土壇場の騒動
季節は巡り、新たな春がやってくる。
それはイシュタリカだけでなく、お隣の大陸でも同様の事だった。
——大陸の北側。
そこにあるのはロックダム共和国。
ハイムに次ぐ、大陸第二位の軍事力と広大な敷地。そしてそれに連なる多くの富を持つ、もう一つの大国だ。
「ではエレナ様。私共が先導致しますので、どうか遅れないように」
「……えぇ」
事の発端は、第三王子ティグルの発案だった。
イシュタリカ同様に、自分たちもスパイ行為を行う。それがようやく実行に移されようとしていたのだ。
リリの時のようなことが発生しないようにと、これまで以上の細心の注意を払ったのだが、実際のところバレてるかは分からない。
「本当に大きな港……」
港町ラウンドハート。ハイムにとって自慢の港だが、ここロックダムの港も負けていない。
船の数を比べるならば、もしかすると負けているかもしれない。それほどまでに、冒険者たちや豪商が保有する船で溢れかえっていた。
今回選定された人員に目をやると、エレナ以上の重鎮は存在しない。
当たり前だが、エレナが参加するのもそれなりの苦労があったのだ。
ティグル曰く、『ならん!エレナにもしもがあってはいけない!』
ハーレイ曰く、『私も反対だ。それに冒険者達との船旅……それ自体も心配だよ』
と、二人ともエレナがイシュタリカに向かうことに反対だった。
だが、それを数か月かけて説得し、なんとか参加までこぎ着けた。
「バードランドからのお客様方ー。そろそろ荷物を詰込みますよー!」
商人達が乗る船に席を設け、なんとかハーレイの不安は解消に向かった。
そうはいっても、危険な船旅というのに違いはない。
「それでは参りましょう、エレナ様」
「……わかったわ」
エレナに声を掛けるのは一人の文官。
彼もそれなりの立場にあったが、ティグルがエレナのためにと用意した。
エレナより年上の男性で、普段はティグルに関する仕事を受け持っている。
「(……これから数日間、海の上ね)」
イシュタリカへの道のりは、長く険しい。
だがそれでも、イシュタリカを自分の目で確認する事。それは必ず何かに役立つ……エレナはそう考えていた。
*
「そういえばアイン。私も一緒に行きますからね」
「お、お母様?行くってどちらに……ですか?」
学園が終わり、いつものように城に帰り、そしていつものように食事をして風呂に入った。
その後は少しの仕事をこなして、あとは読書でもして休もうと思っていた時の事。
マーサがアインの部屋へとやってきて、オリビアが呼んでる……そうした言葉を残していった。
そしてアインは自室を出て、オリビアの部屋へと向かってきたのだった。
「あぁっ……動いたら駄目ですよ。まだ終わってませんから……ね?」
そして今のアインが何をされてるのか。
何もやましいことは無く、ただアインの髪をオリビアが梳いている。それだけのことだ。
「うん、うん。綺麗に手入れしてるのね、いい子よアイン」
「……ありがとうございます」
クローネ達との約束通り、アインの髪は長めに整えられている。
だがそうなれば、今まで同様の手入れではすぐに荒れてしまうため、アインは今まで以上に髪に気を使うようになっていた。
「それで、その。お母様が一緒に来るというのは……?」
鼻歌を歌いながら、上機嫌でアインの髪に櫛を通し続けるオリビア。
寝る前のオリビアは、結構露出が多い。そのため、アインはなるべく、そのオリビアを見ないようにと気を使っていた。
「うん?あぁ、そのことね。私もマグナに行く……ってことですよ」
「えっ!?お母様が一緒にマグナに来る?そんなの今まで聞いてなかったんですが……」
というか、第二王女まで来るとなればそれなりに大事だ。
実際のところ、アインの方が発言力はあるのだが、人気やこれまでの実績も思えば、オリビアも来るのは只事じゃない。
それどころか、マグナに向かうのはもう二日後の事で、唐突すぎないかと疑問に抱く。
