九章 ―港町マグナ―
散々な始まり。
明日の出発までに、アインには片付けておきたい仕事がいくつかあった。
その仕事をこなすためにも、ララルアとの会話の後、アインは執務室で黙々と机に向かっている。
夕食も執務室でとりながらも、慣れた手つきでその仕事を片付けていった。
——コンコン。
「はい。どうぞ」
「失礼致します……ご所望の、診断書をお持ちしたのですが……」
やってきたのはバーラ。彼女の場合は、白衣が正装のため、アインの執務室であろうともその服装でやってくる。
「あぁ、ありがとう。こっちに持ってきてもらっていい?」
畏まりました。と返事をして、アインの側に進むバーラ。その手には、大きめの封筒に詰められた書類が握られていた。
「それではこちらが、クローネ様の分です。そしてこちらの封筒がクリス様ので……」
「うん、後で中を確認させてもらうよ。……基本的には、症状は同じなの?」
「そうなります。高熱と腹痛、人によっては頭痛も併発しますが、お二人にはそうした症状はございませんので」
「じゃあ、バーラが言ってたように、一週間もすれば元気になれるのかな」
「経過にもよりますが、一週間もあれば快調に向かわれるかと」
その返事を聞いて安心した。
ふぅ、と一息ため息をつき、途中だった書類から目を離す。
「はー……こっちも一息ついたよ」
「お疲れ様です。今は確か……ハイムとの件でしたっけ」
「そうそう。面倒なことだらけだけどね」
「……お察しします」
二人して苦笑いを浮かべ、アインは少しばかりの世間話を口にしはじめる。
「あの人も、弟とか王子を抑(おさ)えてくれたらいいんだけど……」
「……あの人というのは、一体誰の事でしょうか?」
面倒そうな顔で、アインが口にした言葉。バーラはその人が誰なのか気になった。
「元・父だよ。まぁ他国の話だから、そんなに口出しする気はないけどね」
「あ、あぁ……なるほど、そういうことでしたか。——そういえば、私も父には苦労させられてました……」
「ん?バーラのお父さんってこと?」
「はい。私もメイも……それに母も、父には苦労させられましたから」
そう語ったバーラの顔は、苦笑いを浮かべながらも、複雑そうな表情をしていた。
「聞いてもいい?そういえば、バーラのお父さんについては聞いたことなかったからさ」
「勿論です。ただ、聞いても面白くないとは思いますが……。では僭越ながら、お話致しますね」
正直に言えば興味があった。
彼女の母については、過去に何度か聞いた事がある。だが今思えば、父については聞いた事が無い。
失礼ながら、ただ死んだものと考えていたからだ。
「といっても、幼いころに何処かにいってしまったので、あまり覚えてないのですが」
「どこかに行った……?」
「『興が醒めた』といって、急に私たちの許を去っていったんです。母も意味が分からず、しばらく父の事を探したんですが……見つからなくて」
苦笑いを浮かべて口にするが、その内容はなかなか重苦しい。
「……それから、スラム街に住むように?」
「い、いえいえ!元からスラムに居たので、生活はほとんど変わらなかったんですが……振り回されっぱなしでしたので」
アインは思った。
むしろ自分の父なんかより、よっぽどひどいじゃないかと。
ローガスは思うことがあったにせよ、少なくとも、アインに十分な食事と住む場所は確保していた。
そうした面を比べれば、バーラの父よりは、ましなのかもしれない。
「お互いに大変だったね、それは」
「ですがその後、殿下に連れてきて頂けました。それだけで、私もメイも十分幸せなんです」
「……不便はない?」
「あ、当たり前じゃないですか!」
アインの言葉を聞いて、アインの近くで大きな声を上げたバーラ。
「っ……も、申し訳ありませんっ!つい興奮してしまって……」
「大丈夫だよ、ちょっとびっくりしたけど」
急な態度には驚いたが、バーラの必死な思いは伝わった。
「……私たちは、これ以上は望みません。ただこうして、此処で暮らせて幸せなので」
「——うん、それならよかった」
「って、急に申し訳ありません。こんなつまらない話をして……では、私はそろそろ仕事に戻りますね」
思い出したかのように謝罪をし、バーラはアインの近くから離れ、入り口に向かって行く。
「では殿下。何かありましたら、またいつでもお呼びください」
「うん、ありがと。それじゃこの診断書も、後で読ませてもらうよ。……それと、二人にはこの手紙を渡してもらえる?」
