たまには甘めに。

 


 アインが屋敷に戻る十数分程度前の事。

 屋敷の一室では、オリビアが重なった書類とにらめっこしていたのだが、彼女の指はある報告書で止まる。



「――あれ、オリビア様ー? どうかなさいましたか?」


「ちょっと気になる報告があったの。手伝ってるのに手を止めてしまって……ごめんなさいね」


「いえいえー、ところで何を読んで……あぁ! ハイムの遺跡にあった壁画のことですか」


「……フォルス公爵家の、アインの同級生だった子の報告みたい」


「すごいですよねーそれー。なんか意味深で、オリビア様に似てるからって書き写して来たらしいですよ?」



 リリの態度はあくまでもいつも通りで、決して彼女の言葉にはそれ以上の意味は感じられない。

 片手間に、自身がこなす仕事の合間にオリビアの手元を覗いたぐらいなのだ。



「ねぇ、一つだけ聞いてもいいかしら?」


「はいはいー?」


「――この報告書は、ウォーレンにも届けられているの?」


「あー……そっちのほうは届いてませんね。私の段階で処理できるものでしたので、閣下の……ウォーレン様の下へは届いてません。でも、それがどうかしたんですか?」



 問いの真意が分からずに尋ね返すと、





「えぇ、それなら安心ね」





 オリビアは前触れなしに紙を一枚切り裂いた。

 壁画の報告書はまだあるが、彼女は目を通した報告書から順に切り裂く。



「なっ……何をしてらっしゃるんですか!? オリビア様!?」


「これの複製はある? ない?」


「ありませんけど……って、え? いやいやいや! なんで急にそんなことを――」



 切り裂きつづけたオリビアだったが、ある段階になって手を止めた。

 何を眺めているのか、その物悲し気で郷愁を思わせる顔にリリが戸惑う。



「リリ。今ここで見たことと、この報告書があったということは忘れなさい。いい?」


「……承服できかねます」


「なんでかしら?」


「私には情報の保持義務があります。ですので、いくらオリビア様のご希望といえども……」



 すると、オリビアは「なら――」と言って机の前に腰かけるリリに近寄る。

 目線を合わせると、町娘にはとうてい真似できない、それでいて、クローネらにも真似できないような艶めいた目つきで見た。



「オリビア・フォン・イシュタリカの名において、王族令を発令します。私が求めた報告書について、陛下やアインが答えを求めた時以外、その存在を口外することを禁じます。いい?」


「……どうしてなんです? なんでそんな壁画なんかに王族令を……?」


「私の命令に答えてもらってないのだけど、どっちかしら?」


「そんなの、拒否できるわけがありませんよ。陛下やアイン様が介入した際には語ってもいいなんて……手回しも良すぎます」


「ふふっ。ありがとう。リリの物分かりが良くて助かったわ」



 リリは思う。オリビアの行動は悪手に他ならないと。

 どうしても秘密にしたいのなら、王族令なんて使わずに、小さな手回しを繰り返してこの情報を隠した方がいい。



 だが、彼女はそこに生じる可能性がある綻びを嫌ったのだろう。

 ゆえに手っ取り早く王族令を用いて、アインとシルヴァードの二人以外が介入できないようにした。



「それとなく連絡しておいてほしいの。レオナード君に、調査で得られた情報をみだりに語ることはしないように……って」


「……いいですけど、そこまでして守る必要があるんですか? たかが壁画だと思うんですが、その絵がオリビア様だったとでも仰るんですか?」


「知るべきことと知らなくていいこと……隠密の任務を何度もこなしたリリなら、意味は解るわよね?」



 やはり不思議だ。

 たかが壁画、オリビアに似た人物が描かれていようと、関連性があると考える馬鹿は居ない。

 ハイムに嫁いだ過去はあるが、オリビアが壁画に書かれるほど昔の人物ではないことは明らかだからだ。



 リリは納得いかないことを今までも数えきれないほど経験したが、今日ほど察しがつかない事柄もはじめてだったのだ。



「アイン様にも言ったらだめなんですかー?」



 ふと、彼女は試すように言った。

 ――すると、



「えぇ、勿論」


「……なるほどなるほど、そう来ますか」



 やはりオリビアもまた王族だ。

 アインに似た、いや、むしろアインが彼女に似たのかもしれないが、彼を前にしたような迫力がある。

 ゴクリと生唾を飲み込んだ後は、平然とした顔で仕事に戻る。



 オリビアはそっとリリから離れていくと、彼女から顔がみえないよう角度のソファに腰かける。

 やがて、懐かしむような目線を報告書の挿絵に向けたのだ。



「――懐かしい」



 吐息のような呟きはリリにも届かず、彼女の艶と共に消えた。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 翌朝のアインは例の如く、日が昇る前から書類仕事に勤めた。