「ふふ……お母様にお願いしたの。それで許可をいただけたから、アインと一緒にマグナに行けるんです」
そこで、父シルヴァードの名を出さないあたりに、イシュタリカ家でのパワーバランスの様なものを感じる。
だが、結局は許可されたのならば、アインとしても文句はない。
「いつの間にそんな話が——」
アインと一緒に遠出ができる。
そのことが、オリビアにとっては何よりも幸せな時間だった。
「だってずるいじゃない。今までクリスも、それにクローネさんまで一緒に遠くに行ったのに。……私だけ、アインと一緒に遠出できてないのよ?」
顔は窺えないが、不満そうな声色で、オリビアの気持ちを察したアイン。
「お母様は、その、第二王女ですし。そう簡単に出かけられないのではないかと……」
「はい、そうですよ。でもアインだって王太子だもの、だからたまには私だって一緒に行きたいの」
アインとしても、その想いは賛同できる。実際のところ、オリビアと二人で遠出する機会なんて無かった、ハイムからイシュタリカへの道のり……それを思えば、無かったとは言い切れないのだが、イシュタリカに着いてからは一度も無かったのだから。
「では久しぶりに、お母様と一緒にマグナの町も楽しめそうですね」
「私はその日が楽しみでしょうがないの。だからアインも、体調に気を付けてくださいね?」
マグナに滞在する予定はおよそ半月。
つまりその間、全日程ではなにしろ、オリビアとも町を楽しめる時間があるという事だ。
「はい、綺麗になりましたよ」
「ありがとうございます。お母様」
アインの髪が梳き終わり、オリビアが櫛を仕舞いに行こうとする。
「あ、お母様。よかったら俺も、お母様の髪を梳いてもいいでしょうか?」
まだ寝るまで時間がある。それに自分がしてもらったのに、それだけで終わるのも悪い気がする。
なによりも、オリビアにもしてあげたいという気持ちが勝っていた。
「……いいの?」
「勿論です。さぁお母様、交代してくださいね」
オリビアの髪は綺麗に梳かれている。自分で手入れをしたのだろうが、まぁこのぐらいのスキンシップなら構わないだろう。
そう思い、遠慮がちな瞳のオリビアを見て、アインは彼女の手を引いて強引に座らせた。
「痛かったら教えてくださいね」
少し困惑した表情だったが、アインはそれを気にせず、オリビアの手から櫛を取った。
「あっ……もう、最近のアインは少し強引なんですね」
不満のように口にしたが、対照的に、その声色と表情は嬉しそうだったため、アインはその言葉を笑って誤魔化す。
「それじゃ、始めますよ」
自分と全く同じ色の髪を見て、アインは優しく櫛を滑らせ始めていった。
それからしばらくして、オリビアの部屋を立ち去ったアイン。
オリビアが嬉しそうにしていた姿を思い返し、同じく上機嫌でベッドに入るのだった。
*
オリビアとの会話を楽しんだ次の日のこと。
いつものように目覚めて、いつものように学園へと向かってきた。
しかしながら、このいつものように学園に通うことが、もうすぐ終わると考えると徐々に寂しさが募る。
「では、学内対抗戦に関しては以上だ」
春の王立キングスランド学園は、毎年ながら多くの空気に包まれる。
もう少しすれば、新たな一年次が入ってくることや、進級してクラスを上位に食い込みたい者。
特に5年次の漂わせる空気は、その中でも最大級に混沌としている。
「お前たちにとっては卒業前。そして他の学年にしてみれば、試験後のストレス発散になるわけだ。時間はかかったが、なかなかいい時期だろう?」
最高学年のアイン達は、もうすぐ卒業を迎える。そのため学園の空気とは縁がないはずだったのが、今年は違う。
——去年のうちに行われたアンケート……その話題が、今は注目を集めている。
「おいアイン!お前も出るんだろ!」
元気な声で話しかけるバッツを見て、アインはどうしたものかと悩んでしまう。
「(……自惚れるわけじゃないけど、出ちゃだめな気がするんだけどね)」