「……確かに受け取りました。では後ほど、経過を確認しに行く際にお渡しいたしますね」
本当なら、彼女たちが休む部屋に行きお見舞いがしたい。
だが、今はそれが許されない為、アインは心配している旨を書いた手紙を用意した。
——失礼します。
手紙を受け取ったバーラがそう口にして、アインの執務室から立ち去る。
「いろんな"父"がいるんだなあ……」
人の数だけ家族の形がある。アインはバーラの話を聞いて、皆が何かしらの苦労をしているのだろう……そう実感する。
「さてと。それじゃ、二人の体調について確認しておこうかな……っと、その前に」
アインは立ち上がり、窓に近づきそれを開ける。
すると夜の涼しい風が入り込み、部屋の空気が入れ替わっていく。空には満天の星空が広がり、雲一つない美しい夜空が、アインの視界一杯に広がった。
「マグナで先に待ってるからね。二人とも」
*
アインが目にしたように、イシュタリカ周辺では満点の星空が見れる頃。
それから数時間後の大陸の近海では、嵐のように天候が悪化していた。
バードランドを出発した船は、悪天候の中を必死になって進んでいるのだった。
「こ、こんなに揺れるのね……」
「今日は天候が悪いようです。どうかお気を付けください」
——何を気を付ければいいのよ……。
エレナがそうした不満を考える程、イシュタリカへの道のりは険しかった。
窓一つない木造の船内。
そこに用意されたエレナの部屋は、不快な湿度と籠った空気で居心地が悪い。
だがそれでも、商人が乗る船はこれでも造りがいい方だった。
冒険者たちがのる船ともなれば、これ以上に劣悪な環境だ。
雑魚寝でトイレも無い、船に使われる素材も安物のため、揺れや軋む音が厳しいのだ。
「あと、どのぐらいかかるのかしら……」
「そうですね……。おそらくは、半日程度かと」
半日もすれば、地上に出られる。その言葉を聞いて、エレナは希望を取り戻した。
……はっきり言って、イシュタリカへの道のりを舐めていた、ここまで厳しい旅になるとは思ってなかったので、そうした無知な自分を恥じる。
「わかったわ。それなら耐えられそう」
「それはなによりです。では私は、自分の部屋に戻りますので」
「えぇ。何かあったら呼ぶから、わざわざありがとう」
そうして彼はエレナの下を離れて、部屋というには、納得しにくい部屋へと戻っていく。
「……本当に意味が分からない。こんなに長い時間かけてるのに、イシュタリカの船はこの半分……いえ、四分の一程度の時間で到着するだなんて」
どんな技術で、そんな船を作ったのだろう?
技術的な事を説明されてもわからないが、それでもどのような造りなのか興味が沸く。
——ギイィィ……。
「っ……も、もうっ!急に揺れるんだから……」
軋む音を上げて、エレナが乗る船が大きく傾く。
荒波を進むことで、船体にも多くの波が押し寄せている。
「どうやったら海で揺れないのよ。どうやったらそんなに早いのよっ……!」
環境の悪さに、何故かイシュタリカの技術力を責めたくなった。
意味のない言葉ではあるのだが、こうした声でも出さねばやってられない。
「っエレナ様?何か大声が聞こえたのですが……」
先程去っていた文官が、エレナの声を聞いてやってきた。
「ご、ごめんなさい。揺れに驚いてつい」
イライラして声を出したなんて言えるはずもなく、先ほどの大きな波に責任転嫁する。
「あぁ、なるほど。確かに大きな波でしたね……」
「そうよね?……それにしても、イシュタリカの船は、こうした波も気にならないと聞くけど。本当に意味が分からない技術力だわ……」
「……確かに、私もイシュタリカが"羨ましく"て、"まるで楽園"のように感じてしまいますよ……」
付き添いの文官がそう考えてしまう程、イシュタリカの技術力というのは魅力的だった。
「私も、もう寝ることにします。エレナ様、貴方様もお休みする方が、きっと楽かもしれませんよ」
「……そうね。そうするわ、そのほうがいいみたい」
寝て起きて、少しすればイシュタリカだ。
そう思えば少しは気が楽になり、この苛立ちも納まる気がした。
「では。おやすみなさいませ、エレナ様」
「えぇ。おやすみなさい……」
文官が再度立ち去ったのを見て、エレナは苛立つ気持ちを抑えながら、肌触りの悪い寝具に身を包んだ。
——早く寝つけて、起きたらすぐにイシュタリカでありますように、と。
*
次に目を覚ました時は、気分が最悪だった。
——ドンドンドン!
