次の春に向けて。

「ところでアイン様。ご夕食には遅い時間ですが……なにかお召し上がりになりますか?」



 再度謎の判別方法をとられてしまったが、マーサがタイミングを見計らって会話に混ざる。



「軽くお腹にいれておこうかな。部屋で食べるから……えーっと」



 チラッと、クローネとクリスの二人を見る。

 随分と心配をかけてしまったというのに、『ご飯食べるからまた後で』……なんて言えるはずもない。



「……人数分の軽食等をお持ちしますので、ご安心ください」



 一瞬どうしたものかと考えていたら、マーサの一言で助かった。

 小さな声で告げられたその言葉に従って、アインは自室で二人をもてなすことを決める。



 同じく小さな声で、ありがとうと礼をして、二人の方を向いて口を開いた。



「俺の部屋で良かったら、少し話そうか。夜も遅いから、あんまり長い時間は難しいと思うけど……」



 すると二人が笑顔で頷いたので、アインはその二人を自室へとエスコートすることになったのだった。




 *




 城に着くまでずっと考えてきたことだが、どうにもこの服装が窮屈で堪らない。

 しかしサイズの合う服が無いのも事実のため、どうしたものかと悩んでしまう。



「(お爺様にでも借りるべきだった?)」



 シルヴァードはアインよりも大きな体躯をしている。だからこそ、少なくとも今よりは快適な服装を持っているかもしれない。



「(どうしたもんか……)」



 ボタンをはずして服を緩めるが、肩や太ももなどは圧迫されていて厳しい状況。



「ねぇマーサさん」


「はい。なんでしょうか?」



 自室に向かう際中のアインは、後ろを歩くマーサに声をかける。



「服がきついんだけど、さすがにすぐは用意できないよね……?」


「いえそんなことはございません。来客用の服はアイン様へとお出しできないので、城下に行き購入することになるとは思いますが……」


「あれ?でももうお店開いてないと思うんだけど」



 もう遅い時間な事もあって、そうした店は営業が終わっているはずだ。

 もはや酒場やそうした店のみの営業時間となっている。



「……なんとか開けてもらい、購入して参ります」



 納得だ。

 だがこんなことで権力を使うのも躊躇われる、なので当然アインの返事は——。



「それも悪いからやめとくよ。今日はバスローブでも羽織って休もうかな、それなら俺も着られるよね?」


「当然ご用意がありますが……よろしいのですか?」


「肌触りもいいし、俺は気にしないよ。だから明日の朝着られるように、なにか服を1,2着ぐらい用意しといてくれれば嬉しいかな」


「畏まりました。では朝一で用意するよう致します」



 バスローブなんてゆったりしすぎているが、現状を打開するにはそれが向いているはずだ。

 ……と、会話をしているうちにアインの部屋へと到着する。



「それではアイン様。私は新しいバスローブを持って参りますので、一端失礼致します」


「うん。部屋で待ってるね」



 そうしてマーサは一度離れていくが、アインは自室のドアを開けて、クローネのクリスを中へと通す。



「はいどうぞ」


「えぇ、ありがとうアイン」


「も、申し訳ありませんっ……!護衛の身でそのようなことを……」



 アインにドアを開けさせたこと、クリスはそれを謝罪する。



「いいからクリスも入って。ほらほら」



 軽く背中を押されて中に入るクリス。そうすると慌てた様子ながらも素直に従うので、やはり彼女は強引にされると弱いのだろう。



「アイン様。お待たせいたしました」


「って早すぎでしょマーサさん」



 マーサが離れていって数十秒程度しか経っていない。

 それだというのに、彼女の手の上には大きめのバスローブ。丁寧に洗濯され、陽の光と浴びて乾かされたそれは、ふわっと分厚く折りたたまれている。



「窮屈そうでしたので、少し急いで参りました」


「……それにしても早い。いやでもありがと、おかげで助かるよ」



 この数十秒で仕事を済ませて戻ってきた、その割には息が切れてないのをみると、マーサも実は強いのかもしれない、そんな感想を抱く。



「とんでもございません。ではお食事等をお持ちしますので、お部屋でお待ちくださいませ」



 マーサはそう言うと、もう一度アインの側を離れていく。



「……時折考えさせられます。マーサ殿は、私よりも速いのではないかと」


「クリスより速い……うん。ないと思うけど、でも城内だけだともしかするかもね……」




 *




 さすがに、料理に関しては時間が必要だったようで、なんだかんだと半刻程待ったらマーサが戻ってきた。そしてテーブルに広げられた、多くの料理を堪能した三人は、食後の茶を飲みながら会話を楽しんでいた。