マルコを打ち倒せるだけの強さを得たアインは、学園のレベルで、自分が出場していいのか迷っていた。
見ている者や出場する者達にとっても、"出来の悪い"出来レースに思われる気がしてならない。水を差してしまわないかが心配だったのだ。
「うん。前向きに考えてるけどさ」
「あ?なんだそりゃ。俺はアインとやれるのを楽しみにしてんだぞ?でっかくなったんだし、余計に楽しみだろ!」
バッツがいうように、アインは大きく成長した。
去年はそのことを公表するのに、いくつかの案が考えられた。しかし、結局は『強い力を持つドライアドの影響』……と公表し、茶を濁す結末となった。
ドライアドは数が少なく、今だどのような生態なのか把握しきれていない部分がある。
そのため、そうした事実があってもおかしくない。イシュタリカの民は、このように納得していたのだった。
「い、いや俺もそれは楽しみだけど……」
最後の最後に、バッツと真面目に剣を交わす。そんな機会があってもいいと思うのだが、どうにも気持ちがはっきりしない。
「はっきりしねえなぁ!どうしたんだよアイン?何か理由でもあんのか?」
なんて答えたものか。それすらも迷っていたアインだが、そうして騒いでいたバッツに注意が入った。
「さて……バッツ?君は何か意見でもあるのか?あるなら手を上げて発言してほしいのだが」
「……舞い上がってました」
「うむ。自覚があるならよろしい」
カイルの鶴の一声がかかり、バッツはそうして口を閉じた。
「……バッツ、殿下は今度マグナに視察に向かわれる。そうした事情もあるのだから、即答できないのではないか?」
「おぉ……なるほどな。ならしょうがねえのかな……」
小声で声を掛け、レオナードがバッツにそう告げた。
アインの懸念とは違うのだが、それでもレオナードの助けはありがたい。
——ありがとう、レオナード。
心の中でそう礼をして、レオナードへと感謝する。
だがレオナードが言うように、確かにアインはマグナへと向かう。
名目としては視察。そう公表がされているが、その内実は赤狐に関する調査団の派遣。
イストやバルトと比べれば、マグナは王都に近く、そして行き来をする者達が多い。そのため、マグナの方がこれまでの調査よりも危険は少ない。
「卒業の数日前、最後の大行事だ。皆それまで健康に過ごすよう、気を付けてほしい。では以上、レオナード」
「はいっ。……起立、礼」
こうしてクラスで集まる機会も、あと何回だろうか。
恐らく、片手の指に納まる程度の機会だが、それを思えば、卒業することが更に現実味を帯びてくる。
「そういえば、マグナは結構な大所帯なんだっけか……」
ふと、思い出すマグナへの旅。
王族はアインとオリビアの二人が来るということで、その分警備も厳重になる。
つまり近衛騎士も多く動員され、実はそれなりに大所帯となるのだ。
遊びに行くわけじゃないが、それでも、マグナに行くのを楽しみにしているオリビアを思えば、アインも自然とそれが楽しみになっていく。
ちなみに、
「——下!殿下っ!大丈夫ですか?」
オリビアとのことを思い返していると、そのアインへとレオナードの声が聞こえてきた。
「……あれ?レオナード、どうしたの?」
「殿下がずっと放心しているようだったので、どうなさったのかと心配になりまして……」
気が付くと、教室に残っているのはアインにレオナード、そしてバッツとロランのいつもの4人だけ。
「あ、あー……。ごめんごめん、ちょっとマグナの事考えてた」
「なるほど、そういうことでしたか……ご視察ですからね。日程が詰まっているかと思いますが、お体には気を付けてください」
——なにせ最近は、ちょっとした流行り病もあるみたいですから。
と、レオナードが語り、アインのことを心配そうな瞳で見つめている。
「うん。ありがとレオナード」
しばらく考え事をしていたせいか、身体が固くなっている。両腕を伸ばしていると、『うぅん……』という声が肺から漏れた。
