里の初日の終わり。
「……ところで、どうして、その二人の従者は赤狐とではなく、イシュタリカの者として活動を?」
会話が前後してしまうが、疑問に思ったことを尋ねた。
内容がこんがらがってきた感覚の中、一つずつ疑問を解消していく。
「――はっきりとした理由は聞いておりません。ですが、男性の赤狐は恐らく……ラビオラ妃に恋慕していたのではないかと」
「……え?」
突拍子もない言葉にアインが驚く。
「すみません。長。恋慕というと、つまりその赤狐は、ラビオラ様を愛していたと?――それも、異性としてですか?」
「そうなりますね。といっても、これは想像にすぎません。女性の視線からそうした感覚を受けた……というだけの話ですから」
「な、なるほど……」
ふと、アインはクローネとティグルの事を思い出した。
クローネはアインのために祖国を捨て、今のティグルは境遇は違うが、祖国から逃げて来た。
こうした事例を踏まえて、その赤狐の男性の気持ちも分かるような気がしたのだった。
「――もう、いいお時間です。殿下も急に多くをお聞きしても困惑してしまうでしょう。如何ですか?明日、もう一度お話しするというのは」
長と顔を合わせてから、すでに一時間以上の時間が経過していた。
足を運んだ時間が遅いという事もあり、幼いころのアインであれば、すでにベッドに入っている時間帯。
「そう、ですね……。お恥ずかしい話ですが、整理しきれてないみたいです」
アインは素直に頭を下げると、長の言葉に同意する。
血の気が引いたように涼し気な感覚を覚えるが、対照的に手のひらは熱く、握りしめた拳には手汗を滲ませていた。
地べたに腰を下ろしていたせいか、臀部や太ももの裏の感覚が薄れている。
……両手を地面につけると、立ち上がるのに若干苦労するのだった。
「今日は本当にありがとうございました。まだ分からない事だらけですけど……俺なりに整理してみます」
「こちらこそ、尊き血を引く方とお会いできて嬉しく思います。では明日……そうですね、万が一私が起きられなかったときのためにも、いくつかの心当たりを用意しておきます」
「と、とんでもないっ……!それではさすがにご迷惑で――」
「この老躯も、自由が利かない事だらけでございます。ですので、どうかお気になさらずに」
長はずっと目を覚まさない日もあるとのこと。
それを心配してこんな提案をしたのだろう。
「横になりながら本をめくるだけですから。その本を持ってくるのはシエラに任せますので、問題ありません」
ほっほっほ、と愉快そうに笑い声を漏らすと、ゆったりとした動きで長も立ち上がった。
「クリスティーナさんの事も、随分と待たせてしまいましたね」
長はそう口にすると、始まりの時と同じく杖を使い術を解除した。
すると、真空状態の袋に空気が押し入るかのように、部屋の中を風が一瞬通り抜ける。
「――どうか、クリスティーナさんを大切にしてあげてくださいませ」
先程と同じようにそれを語ると、長が杖を使いながら頭を下げる。
「……長。どうか頭を上げてください。言い方は乱暴ですが、そんなこと言われなくても、俺はクリスを大切に思ってますよ」
アインはわざとこの言葉を選んだ。
下手に繕(つくろ)うよりも、こうして言葉にした方が気持ちが伝わる気がしたのだ。
「俺も同意(・・)して、クリスが提案したエルフの儀式を行ったんです。だからこれからも、クリスとは一緒に協力していければと思ってますから」
さらっとそれを言葉にすると、アインは今日の礼として頭を下げる。
だが、対照的に長の表情は一変すると、今日一番の驚きの表情でアインに尋ねる。
「エ、エルフの儀式……とは一体?」
ん?これだけじゃ説明が足りなかったのか。
そういえば、古い儀式だってクリスが言ってたっけ。
アインがこう考えて頷くと、そのような儀式だったのかを語る。
「えぇっと、ですね。お互いの右胸に手を当てるという儀式なんですが……」
――長は思い出した。確かに、そうした古い儀式が存在するという事を。だが、それが意味することを考えると、アイン以上に困惑してしまうのを抑えきれない。
「って、すみません。また脱線させちゃって……では、今日は本当にありがとうございました。また明日、お会いできることを心待ちにしておりますね」
長は表情に出さず困惑していたため、アインはただ普通に挨拶をして、長の部屋を後にする。
部屋に入った時と同じ扉の前に立つと、もう一度振り返って長に頭を下げた。
「――……殿下も同意して、儀式を行った?」
アインが立ち去った後。
長は未だ困惑した様子で独り言を漏らすと、口元に手を当てて考え込む。
やってきたアインはあっさりと語っていったが、その内容は、エルフの長にとっては軽い内容じゃない。
「いや、でも、それではおかしい。儀式を行ったのであれば、なぜ私に連絡が……?」
と、ここまで考えて長は仮説を打ち立てる。
「そうか……。殿下がお相手ともなれば、それを語るのは大変な行事。先ほど語ってくださったのは、聞かなかったことにしろという、暗黙の了解なのですね?」
当たり前だが、アインはそんなことは全く考えておらず、むしろ長と意識の共有すら出来ていない。
多くの面ですれ違っていたが、長にそれを確認する術は無いのだから。
一人、納得し終えた長は祈るように座ると、天を仰ぎ見てマルクとラビオラの事を思い出すのだった。
*
――待ちくたびれたかな?