ドアの外からは、自分の部屋を叩く音が響く。
寝起きにその音が不快でたまらなく、寝心地の悪い寝具のせいか、身体の調子もよろしくない。
「なによ、もう……」
むくっ、と体を起こし、ドアに近づくエレナ。
「——誰?」
「エレナ様。ようやくイシュタリカに到着致しました!ついに到着したんですよ!」
——っ!?
「ほ、本当にっ……!?」
ドアを勢い良く開けて、外で待つ文官の顔を見た。
彼はエレナの様子に驚いていた様子だったが、それでもすぐに表情を戻し、喜ばしい顔に変わっていく。
「はい!荷物を持って、外に出ましょう……っ!数日ぶりの朝日が待ってます!」
「え、えぇ……そうね!」
もう早くこんなところから外に出たい。
エレナはそう思って、自分の荷物を手に取って、急いで甲板に向かって足を運ぶのだった。
エレナが長い時間寝ていたため、二人は船から出るのが遅れている。
そのため、すでにほかの乗客たちは下船しているらしく、通路には他の乗客の姿はない。
「エ、エレナ様っ!お待ちくださいっ……!」
「ほら、貴方も早く!久しぶりに陽の光を浴びたいの!」
寝る前までの元気のなさや、寝起きの身体の強張りが消え去って、上機嫌で進み続けるエレナ。
通路を進み終え、角度が急な階段を上り始める。
「もうっ……じれったいわね!」
自分の考えが甘かった。そうした自覚はあったのだが、今は素直に到着したことを喜びたい。
そして早く陽の光を浴びて、外の景色を目にしたい。その一心だった。
「……さぁ、開けるわよ」
階段を上り終え、目の前に見える木の扉。
そのドアノブに手をかけて、エレナは意を決してその扉を開く。
「っ眩しい……」
久しぶりの朝日が目に染みて、あまり目を大きく開けられなかった。
「エ、エレナ様っ……急ぎすぎですよ!」
追い付いた文官がそう口にするが、エレナはただ笑って流す。
「あぁ外の空気が美味しい。外って、こんなにいいところだったなんて……」
まだ開き切ってない目を労わりながら、彼女は外の新鮮な空気を体内に運ぶ。
港町という事もあって、潮風の香りが強いが、それも決して悪くない。
そうしてマグナの空気を吸っていると、ようやく目が慣れてきた。ついにエレナの目が開き始める。
「さぁ、どんな町なのかしら。マグナは……」
念のためにと、目の上に手を当てて影を作る。
そして開かれた目には、広大に広がる港町マグナの姿だった。
最初は近場の風景から、そう思って目を開けると、どこまでも続く広い街並みが目に映る。
「——此処が、マグナ……」
コバルトブルーの海が広がり、赤い屋根に白い壁の美しい街並み。
だが一番強く感じたのは、その規模の大きさにある。
バードランドを出るときは、港町ラウンドハートにも自信があった。しかし今はどうだろうか。
「……比べていい場所じゃ、なかったのね」
二倍?三倍?いや……十倍なんて軽く超えている。それほどの広大な敷地に並び立つ、広い広いマグナという都市。
多くの人々がその町を歩き、数多くの店が立ち並んでいる。
「すごい町ですね……これは」
「……えぇ」
付き添いの文官もそう漏らし、エレナは黙って頷いた。
「その、エレナ様。あちらの方をご覧ください……」
少しの間そうしていたら、隣の文官が話しかける。
エレナはどうしたのかと思い、彼が指示した方角に目をやった。
「な、なによ……あれ」
「恐らくは、イシュタリカの艦隊かと思われます。奥の方には、もっと大きな戦艦があるようですが、ここからは見えないですね……」
確かに、奥の方にも上部がはみ出ている戦艦が見える。
それほどの大きさならば、噂に聞く王族専用の戦艦なのだろう。だがそれを差し引いても、立ち並ぶ多くの艦隊が、ただそれだけでエレナの視線を奪い去る。
「ハイムで会談を行う。そんなことをすれば、ハイムの港町なんて……数時間も持ちません」
「……本当にそうね。イシュタリカが突っ撥ねてくれて、おかげで助かったってことだわ」
勝負になってない。
相手になってない。
そんな考えが、呆然とするエレナに襲い掛かる。
実際に目にするまでは、まだ納得しきれていない部分があった。
ただ自分の想像が追い付かず、こうした現実を目の当たりにするまで理解できなかったのだ。
「あ、すみません少しよろしいですか?」
「はいはい。なんですかお客さん」
すると文官の彼が、歩いていた船員に声を掛ける。
「失礼ですが、あの奥に見える大きな船は……」
「ん?あぁー!あの船ね、あれはね」
先程の巨大な船。それがなんなのかを尋ねるが、船員の答えは、エレナの予想とは全く違っていた。
「ありゃ、騎士団の戦艦でさぁ」
「き、騎士団の……ですか?」
空いた口が塞がらなくなるほど、意外な情報を口にした船員。
「……というと、王族の方のではない……そういうことなのかしら?」
船員の返事を聞いて、たまらずエレナも口を開く。
「勿論!イシュタリカ王家の船ともなれば、あの数倍はでっかいんで、比べ物なりませんて!」
——それじゃ私はこれで!