「……って、ごめんみんな!俺もう行かないと遅れるから、それじゃまた明日!」
和やかな空気だったが、ロランが突如、急いで教室を去っていく。
「そういやあいつ、もう立派な技術職だもんな」
「あぁ。だがお前だって、卒業したら騎士になるんだろう?」
「あ?まぁな。でもレオナードこそ、親父さんのとこで頑張るとかいってたじゃねえか」
皆の進路は確実に違う。
しかしながら、なんだかんだと4人全員が王都で仕事をすることになった。むしろバッツやレオナードに関しては、アインとそう遠くない場所で仕事をすることになる。
「アインはどうするんだ?」
「どうするって、何をさ」
「何をってお前……あれだよ、王太子だから、これからどうするんだろうなって」
「え?そりゃこれからしばらくは王太子だけど」
何を言ってるんだ、そんな表情でバッツに答えた。
「別に俺はそれが変わることはないかな。戴冠したら王太子じゃなくなるけど、それまではずっと王太子だし」
「そういやそうだな……。ってことは、城で王族の仕事ってことか」
「うん。そういうこと」
「私は城に出入りすることがあると思うので、殿下とお会いできることもあるかと」
「……俺はどうだろうな、城勤めの騎士はまだ遠い気がする」
城で務めるには、騎士の場合は高い倍率の中、高い成績を残して選ばれねばならない。
バッツが城で務めるには、まずはそうした成績を残すところからだった。
「まぁみてろって。いつかは俺も近衛騎士に入って見せるからな!」
「いい心がけだ。ところでバッツ、近衛騎士になるための礼儀作法は多いが、しっかりと学べるんだな?」
「うっ……わ、わかってんだよ!なんとかしてやるって!」
「それとバッツ。お前近衛を目指すならば、殿下に対しての態度がだな……」
レオナードが窘(たしな)めるが、その通りだ。
本気で城の騎士や近衛を目指すならば、正さねばならい部分が多くある。
「……た、頼むから学園にいる間は許してくれ」
アインは呆れた顔をするレオナードをみて、他人事のように、声を上げて笑い始めるのだった。
……その後は、二人も用事があるとのことで、アインも城に帰る支度をした。
実際のところ、そろそろ迎えが来ているはずなので、時間としても丁度良い。
すると一人ずつ学園を後にして、最後はアインが一人、校門に向かって行くのだった。
——今日も今日とて、楽しい時間だった。
こうした学園での時間が、もう少しで終わってしまう。そのことが寂しく感じていたものの、きっと彼らとはこれからも会える。アインはその希望は忘れていない。
「城に戻ったら、マグナに行く前に仕事を片付けないと……」
明日に迫ったマグナへの長旅。
実のところ、イストの時やバルトの時と比べれば、その負担は格段に低い。
それは必要とする時間だけではなく、危険性などの面から見ても、マグナはそういた脅威が少ないからだ。
そのせいもあってか、支度に関しては、前回ほどの騒々しさが無かったといえよう。
「アイン様!お帰りなさいませ」
校門に着いたアインを迎えるのは、いつものクリス……ではなく。珍しく、ディルが一人でアインのことを待っていた。
「あ、あれ?珍しいねディル」
クリスも注目を集めるが、ディルも同様に通行人から見られていた。
最近では、更に縁談の申し込みが増えていると聞く。それほどまでに、彼の容姿は飛びぬけて印象的だった。
「実はその、クリス様はこちらに来れない事情がございまして……」
「何か忙しいとか?」
こんなことは今まで無かったため、アインもどうしたのかとディルに尋ねる。
「体調を崩してしまったようでして、城で休養しているのです。……城に着いたら、バーラ殿に説明していただく予定ですので、詳しい話はバーラ殿から聞きましょう。なにせ私もあまり把握できておらず……」
申し訳なさそうな表情を浮かべるが、ディルも突然アインの迎えに行ってくれと言われ、それなりに困惑していたのだ。