アインがクリスを待たせてしまったことに、申し訳ない気持ちを抱いて部屋から出た。
すると、そんな感覚は一切なく、アインが戻ってきたことに嬉しそうな表情を浮かべて、クリスがアインの近くに足を運んだ。
「ごめん。結構話し込んじゃったけど……」
「お帰りなさい。アイン様!」
時折、考える事があった。
クリスに尻尾を付ければ、どのぐらいの速度で振り回してくれるのだろうかと。
駄猫なんて目じゃないぐらいモフりたくなるだろうが、それもまた一興だ。
「……どうでしたか?なにか有力な情報なんかは――」
「あー……。うん。長のお陰で色んなことが分かったよ。長の体調が良ければ明日もってことになったから、続きはまた明日って感じかな」
詳細に語ることは控えると、収穫があったという表情でクリスに答える。
クリスはそんなアインの表情を見て、安堵しながらも嬉しさを滲ませる表情を見せる。
「それはよかったです。長旅をしてきた甲斐がありましたね」
「うんうん。クリスのお陰だね」
アインが礼を伝えると、クリスは照れたように頬を掻き、少しばかり紅潮するのだった。
「あらあら……」
クリスと共に待っていたシエラが小さく呟き、クリスの様子に笑みを浮かべる。
落ち着いた頃合いを見計らい、シエラがそっと口を開く。
「殿下。それでは、明日は私が長の体調をお伝えに参ります。ですので、クリスとそのままお待ちになっていてくださいませ」
「――世話になるね。ありがとう。なら、甘えさせてもらうよ」
嫌味が無く、親しみやすいアインの人格に触れ、シエラもあまり緊張する事なく会話が出来た。
「お外までご案内いたします。どうぞこちらへ」
朝方に近くの町ホルトラを出発し、夕方に着いたエルフの里。
普段とは違った景色を見せる、エルフの里という世界。そこでの一日目も、こうして終わりを迎えようとしていた。
多くの話を聞けたが、素直に来てよかったと思える成果だったと思う。アインは整理しきれていない頭の中にも、こうした満足感を得て長の屋敷からクリスの家に向かうのだった。
*
シエラに見送られ、二人はクリスの家を目指して足を運んだ。
クリスの家を出た時と比べても暗くなり、月明かりが青くエルフの里を照らし続ける。
涼し気な里の空気の中にも、風に乗ってやってくる松明の熱気が心地よかった。
……そして、アインが記憶していたのもここまでの話。
多分、クリスの家に着いてから自分で着替えたのだとは思うが、どうにもその辺りの記憶があいまいだった。
疲れていたせいなのか、どうやら寝落ちというものをしていたらしく、目が覚めたアインの視界は真っ暗で、何処にいるのかわからなかった。
「――ど、どこ此処」
窓から差し込む月明かりが目に入り込む、つまり、まだ夜ということで間違いはないようだ。
身体の上には柔らかな羽毛布団が掛けられているのに気が付き、それに気が付くと自分が横になっていた箇所に手を当てる。
「……ベッドなのか?」
一言にベッドなのかと言ってしまっても、どうしてベッドに居るのかは分からない。
曖昧な記憶を探るように、背筋と腕を伸ばして体をストレッチした。
すると、ようやく暗がりに目が慣れてきたようで、部屋の様子が確認出来るようになったのだった。
「……うん。間違いなくクリスの家――……っぽい」
木の香りや雰囲気などが、明らかにクリスの家の気がしていた。
っぽい、と口にしたのは確証がないからで、若干不安に思っていた矢先。
ベッドの縁から寝息が聞こえて来た事で、アインはその寝息に耳を傾け目を向ける。
「スー……――」
長い金髪を地面にまで広げ、両腕をベッドの縁に乗せて枕にしていた。
腰は地面に下ろし、顔と腕だけをベッドに乗せており、器用に寝付いていたその女性は、家主のクリス本人だ。
「なんでそんなところで寝て……。あぁ、もしかしてクリス」
――遠慮したのか?
