一段落。

 普段ならすぐに察しがついた。

 オリビアならアインが心配なのか、あるいはアインを溺愛する彼女だからこそ単に近くに居たかったのか――――ということだ。



 伏し目のアインはいつもと違い、頭の中でその可能性を否定している。

 ライルとのやり取りで見せてもらった、竜人とオリビアの秘密のせいだ。



「…………」



 木箱から出たオリビアもまた沈黙していた。

 二人の間にこれほど重苦しい空気が流れたことは過去に一度もない。

 アインが長い時間の昏睡状態から目覚めた後も、こんな重苦しい状況に陥らなかった。あの時はカティマの婚儀もあって、他の事を気にする余裕がなかったのもあるが。

 今ここにいるのは二人だけ。

 状況も状況で、自然と二人は緊張感を催していたのだ。



 同時に口を開いたのは、それから間もなくのこと。



「あの――――」


「あのね――――」



 決心した様子で目を開けたアインと、すがるように手を伸ばしたオリビア。彼らは互いが互いを呼んだタイミングにはっとして、ついに頬を緩ませた。

 いつも通りとは言えずとも、大分話しやすくやった。



(でも)



 アインは心の内で、竜人の件を尋ねることはやめようと決心した。

 何故ならオリビアはアインの事を、あくまでもアインという個人として接しているからだ。

 今のアインが決してうじうじしているわけでもなく、後ろ向きなわけでもない。あくまでも、今の自分という存在を尊重して、オリビアという一人の女性を尊重したかったのだ。



 記憶がないとはいえマルクという個人の過去を捨てるわけもないが、今に生きる自分を軽んじることを嫌っていた。

 彼は息を吸うと、仕方なそうにいつもの調子で言う。



「まったく」



 と、半ば呆れた様子で言うアインから漂ってくる気配。

 これまでの彼以上に成熟した佇まいと、息を飲みそうになる威風堂々とした精悍さ。オリビアはこれらを前にして、自分が想定していた落ち着きを失い、胸が不安そうに鼓動していくのを感じた。

 つい「アイン……?」と声が漏れる。



「お爺様に強く叱られても知りませんよ」



 きっとこの言葉はオリビアにとって予想できていなかった。

 その証拠に彼女の表情は驚きに染まり、目を見開いた。



「――――アイン」



 絞り出すような言葉で、目の前にいる少年の名を呼んだ。

 この改まった場において、彼が「違う」と答えるのを怖がっていた。



 オリビアの心の揺らぎはある一つの理由に尽きる。

 目の前のアインは英雄王と名高い存在を内包していながらも、彼女はそれを微塵も関係なしに彼に傾倒している。アインに向けている愛は言うまでもなく、世界とアインのどちらを取るかと聞かれれば、彼女は少しの躊躇いもなくアインと即答する女性だ。

 しかし今目の前にいるのは――――と、心が落ち着いていなかった。



 オリビアにとっては敬愛すべき英雄王の存在は一切関係ない。

 ただ一つだけ、アインという個人だけが重要である。



「はい、アインですよ」



 オリビアは返事が来たことに、心の底から安堵した。

 安心感により身体が崩れてしまいそうなほどだ。一方で紫水晶アメジストの瞳から一筋の涙が零れるのは抑えきれず、やがて自然と伸ばしていた両腕がアインの手を取った。

 力が少し、いつもより弱々しい。



(良くも悪くも、俺があの少女、、の未来を変えたんだ)



 アインは心の内でこの事実を反芻した。

 少女というのは幼き日、竜人と契約を交わしたオリビアの事である。



 彼女が竜人と契約をすることがなければ、そもそも自分はここにいない。仮に別の形で生まれていたとしても、少なくともオリビアとの関係は今よりも薄いか皆無だったはずだ。

 そのもしも、、、を考えるだけでぞっとして、怖くなる。

 開闢はどうあれ、今の自分にとってはこの環境がすべてだからだ。



 ……こうした問題に関してのオリビアは、ひどく不安定だ。

 感情だけではない。

 立場も、振る舞いもだ。



 故にアインはそれらを慮ることにした。



 オリビアの葛藤に気が付かないことにして、自分自身は何者かを明確にすることを決めた。

 勿論、ライルたちについて何か知ってるかも尋ねはしない。

 竜人は契約が果たされているのだからオリビアに情報を与えているだろうが、アインは自分で竜人に尋ねると決めているし、まだこの考えを変えていない。そもそもオリビアは、現在のライルたちについて知っているわけではないのだ。

 万が一、どうしても手の打ちようがなくなったら……もしかしたら考えるかもしれないぐらいだ。



「俺も寂しかったですけど、お母様の方が寂しかったみたいですね」


「わ、私が……?」


「今朝別れたばっかりじゃないですか。ここまで来てくれたんですし、そういうことですよね?」



 目をパチパチとまばたきさせて、オリビアは呆然とした。

 二人の間に少しずつ、いつもの穏やかな空気が戻りつつあった。



「隠れて俺の部屋の前まで来てくれましたもんね」


「…………」



 彼の考えを察し、オリビアが口を開く。



「もう……バレちゃいましたね」



 伝っていた涙を拭ったオリビアが微笑んだ。

 すると彼女は両腕を開いてアインを捕まえると、自信の胸元で強く抱きしめる。

 一瞬言葉を失ったアインが驚きの声を上げる。



「恥ずかしいですよッ!?」



 黙って受け入れてもいいのだが、それはそれでいつもの自分らしくない。こう言い訳して、オリビアの抱擁を受け入れた。



「ふふっ、私しかいないから大丈夫ですよ」


「いやそういう問題じゃ……ッ!」


「イヤなんですか?」



 はいなんて言うはずがないし、そもそも嫌なんて思っていない。

 単に恥ずかしいのと驚いただけだ。



「違うなら、いいですよね」



 彼女が抱くとめどない愛情に呼応するように、スキンシップにも熱がこもる。

 オリビアの胸元に押し付けられた顔は温かく柔らかな感触に包まれるだけでなく、頭がクラクラする微香が更が悩ましかった。

 包容力と色香に脳を溶かされ、さすがのアインも頬が上気する。



(……これが俺たちらしいか)