アインを迎えに行くのは構わない。それどころか有難い話なのだが、いかんせん急すぎて詳しい理由が分からない。
一言だけ聞けたのは、クリスが体調を崩した……その情報のみだ。
「じゃあ一緒に聞こうか。心配だし、早く帰るよ」
ディルの言葉を聞いて、アインはいつもより早歩きで城に戻っていった。
*
「近ごろ流行りの病ですね。一週間も寝ていれば、すぐに良くなりますよ」
城に着いたアインは、ディルを連れてバーラの下に向かった。
訓練所近くに作られた、バーラの仕事場。そこには怪我をした騎士だけでなく、病気になった者や、体に異変を感じる者も足を運ぶ。
「そういえば、レオナードが言ってたな……」
ただの世間話程度の話題だが、レオナードが流行り病がどうのと口にしてた。その事を思い出して、身近で発生したことに驚くアイン。
「時折、こうした時期に流行ることがあるんです。大きな病となるものではありませんし、食事をとって寝れば治るものです」
清潔な白衣を見に纏い、堂々と説明をするバーラは、イストであった時とは比べ物にならない程成長した。
……内心では、アインに対してまだ緊張しているのだが、それが見えないように努力するぐらいはしている。
「なので、クリス様とクローネ様は、一週間程は安静にしていただく必要が……」
「あれ?ちょっと待って、クローネも……?」
バーラが口にするクローネという名前。
アインとしては、クリスだけが病の床についたと考えていたため、突如としてクローネの名が出てきたことに困惑する。
「は、はい。クローネ様も同様に、城内でお休みになってます。ほぼ同時期に発症したようなので、二人とも今日付けでお休みいただくことに……」
「申し訳ありません。アイン様。クローネ殿もというのは、私も聞いておりませんでした……」
となると、いろいろと問題だ。
なにせ明日にはマグナへと向かうというのに、同行予定だった二人が同行不可……どうしたものか。
「だからディルは悪くないって。でも……明日からの日程、どうすればいいんだろ。あ、そうだ! 俺の毒素分解は――」
「安静にしていれば治りますので、免疫力を高めるという意味でも、今回はご無理をなさらなくてもよいのではないかと思いますが……」
バーラが言った。
なるほど、確かに、その言葉にも一理ある。
悪化することもないとのことで、食事をとってゆっくり休む。
それで済むのであれば、医療専門の彼女がいうことに頷くべきなのかもしれない。
しかし、クローネは補佐官。そしてクリスは、アインとオリビア二人の護衛として数えられている。
そんな中、二人が行けないとなればいくつかの問題が生じることとなるが。
「失礼しまーす!……って、アイン様だ!?お帰りなさい!」
元気にやってきたのはメイ。騎士食堂の天使とかいう異名を持つ、騎士達に大人気の給仕だ。
「こらメイ!殿下の前でそんな態度……。だめでしょ?」
「まぁまぁ。気にしないよバーラ、それでメイちゃん?何か用事?」
「はいっ!なんかマーサさんが、アイン様をお呼びしてって言ってたので、アイン様をお呼びに参りましたっ!」
「多分その流行り病のことかな?わかった、マーサさんはどこに?」
丁度説明がほしかったので、メイの登場は絶好のタイミングだった。
「えーっと、えーっと……。中庭のテラスで、王妃様と一緒にいる……って言ってました!」
「お婆様が?それじゃ待たせられないな。……バーラ、教えてくれてありがと。あとで詳しい病状について、俺の執務室に送ってもらってもいいい?」
「しょ、承知致しました!ではそのようにご用意致します……っ」
メイの登場によって、先ほどまでの冷静さが失われかけたバーラ。
アインがララルアの下に行くというので、バーラも慌てて返事をする。
「メイもありがと。……ディル、それじゃ行くよ」
「はっ!」
メイの頭を撫でると、くすぐったそうに笑みを浮かべる。
そんなメイを見て満足したアインは、こうしてバーラの仕事場を離れていった。
*