「ねぇ、アイン?」


「んー?どうしたの?」



 ソファに座ってリラックスしていると、クローネがアインを見て尋ねる。



「髪の毛って、切っちゃうの?」


「そりゃ切るけど……。だって邪魔だし」


「ア、アイン様?本当に切るのですか……?」



 アインの座るソファ、その向かい側に二人が腰かけているのだが、その返事を聞いたクリスが残念そうに語った。



「なんだか勿体なく思っちゃいますね」


「そうですよねクリスさん。せっかくこんなに綺麗なのに……少し触ってみてもいい?」



 するとアインの返事を待たずに、クローネが立ち上がってアインの隣に座る。



「まだいいって言ってないんだけど」


「そうね。でもいいでしょ?減るものじゃないんだから」



 ——ならどうして聞いたんだ。



 とはいえ、アインもそれぐらい許すつもりだった。

 だからクローネが隣に腰かけても、そのことを咎めることはなかったのだが。



「まぁ……いいんだけどさ」


「ふふ。それじゃ失礼しますね」



 そして手を伸ばしたクローネが、アインの長い髪に触れた。

 最初はその手触りを楽しんでいたようだが、徐々にクローネの表情が変わっていく。



「え、嘘……ちょっと待って、本当に……?」



 驚きに染まる彼女をみると、一体何を考えてるのかが気になってしょうがない。



「クローネさん?どうされたんですか?」



 アイン同様、どうしたのかと気になっていたクリス。アインよりも先に口を開き、何があったのかと尋ねた。



「……少し待ってくださいね?」



 クリスにそう返事をすると、クローネは咄嗟に自分の髪に手を伸ばした。

 よく手入れのされた、絹糸の様なシルバーブルーの髪。それをアインにしたように上から下へと、手触りを確認するように触れていく。



「嘘……」


「クローネ……?さっきから嘘って、何が嘘なの?」



 とうとう痺れを切らしたアイン。呆然としているクローネへと、追い打ちをかけるように声をかける。



「ごめんねアイン。少し待っててね?……クリスさん、反対側に来てアインの髪を触ってみてください」


「は、はい。良く分かりませんけど分かりました……」



 アインに対しての返事は保留に、クローネは自分の反対側へとクリスを呼ぶ。



「こう、上の方から毛先まで……ゆっくり触ってみてください」



 触れ方を教えるかのように、クローネがクリスの前で、アインの髪に触れる。



「——わかりました。ではアイン様、私もよろしいでしょうか?」


「うん。別に触ってもいいけど……」



 だからこの髪がなんなんだ、と。

 わざわざクリスを呼んでまで触らせたことの意味がわからない。



「……」



 アインの右肩の方に座ったクリスが、優しくアインの髪に手を伸ばす。

 腰まで伸びたアインの髪は、マーサから受け取った紐で結われているとはいえ、それでもソファに乗るほどの長さがある。



「えっと、黙って触られると恥ずかしいんだけど」



 クリスも最初は不思議そうに手を伸ばしていたというのに、途中からクローネのように様子が変わる。

 表情が強張(こわば)り始めて、声を掛けづらい雰囲気がその場に漂っていく。



「クローネさん」


「……はい」


「嘘じゃない……ですね」



 アインを挟んで二人が会話をする。



「残念ですけど。本当の事みたいです」



 そうして会話をしながら、二人は納得したように頷いた。



「さっきから嘘とか本当とかって、二人して何を納得してるんですかね……」


「……わかったわ。それじゃアイン、こっちに手を貸して?」



 左手を差し出すクローネは、目で早くしろと訴えかける。



「ほら早く。実際に確かめてもらう方が早いの」



 アインが手を差し出しかけたところで、クローネが素早くその手を取った。

 肌艶のいい彼女の手は、ただ触れ合ってるだけでも心地よく感じる。



「はい、ここよ?下の方まで触っていいから、ちゃんと確認して?」



 アインの手は、クローネの後頭部近くに持っていかれ、そして髪を触ってみろと彼女は言った。



「……うん。いつも通り、サラサラで綺麗な髪だと思うけど」



 相も変わらず手触りがいい。

 クローネが丁寧に整えている。そのことが良く分かる、いつまでも触っていたくなるような手触りをしていた。



「私だって頑張ってるもの。……それじゃ、次に自分の髪も触ってみて」



 ならクローネの頭から手を放して……と、そう思っていたアインだが。その手はクローネによって止められて、離すことができなかった。そのため反対側の手を使って、自分の髪を触りはじめる。