 ただ、朝食に出たジャムが自分の力でできた物で、その製品版とのことで舌鼓を打てたのは幸福だったと言えよう。

 アインの自室にある小さな書斎で、二人は隣り合って座りゆったりとした時間を過ごしていた。



「……ねぇ、クローネ?」


「――なーに?」



 バルト苺のジャムを豪勢にパンへ塗りたくり、クローネは頬を蕩けさせた。

 片頬に手を当て、もう一方の手に持つスプーンの動きは、純粋に至福の境地。

 想い人の疲れを容易に吹き飛ばす一撃だったのは当然のことだ。



 ところで時刻はすでに九時を過ぎ、屋敷の外から賑やかな空気が届きだす。



「あ、アイン。お爺様からお礼の手紙と品物が届いてるけど、どうする?」


「ん? お礼って昨晩の?」


「そうね。どうする?」


「……現金なら貰ったらまずいと思うけど」


「お爺様もそう考えたんだと思う。届いたのはオーガスト商会で扱ってる食べ物みたい」


「なら、祭りの仕事をしてくれてる人たちに届けよう。オーガスト商会から差し入れを貰ったって言っといて」



 対処はしたが、昨晩の事件はアインらの調査も絡む。

 ゆえにアインの判断ていどがいい塩梅だ。



「そろそろ支度しようかな。ティグルを連れての公務の時間だし」


「……あ、そういえば私。昨日、ハイム公と会って話をしてきたのだけど」


「え、え……? 大丈夫だった?」


「ふふっ、大丈夫よ。あの方だってもう落ち着いてるんだもの」



 実のところ、アインの真意はティグルの精神状況だ。

 以前の縁もそうだが、会談の日のように言葉で倒されてないか若干気になったのだが、クローネの笑みを見る限り、自分の想像以上に落ち着いていたようで息をつく。



「彼が言ったの。以前の私が今の私ぐらい利口だったなら、求婚を受けれてくれたか? って。あとは当時の事を謝罪されたぐらいかしら」


「あー……ティグルらしいかも。色々と」



 平然と返すアインを見て、クローネがむっとした表情でアインの服を引っ張る。



「そこまで普通に返されてしまうと、私もちょっと不満になるわよ?」


「嫉妬してほしいってこと?」


「……有体に言えばその、そういう感じね。もう! 分かってるなら聞かないでくれてもいいのに……!」



 とはいえ、彼女の返事は容易に想像がつく。

 自惚れなんかじゃない、無条件で思う彼女への信頼だ。



「俺はクローネが隣に居ないことが考えられないし、クローネも同じだって思ってるよ」



 結局、以前と比べて恋愛面で強くなったのはアインなのだ。

 容易に心揺れ動かされたクローネは、自然と頬を赤くして立ち上がり、椅子に座るアインのその上に乗った。

 向かい合って座り、彼女の手がアインの首元に回される。



「自分でも面倒な女って思うことを言ったのに、優しいのね」


「誰にでも優しいわけじゃないし。特別だけどね」


「嘘つき。アインはいつも優しいじゃない」


「……クローネには特別優しいってことで手をうってくれないかな」



 満足のいく返事だった。

 彼女はアインに唇を近づけ、啄むようにアインに甘える。



「私ね、実は占いが得意なの」


「初めて聞いた」


「それでね、今日は公務をお休みした方がいいって出てるの。どう? 素敵な占いだと思わない?」



 ――とてもいい。

 彼女の誘惑は全てを忘れ、全てを委ねたくなるような甘美で蠱惑的な魅力に満ち溢れている。

 アインの両手が自然を彼女の背中に回り、クローネの身体は抵抗することなく密着した。だが、アインは堕落しきる直前になってなんとか正気を保ったのだ。



「……信じたくなる占いだけど、その運命に逆らってみるのもカッコいいかなって」


「ごめんなさい、占いは嘘なの。私が一緒に居たいだけなんだけど……ダメ?」



 ――だめじゃない。むしろいい。

 死にかけの精神に戦艦の主砲を思わせる攻撃が放たれ、アインはすでに覚悟を決めた。

 いや、ダメに決まってる。でも少しだけ遅れても……と思わせるほど、クローネという女性はアインにとって手ごわい。

 彼女はアインのそんな様子を見て、最後にもう一度言う。



「ふふっ――嘘よ。みんなにも迷惑がかかるし、私たちの我が儘を押してもダメだものね」


「あのさ、陥落させておいてのおあずけ、、、、ってずるくない?」


「さぁ、どうかしら? でも、早く帰って来てくれたら……私はすっごく嬉しいのよ」



 すると、最後に口づけを数度交わし、アインはクローネを抱いたまま立ち上がる。

 そのまま童話で姫を抱える王子のように歩き、彼女をソファの上に座らせた。



「このままアインの部屋で仕事しててもいい?」


「うん、好きに使ってくれていいよ」


「じゃあお昼寝もここでさせてもらうわね」



 どうにもシュトロムに帰ってから、クローネの甘え具合に磨きがかかった気がしてならない。

 アインからすれば十分歓迎なことだったが、今日のように、溺れすぎないよう注意するのが至難だった。



 それから外套を羽織り、アインは屋敷を出たところでティグルと合流。

 長旅に疲れた表情の彼をいたわりつつ、肩を並べて仕事に向かった。



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