。
「え、ええ……賢猫邸宅への予定は特段急ぐほどのことではございませんので、クローネ様が仰ったように、後程のご来訪でも問題ありません」
「わかりました。では、年内と言うことでお願いします」
同じ日の昼過ぎ、クローネの仕事ぶりにはいつも以上に勢いがあった。
心を寄せる者と一緒に寝られたから、というだけじゃない。家族旅行計画の一端が、今ようやく解決しようとしていたからだ。
「アイン」
「ん、りょーかい」
アインはクローネから受け取った書類にサインをした。
机の前に立ち様子を伺っていたウォーレンは困惑している。
内心では、次のように思っていた。
――――分からない。この方たちは何をなさろうとしておいでなのだろう。
いくらクローネが秘密裏に動こうとも、先日然り、ウォーレンは所々に見受けられた綻びを見逃さなかった。しかしそれでも目的が分からない。
――――城中を……いえ、貴族や……それこそ法務局などの重要機関も巻き込み、一体何を……?
これほど大掛かりに動く必要がある事柄。
それも、自分たちには秘密で。
さすがのウォーレンも思い当たることがなく、謎は深まるばかりだった。
「失礼します。――――アイン様っ! 陛下とララルア様との謁見、一時間後なら大丈夫だそうですっ!」
「よかった。こっちもちょうど片付いたところだよ」
「あ、ほんとですか? ふふっ、これでやっとですね!」
しかもクリスまで。
三人が自分の傍で笑い合っているのを見て、ウォーレンはやはり分からないと小首を傾げた。
◇ ◇ ◇ ◇
クリスが言ったように、一時間後には謁見の場が用意された。
珍しくララルアも呼ばれたことに、彼女は理由が変わらず困惑していた。
「王太子殿下がいらっしゃいました」
「……通せ」
先に来ていた……実はもう三十分も前に到着していたシルヴァードは気が気じゃなかった。この状況には覚えがある。あれはアインがクリスを自分の専属護衛にすべく動いた夜のことだ。
今もアインには消化されていない褒美がある。
本当は尋ねた日一杯の予定だったが、アインにどうしてもと言われて棚上げとしていた。
「オリビアよ」
この場にはオリビアも居た。彼女はララルアの傍に控えており、彼女もまたアインの願いを受けてこの場に足を運んでいた。
「アインは何をしようとしているのだ」
「私にもわかりませんよ。でも、アインだから素敵なことだと思います」
「……その素敵なことの内容が分からぬうちは何とも言えん。息子にしてドライアドの番の考えなのだから、どうにかしてわからんのか?」
「嫌ですわ、お父様。もうすぐアインが自分の口で話すではありませんか」
「心構えの問題である。事前に覚悟しておけば、若干ながら驚きも回避できるというものだ」
こうしている間にも謁見の間の扉が開かれて、アインにクローネ、そしてクリスがウォーレンを伴って足を運んだ。
どうやらウォーレンはここに至るまでに聞いたらしい。シルヴァードは赤狐の顔を見て、それが狸のように変わっていたことに気が付いたのだ。
「陛下、先に申し上げておきますが、私は最初から最後まで関わっておりませんぞ」
「どうだか」
「本当ですとも。実は私もアイン様たちの動きを気にしておりましたが、いやはや、お三方の手腕もあり把握するに至らなかったのです。聞いたのはつい数分前ですからな」
やがて玉座の近くまで足を運んだアイン。
他三人は横にずれて並ぶ。
アインは決められた所作をこなし、小脇に抱えていた分厚い封筒を両手に持つ。
立ち上がり、その封筒をシルヴァードに手渡した。
「シュトロムの件然り、魔物の被害を被った村々への必要な処置の時間は十分に取ってあります」
「待て、どうしてそれが関係するのだ」
「お爺様に優先順位を間違えるなと怒られないためですよ」
「…………ああ見たくない。この封筒の中は見とうないぞ!」
この場に気の置けない者しかいないからか、シルヴァードは遠慮することなく心情を吐露した。
こうしていても何も解決しない。
結果的にシルヴァードはそう思い、封筒を開けて中に入っていた紙をすべて取り出す。
見ればすべてが公務の予定や、各機関からの陳情であった。
「余に行幸せよとな?」
「はい。フォルス公爵をはじめとした貴族からの陳情です。大都市の遠方にある都市のいくつかから、そういった声が上がっているのだとか」
「それなら聞いておる。余も把握しておるが……なぜ今なのだ?」
「わかりません」
「――――わからんだと?」
「急な陳情だったので俺もよく分からないんです。ただ、俺がクローネとクリスに力を借りて色々考えたところ、飛行船を用いて大陸西方からいくつかの都市を行幸すれば収まりが良いのかな……と」
シルヴァードはそれを聞いて首を傾げた。
これが今である理由がない。