足早に向かった中庭のテラス。
オリビアやララルアが好む場所で、多くの美しい花や木々、更には白い石材を使ってできた多くの水路。そのコントラストが美しい場所だ。
「お婆様。何やらお呼びとのことでしたが……」
正確には、アインを呼び出したのはマーサだ。
しかしマーサが自分から来ないで、アインを呼び出すことは無い。となれば、その主はきっとララルアだろう。
「あぁアイン君。お帰りなさい、さぁ座って?まずは一緒にお茶を頂きましょう?」
アインを見つけたララルアは、優しそうな笑みでアインに微笑みかける。
相変わらず若々しい容姿をしていて、たとえ20代と言われても違和感がない。
「それでは、向かいの席に失礼します」
ディルは少し離れて立ち、マーサの近くで護衛に移る。
「そういえば、マーサさんがお婆様のそばにいるのは珍しいですね」
「クリスにクローネの話は聞いたかしら?」
「えぇ。なんでも、流行り病に罹(かか)ってしまったとか」
安心できるのは、それが大事じゃないという事。
ただ少しの間休んでいれば治ると聞いて、アインは安心していた。
「そうなのよ。それで"ベリア"も珍しく休んじゃってて、マーサにお願いしてたの」
ベリアとは、マーサの師にして、ララルア専属の給仕を務める女性。
給仕長も務めているが、主な仕事は、ララルアの身の回りの世話をしている。
そのため、あまりアイン達にも姿を見せることは無いのだが、給仕としての腕は一級品で、たとえマーサであろうとも勝てない。そう思わせる人物だった。
「そ、それは珍しいですね。ウォーレンさんよりも、休むこと無さそうなのに」
「そうねぇ……。まぁでもね、ベリアも歳だもの。本人は認めないけど、身体は弱くなるものよね」
「……なるほど」
マーサが用意した茶を飲み込み、喉を潤す。
——うん。今日もいい味だ。
「だからね、アイン君にはそのことで話があったの」
両手を合わせて、楽しそうにするララルア。
仕草一つ取っても気品に満ちていて、見る者を恍惚とさせる。
「はい。どのような内容でしょうか?」
「クリスとクローネの二人は、一週間ぐらい遅れて参加します。だから、マーサも一緒に連れて行っていいわよ。マーサなら補佐の仕事もできるでしょうから、そうよねマーサ?」
「勿論です。なのでご安心くださいアイン様」
どうやら、空いた穴を埋めるための人事のようだ。
だがアインとしては有難い。なにせマーサならば、補佐の仕事も安心して任せられる。
「お心遣い、感謝します」
「いいのよこれぐらい。——……あの娘のお目付け役も込みだもの」
ボソッと何かを呟いたようだが、その言葉はアインには届かなかった。
「それとね、アイン君。二人のお見舞いはしたら駄目よ?万が一があったら危ないもの」
「……ですよね」
「だからお手紙にしておいてね。二人はそれでも喜ぶから、手紙を書いたら誰かに渡してもらうの。いい?」
病について詳しく説明を受けていないが、確かに万が一には備えるべきだろう。
ララルアが言うように、アインは後で手紙を用意することに決める。
「わかりました。あとでバーラにでも、渡してもらえるように頼んできます」
「そうね、それなら安心だわ。……それじゃあアイン君、たまには私とのお茶に付き合っていただけるかしら?」
思えば最近は忙しくて、ララルアとの時間も少なかったように感じる。
せっかくの時間だ、まだ余裕もあるので、アインはララルアとの語らいを楽しもう……そうすることにした。
「そのような大役、他の者には任せられませんね」
「あら、アイン君も立派になったのね。……では王太子殿下、しばらくお付き合いいただきますわ」
今の様な台詞を口にするアインを見て、ララルアもアインの成長を感じる。
その後の二人は、夕方になるまでの長い時間を、ただゆっくりとした会話で楽しむのだった。
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