そうして船員は去っていくが、余計にエレナたちは困惑してしまった様子。
「あ、あの船よりも巨大……?そんなのが数隻あるっていうの?」
「……言葉にできませんね」
もはや一つの町だ。
そう思わせる程の、巨大な船。それがいくつもあると思えば、もはや笑うことしかできない。
「はぁ……とりあえず降りましょうか。ここに居ても、なにも始まらないもの」
「そう、ですね……。では参りましょうか」
旅人が羽織るような布のローブを着て、二人は船を降りる支度をする。
「そういえば、護衛の冒険者たちは何処に?」
「確かにそうですね。……あ、すみません。お尋ねしても?一緒に冒険者たちの船が来たと思うのですが、その船はどちらに……」
先程とは別の船員。
丁度すれ違ったのをいいことに、文官がその船員を止めて尋ねる。
「冒険者の船?あーそういえばもう一隻来てましたね。そういや隣に泊まってねえな……どうしたんだろ」
「……お?どうしたんだお前?」
どうしたもんかと悩む船員の下に、新たな船員がやってくる。
「もう一隻あっただろ。冒険者達乗せたやつが」
「……あぁ、あったな。でもあの船は到着しねえよ、なんでも波にやられたらしい」
「おいおい……マジか」
その会話を聞いていた二人は、少しばかり顔色を悪くする。
まさか護衛予定の冒険者が乗った船。それが転覆していたとは思いもしなかった。
「お客さん。運よく海の魔物と遭遇しなくても、波にやられることもあるんでさぁ。近頃イシュタリカとの間の海では、海の魔物が激減してます。ですが波の事故ってのは、どうしても無くせないもんでして……」
商人の乗る船と比べて、造りが粗雑な冒険者の船だからこそ、こうした事故は起こりやすい。
イシュタリカでも活躍する冒険者ならば、商人の船よりいい船に乗れるだろうが、バードランドから……となれば、その船は難しかった。
「……わかりました。教えてくれてありがとう」
エレナが静かに、その船員へと礼をする。
「いえ。ではお二人とも、いい旅を」
仕事に戻っていく船員を見てから、エレナは文官に向かって口を開く。
「護衛が居ないけど、どうしましょうか?」
「ここまで来てしまったのです。なので、降りてこの町ぐらいは見て帰るべきかと……」
護衛が消えたのは心細いが、それでも彼の言うことには概ね同意する。
なにせハイムとしても、決して安くない費用を払ってここまで来ているのだ。
それをただ船の上で過ごすだなんて、到底許されることではない。
「そうね。それじゃ……気を引き締めていきましょうか」
こうしてエレナは、初めてのイシュタリカ上陸を果たした。
*
桟橋を歩くと、いくつもの漁船が並んでいる。だが一見すると、貴族の船かと思う程に、その造りは頑強で立派。
そんな船がただの漁船だというのだから、ハイムの民としては意味が分からない。
「ほーらほら!見てって、見てって!」
「さっき水揚げしたばかりだよ!」
数歩進めば別の出店。
それが延々と続く通りに出たエレナは、何かの祭りかと錯覚してしまう。
「これって、何かのお祭りとかじゃないのよね……」
夫のハーレイからも話は聞いている。
賑わいは勿論だが、その規模にも驚くことだろう……と。
ハーレイの言葉を信じてないわけじゃないが、それでもやはり、こんなに大きな町があるとは考えたことが無かった。
「あ、お姉さんお姉さん!このお魚いいでしょ!一本どう?」
「あら、ごめんなさい。実はまだ宿も決まってないの」
「んん?……あーお姉さんもあれねっ!ならしょうがないか!」
話しかけられた店主は、如何にも港産まれな日焼けした肌に、腕っぷしの逞しい男。
「あれ……?」
「わかってるって!お姉さんも今日のために、わざわざマグナまで来たんだろ!なーら急いだほうがいい、今日は宿を取るにも一苦労だぞ!……あーお客さん!それね、毎度っ!」
一体彼は何を言ってるのだろう。"アレ"の内容は分からないが、素直に何があるのかと聞くのも不審に思われるかもしれない。
「ね、ねぇ店主さん?今日はやっぱり、いつもより人が多いの?」
「はい毎度っー!……あー確かに多いな」