もしかすると、ベッドは一つしかないのかもしれない。
アインが寝ていたベッドは左右に余裕があったが、二人一緒に寝ようとすれば、肩が接触するかしないかの難しい距離感かもしれない。
そんな中、主君であるアインにベッドを譲り、クリスはその近くで休んでしまったという事だろう。
リビングにあるソファを使うことなく、こうして寝づらい所で休憩しているクリスの姿。
アインはその姿を見ると、小さく『ごめん』と呟いて、静かにベッドから降りる。
「まぁ、俺が悪いか。……普通、主君にベッドを譲っちゃうだろうしね」
せめてソファで休んでいてほしかったが、アインの傍で番(・)をすることにでもしたのだろう。
見たことのない部屋に一人よりは、クリスが居たほうが安心できるのは事実。こう考えると、やはり寝落ちしてしまったことを悔いるアインだった。
「ほーらっ。クリス、起きて?」
ベッドを変わろう。そして、自分はソファに寝ればそれでいいや。
先ずはクリスを起こさなければならないため、アインはクリスの肩を揺らす。
寝ているところを起こすのは申し訳ないが、少し我慢してもらうことにするのだった。
「んぅ……お姉ちゃん。まだ寝る……」
「――いいえ。王太子です」
実家ということもあってか、クリスはセレスティーナのことを思い出している様子。
肩を揺らしても起きる気配がないどころか、寝ぼけ具合に磨きがかかる。
アインは王太子です。とツッコミを入れたが、思えばクリスも王族だったことに気が付く。
「はぁ……」
自分が寝落ちしたのが悪いのだが、一度ため息をついて袖をまくる。
「クリスティーナ様。失礼しますね」
悪ふざけと本心を混ぜながら呟くと、クリスのひざ下と腰に手を当てて持ち上げる。
「って、軽いな」
自分が力強くなったのもあるが、クリスを軽々と持ち上げる。
ベッドの上に運ぶと、そっと足の方から体を下ろす。
クリスの長い髪の毛が潰されないよう、静かに横へ手櫛で流した。
「……」
薄着のクリスの姿が目に毒で、アインの視線をあっさりと奪う。
胸元が柔らかく揺れ、彼女が寝間着姿という事を理解させられた。
「――美味(うま)そうな魔石(・・)だ」
無意識のうちにそう呟くと、何言ってんだ俺?と首を傾げる。クリスの魔石を吸いたいなんて考えた事が無かったというのに、一瞬だけアインは魔石を求めてしまった。
下心がある訳でもなく、完全な食欲として考えてしまったように思える。
「疲れてるのかな。何言ってんだ、俺」
すると、ベッドに横にされたクリスは、嬉しそうに枕に顔を押し付けていた。
クリスが満足そうにしている姿を見てから、アインは彼女の背中に布団を掛ける。
「んー……目が覚めた」
ソファに行って二度寝するかと思ったが、意外と目が冴えてしまっている。
さて、どうするか……。そう考えると、音が生じないように寝室の扉を開ける。
「あぁ。リビングと繋がってたんだ」
扉を開けると、そこはすぐリビングに繋がっていた。
巨大なテーブルの上に置かれた水を手に取ると、それを飲み干してから外套と剣を腰に携える。
「――少し外の空気吸ってこよ」
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