 残された落ち着きをもって心の内で呟いた。

 しかし、誰かに見つかったら何て言い訳しようか。

 オリビアの愛に包まれるまま考えていると……。



『アイン様ー、いますかー?』



 部屋の外から聞こえてきたクリスの声。

 その声に慌てて「んんっ」と、言葉になっていない弱々しい声を出すと、クリスは不思議そうに扉を開けてしまう。

 こればかりはアインの失態だ。

 こうならないためには、声を出さないように努めるべきだった。



「あっ、やっぱりお部屋に戻って…………オリビア様ー、アイン様が息苦しいんじゃないですか?」


「大丈夫よ、そうならないように抱きしめるのに慣れてるから」


「どうしてそんなことに慣れてるんですか……オリビア様らしいですけど」



 室内に足を踏み入れたクリスは違和感を覚えず、いつものことだと言うように振舞った。

 アインからすれば、どうしてそう普通なんだとつっこみを入れたくもなる。



「ッ――――えっ!? どうしてオリビア様がここに!?」


(遅い。遅すぎる)



 数呼吸も遅く反応を示したクリスも、それはそれで彼女らしい。

 王都を離れてもいつもどおりの自分たちの掛け合いに、アインは力が抜けていくのを感じた。




 ◇ ◇ ◇ ◇




「あーらら、そういうことだったのねぇ」



 翌朝、アインはマジョリカと共に居た。

 朝食を終えて間もない頃、昨日のオリビアの件を軽く話してから飛空船を降りる最中だった。



「お爺様にメッセージバードで連絡したけど、返事は「頭が痛い」ではじまってた」


「帰ってこいとは言わなかった?」


「うん。なんかお母様も貰うはずの褒美が溜まってたらしくて、それと相殺で勘弁してくれー……って、カティマさんと事前に計画を立ててたらしい」


「第二王女殿下にしては強引な計画じゃないの」


「あー……そうかも」



 理由はいつも以上に、アインの近くにいたかったからだろう。

 心に宿っていた不安もあり、今まで以上に強引な手段を用いて飛空船に忍び込んでいたと推測できる。今回のオリビアが、普段なら超えない一線を越えていたのはそれが理由だ。



「カティマさんが結構口添えしてくれたっぽい。恩赦! 恩赦だニャッ! って、自分の婚姻と併せて何か言ってたらしい」


「相変わらず賑やかねぇ」


「何だかんだ感謝してるけどね。恩赦の使い方は間違ってるけど」



 とりとめのない話とまでは言わずとも、昨日の事を話しながら進む二人。

 やがてタラップを抜けて、石造りの階段を下りて地上へ向かう。道中で燕尾服を来たマルコと合流すると、彼は静かに二人の後ろをついてくる。



 地上に降り立った三人を迎えたのは小高い平原と、塔へとつづく一本道だ。

 以前同様、結晶化した部分も散見される。



 王都の城下町の大通りのように座した道の両脇には、簡素ながら多くの建物が並ぶ。

 イストらしい流線型の建物に、バルトで見た巨大な骨を飾る店の数々。マグナの出店通りにあったような屋台まで並び、宿もある。



 まるで全部の都市を集めた場所だ

 イシュタリカという国をこの一か所に凝縮したような、見たことのない雰囲気だ。それに思っていたより人の数も多い。



「ギルドの方に行ってみましょうよ。わざわざお抱えの鍛冶師まで連れてきてるみたいだし」


「ギルドに?」


「今日の殿下は様子を見に来ただけだけど、気にならない?」


「いや別に。冒険者に会ってどうこうしたりする気はないけど――――あ、ダンジョンの中がどんな感じだったか話を聞くのはいいかも」



 確か以前の神隠しのダンジョンは、内部が変わったり壁や床が再生したりなど……不思議な力のある場所だった。今は少し違うようで、内部が変わることはないそうだが。



あっちギルドあっちギルドで賑やからしいわよ?」


「そりゃ、これまでと違う環境だろうからね」


「そうじゃなくて、これまで見たこともない魔物の素材が持ち込まれてたり、ってことよ」



 それを聞いて俄然興味が沸く。



「行こう」



 即答してマジョリカを笑わせると、すぐ後ろでマルコもくすっと笑みを浮かべる。



「有名なパーティもいるらしいわよ。あとは近頃評判の治療魔法の使い手も足を運んでるって」


「へぇー、バーラみたいな人ってことか」


「気になるでしょ?」


「それなりに。考えてみれば有名な冒険者に会ったことも……いや、マジョリカさんとカイゼル教官が有名だったか」


「引退した身だけどね。何はともあれ、冒険者たちの面でも拝みに行きましょうかね!」


「面を拝む……」



 元冒険者としての血が滾るのか、はたまたいつもの冗談交じりの態度なのか。

 不敵に笑い先を歩くマジョリカは鼻歌交じりだ。

 一方、後ろを歩くアインとマルコ。



「私も楽しみでございます」


 

 アインは簡単に「俺もだよ」とマルコに答えて空を見上げた。

 日光が全身に降り注ぐ穏やかな昼下がり。

 


 穏やかさと裏腹に躍る心を抑えず、ギルドで待っているであろう光景に期待して足を進めた。


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