店主は話しながらも客をさばき、もう一度視点を変えてエレナを見た。
「でもここら辺はいつもと変わらねえかな。ただもうちょっと進むと、歩くの大変なぐらいだと思うぜ!なにせ、王都からあの"お二人"がやってくるってんだから、そりゃ賑わって当たり前だ!だから、迷わないように気を付けてな!」
「えぇ……ありがとう」
此処以上の人込みと聞けば、エレナも尻込みしてしまう。
今回の目的は、半分以上が試しにイシュタリカへ……とのことだったので、特に成果は求められてない。
なのでエレナとしても、イシュタリカを見ることだけに意識を向けられた。
「それじゃ行きましょうか。まずは宿を……って、あれ?」
付き添いの文官に声を掛けたつもりが、そこには誰も居なかった。
この通りに入るまでは、すぐ隣を歩いていたはずだ。……だというのに、どうして今は一人になっているのだろう。
「もしかして、はぐれたのかしら」
冷静に口にしてみるものの、内心は相当焦っている。
こんなに広い町ではぐれたとなれば、合流するのも一苦労。どちらから離れていったのかは分からないが、そんなことを考えるよりも、今は合流することを考えなければならない。
「はぁ……。前途多難ね」
二人の格好は、はっきり言って地味で目立たない姿。そうなれば、はぐれてしまうと尚更に合流が厳しくなってしまう。
——さて、どうしたものか。
「とりあえず、大通りに出ましょう。進めば大通りがあるみたいだし……」
多くの道が重なる部分なら、すれ違える可能性も高くなる……かもしれない。
そうした淡い期待を抱き、ゆっくりを足を動かし始める。
「地面も綺麗なのね」
斜めになっている場所や、凸凹になっている部分が見当たらない。
言い方を変えれば歩きやすく、歩いていても足が疲れにくいのに気が付いた。
時折、色を変えて並べられたタイルが、シンプルな模様を浮かべており、見ているだけでも気分がいい。
「こうした部分で違いがあると、やっぱり虚しくなっちゃうのよね……」
そう呟いて、ため息をつきながら大通りへのを進んだのだった。
マグナについての土地勘はなかったが、歩きながら、頭の中で地図を作り上げていく。
狭い路地を通っては、合流しにくいかもしれない。そう思って、なるべく大きめの道を歩くように心がける。
だが本当に、この地面が歩きやすくて助かった。
こうした時に足まで疲れてしまっては、精神的にも疲れを感じてしまうだろう。
*
——数時間も歩き続け、なんとか合流できるようにと努力を続けた。
黙って何処かで待っていた方が良かったかもしれないが、エレナは自分から探すことを選ぶ。
マグナに着いたときの桟橋にも戻ったが、彼の姿は見当たらない。
乗ってきた船に戻ってみても、姿は見てないとの返事だった。
徐々に陽が傾きはじめ、エレナもそろそろ宿を決めなければならない。そのことを思い出す。
今日の自分は落ち着きがない。……どちらかといえば、先に宿を決めてから合流を目指すほうが良かった。
そのことも考えてしまい、自分がこうした状況に弱いと自覚させられる。
「……やっぱり私って。机の上の仕事以外、するべきじゃなかったのね」
自分から志願したというのに、この体たらくでは情けない。
それでも後悔は後にして、今はこの状況を、なんとかして打破しなければならなかった。
「よしっ……と。さぁ気を取り直して、まずは宿を探しましょうか」
頬をパンッ!と叩き、気合を入れ直すエレナ。
これまでに確認していた宿をあたって、部屋を用意するために、また足を動かして進み始めた。
*
「うちも昼過ぎには埋まっちゃってね、もう部屋の用意できないんだよ」
これで何件目だろうか。宿を探し始めてから、すでに一時間は過ぎて、もう陽が完全に沈む頃。
今回の宿も埋まっているとのことで、別の宿に向かわねばならなくなった。
「わかりました、それでは」
——ガチャ。
扉を開けて、宿を出るエレナ。
時間を考えても、そろそろ本当に宿を決めておきたいところだが……。
「落ち着きを失ったこと。それが原因ね」
思えば、日中に会話をした出店の店主。彼の言葉を聞いてから、すぐに宿を決めに行くべきだった。