行幸することは重要なことに間違いなくとも、こうした場を用意して、仰々しく話をするような問題ではないのだ。それこそ、アインたちが秘密裏に動く必要は皆無である。
「いかがですか? きっと民もお爺様が退位する前に来ていただきたいのだと思いますけど」
「だろうと思ったが……どうにかして日程を組むと約束しよう」
「言質取りましたからね」
「待て。何と言った?」
「何でもないです。ところで、お爺様には俺がいただける褒美についてご相談が」
ほら来たではないか、とシルヴァードが仕方なそうに頷いた。
「二か月後の秋、俺を十日ほど西方に行かせてください」
「なぜだ」
「俺の剣のためです。ムートンさんからは、金剛木があればガルムの素材を用いて強化が可能という返事をいただきましたから」
「金剛木……
そこはムートンが語ったフオルンが住まう地にして、貴族にも評判の湯場がいくつも存在する地のことだ。
「グラーフさんにも聞きましたが、この春に出来た大きな宿があるそうですので、そこに泊まる予定です」
「聞いておる。オーガスト商会が新たに設けた宿だとか。そうだったな、ララルア」
「ええ。私たちも招待していただいてたけど、どうしても予定が立てられませんでしたから……。アイン君には楽しんできてほしいわね」
ララルアはそう言うが、自分もシルヴァードと行きたい感情があるせいかどこか表情が冴えない。
潜ませた悲し気な感情を垣間見た気がして、アインは早くつづきを言わなければと思った。
「それくらいなら構わんぞ」
「ありがとうございます。これも言質が取れたので、みんなで行くということにしましょう。実は行幸の経路的に、オーガスト商会の宿がある場所が拠点としてぴったいでして」
「…………待て。みんなだと?」
「はい。予定はもう組んでありますから、現地の宿で集合でお願いします」
ここで耐え切れずウォーレンが笑った。
「お分かりになりませんか? アイン様は大貴族や機関にも手を伸ばし、自らの褒美も使うことで陛下から言質をったのですよ」
ここでアインは勝利を確信した。
もう、最後の確認は目前だ。
「お爺様、さっきも言いましたが、予定はもう組んであるんですよ」
あとはシルヴァードの許諾次第だったのだが、それも言質をとってある。
名目が足りて、貴族からの陳情もあって、更にアインが自分の褒美を使ってミスリス渓谷に向かうという、
これがないとアインが現地で集合して、家族旅行を楽しむという言い訳がない。
ウォーレンはここでシルヴァードの傍に行き、分厚い書類の中から公務の予定を取り出した。そこには王族をはじめクローネや嫁いだカティマの予定がすべて書かれている。
その中でも、二か月後は
隣で見ていたララルアは、夫に先んじて理解する。なにせ彼女の言葉が発端だったのだ。
「あらあら……アイン君ったら」
すると、彼女は我慢ならず涙を流した。
ハンカチで涙を拭いながら、夫に予定をよく見るよう促した。
彼もまた、それを観察することでアインの目的に気が付いた。
「――――貴族や、それこそ法務局のような機関まで巻き込むとはな」
「何がですか? 俺は別に、何か陳情がないかってクローネたちに聞いてもらっただけですよ」
「はぁ……それにしても、物事がこの二か月後に向けて整いすぎておろうが」
アインが現地集合と言ったのは、シルヴァードたちには本当に行幸する予定を入れたからだった。でないとシルヴァードも認めないだろうから、彼らはアインと違い二日早く王都を発つことになる。
その後、オーガスト商会が設けて間もない宿で集合する、という手はずだ。
「お爺様、俺がまだ小さかったころに話したじゃないですか」
「……ああ」
「いつか家族旅行がしたいって言ってましたよね。それは俺も同じなんですよ」
「…………ああ」
シルヴァードは感情の整理に戸惑い、瞼の上に涙を浮かべかけていた。零さずにいられたのは、その姿をさらけ出したくないというなけなしの意地によるものだ。
「ウォーレン。お主から見てどう思う」
「委細問題なく。私も拝見しましたが、最近のクローネ様の仕事は文句のつけようがございませんからな」
それからというもの、シルヴァードは数分に渡って黙りこくった。
心の中に生じた葛藤は、王として、そして一人のシルヴァードとしての葛藤だ。
だが彼も、常に王として生きてきたわけではない。アインを見守る姿はまさに祖父のそれで、家族と過ごす時間を大事にしてきた。
「長きに渡る王としての責務の中……一度くらい、このような日々を欲しても罰はあたらぬ、のかもしれんな」
言い終えたシルヴァードの表情は、これまで見せたことのない晴れやかな笑みだ。
くしゃっと柔らかく綻んだその顔には、一人のシルヴァードが抱く湛えんばかりの喜びがあった。
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