合流を重要視するのも当然だが、それ以上に、宿の事ももう少し考えるべきだったと後悔する。
「少し、休憩していこうかしら」
相変わらず、人通りの多い道を歩いていたエレナは、脇に置かれているベンチに目をやった。
丁度座っていた者が立ち去ったので、そこに向かって行き腰を下ろす。
隣にはまだ一人、灰色のローブを被った者が座っているが、エレナはそれを気にすることなく腰かけた。
「……さすがに、少し足が疲れてきたわ」
脹脛(ふくらはぎ)をさすって、張ってきた表面をほぐしていく。
「さすがに野宿は……」
恐らく、この町はたとえ夜だろうとも人通りが多い。それでも女性として、野宿は避けたい部分があった。
「本当に、早めに宿を取っておくべきだったのね……」
優先順位を間違えたことを後悔し、出来ることなら今日の朝に戻りたい。
こうした独り言を漏らしながら、疲れた足をもう一度さすりはじめる。
「——……あの」
エレナが足を癒していると、隣に腰かける灰色のローブから声が聞こえた。
「……?」
動きを止めて、隣に目を移すエレナ。
「失礼ですが。もしかして今夜の宿が用意できてない……とかでしょうか?」
深く被ったフードのせいで、顔までは確認できなかった。
しかしながら、声から察するに、男性という事は理解できる。そして年のころは……まだ若いように思えた。
「え、えぇ……。実は、こんなに混み合うとは知らなくて」
イシュタリカの冒険者なのだろうか?エレナは会話しながらも、そんなことを考えていた。
「ははっ、なるほど。確かにすごい人混みですよね」
その外見とは裏腹に、柔らかい笑い方をする人だ。エレナはそうした印象を抱き、少しばかり警戒心を沈めていく。
「本当に……。マグナって、こんなに賑やかな所だったんですね」
「そうですね。俺も何度か来てますけど、いつも驚きますよ」
「あら、そうなんですか。……お近くに御住みなのかしら」
警戒しなさすぎだったかもしれない。だがそれでも、彼の話し方には好感が持てて、いつものエレナのように語り掛けてしまう。
「うーん……。実は王都に住んでるんです。それに、普段は、簡単に遠出させてもらえないので」
「ふふ。冒険者の方なのかしら……って思ってたけど、実は貴族の方なのね?」
「貴族、貴族かー……。貴族ではないんですけど、色々と面倒な立場といいますか」
腕を組みながら、頭を左右に傾(かし)げて迷う姿。
貴族でなければ大商人の子?少なくとも、ただの平民とは思えなかった。
——きっと高い教養も備わっている。
彼と話していると、エレナはそう実感した。
「なら詳しくは聞きません。その方が、貴方にとってもいいのでしょう?」
「はは……。いやはや、申し訳ないです」
恐らくこの男には、相手を不快に思わせる語り方がないのだ。
声色一つ取ってしても、相手を心地よく感じさせる力があるように感じる。
「では、深く追求しないでくれたお礼でもいかがでしょう?」
「……あら。私みたいな旅人と会話をしてくれた。それで私が礼をするべきでは?」
「たかが会話をしたぐらいで礼が必要なら、商人は死んでしまいますよ」
冗談のように終わらせて、すっと立ち上がる男の姿。
身長が高く、エレナは、立ち上がった彼の姿を見上げる形になる。チラッと見えた茶色の髪の毛が、男性にしては長いように感じられる。
「こういう時でも、部屋を残している宿を知っています。前に聞いた事があるので、そこに案内しますね」
「……宿?」
「えぇ、宿が無いんですよね?……俺も自分で確かめた訳じゃないですが、伯母から聞いた事があるんです。まぁその伯母も、全部が信用できるわけじゃないんですが……」
なんともはっきりしない言葉だが、宿を紹介してくれるならありがたい。
細い路地に入りそうにでもなったら、逃げればいいだろう。
「"無理"言って抜け出してきてるんで、急いで向かいましょうか。それじゃ、こちらにどうぞ」
そして灰色のローブの男が歩き出した。エレナはその後姿を見て、黙ってその後ろをついていくのだった。
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