「触ってるけど。……え?それでどうすればいいの?」


「……それだけ?何か考えたりしないの?」



 不満そうにする彼女を見て、アインは、更にその手の感触へと気持ちを向ける。



「え、えっと」



 ——わからん。



 はっきり言って、クローネが言いたいことがまだわからない。

 お互いの髪を触りあってみたが、彼女の考えていることが未だ理解できなかった。



「……もう!私が思ったのはね、アインに髪の毛が負けた……そういうことなの!」



 少しばかり頬を染めて、恥ずかしそうに口にする。



「負けた?」


「あの、アイン様。私たちも女性ですので、そうしたことには敏感というか……」



 するとクリスまで恥ずかしそうな表情となって、顔を隠すように口にした。



「手触りとか、ツヤとか!……今日のアインには、負けたって思わされたの!」


「……そんなことないでしょ」


「あるの!ほらもう一度触ってみて?」



 もう一度も何も、手を置いたままなのでそれを動かすだけだ。

 だがその指示に従って、素直に上から下へと手をスライドさせる。



「……うん。クローネの方がサラサラだと思うけど」



 お世辞でなければ、嘘でもない。

 純粋にアインはそう思ったので、今だ不思議そうな顔でそう返事をする。



「その、アイン様?私のはどう……でしょうか?」



 クリスがそう言って、頭を差し出すように近づいてくる。



 ——つまり触って確かめろと?



 クリスには、こうして撫でるような機会はなかったので、少しばかり新鮮だ。



「……それじゃ失礼して」



 一本一本が金糸の様な、煌いているクリスの髪。

 そこに手を伸ばしてみると、クローネに触れた時と同じように、柔らか且つ滑らかな手触り。そして一瞬も引っ掛かることもなく、毛先までスムーズにたどり着く。



「確認したけど、クリスの髪も俺なんかより全然手触りいいよ」


「あ、ありがとうございます……っ!っじゃなくて、そうじゃないんです!だからアイン様の方が髪が綺麗なんで、それで敗北感がですね……?」



 クローネの時同様に、これも純粋な感想だった。



「だからねアイン。負けてるのは悔しいけど、それだけ綺麗な髪の毛なんだから、切っちゃうのも勿体ないと思うの」


「そ……そうですそうです!せっかくこれほど美しいのですから、伸ばしておいてもいいのでは……?」


「い、いやぁ。さすがにこの長さでずっとってのは厳しいかな」



 腰まで届くほどの長さだと、手入れだけでも一苦労だ。

 オリビアやクローネ、そしてクリス達のように、丁寧に手入れをしている女性は多い。しかしながら、今までそんなことはしてこなかったアインとしてみれば、あまりそうした苦労はしたくない。



「でしたら肩甲骨程の長さなら……」


「それも面倒かなー……」



 自分の背中に手を当てて、肩甲骨だとこれぐらいか……と長さを確認した。

 やはりそれでも長すぎる。あまりその長さでいたくない。



「わかったわアイン、ならこうしましょう。肩甲骨ぐらいの長さにするか、肩ぐらいの長さにするか……どっちにする?」


「まぁ、その二つなら肩ぐらいだけど……」



 その返事を聞いて、クローネが満面の笑みを浮かべた。



「言質とったからね?それじゃ肩より短くしないでね」


「……いやいや。そのどちらかならって意味じゃ——」


「アイン様?その……肩ぐらいの長さも、楽しみにしてますね?」



 外堀が埋められ始めた気がするが、アインとしても肩ぐらいなら……と妥協ができないわけじゃない。

 普段二人には苦労をかけてる分、こうしたところでお願いを聞くぐらい安いものだった。




 *




 アインにクローネ、そしてクリスの三人。その三人は長い時間会話を楽しみ、そしていつもはしない、遅い時間までの夜更かしをしてしまった。

 ふと目を覚ましたアイン。昨晩はいつ寝てしまったのか、それどころか最後の方は何を話してたのかも思い出せない。



 寝起きで頭が働き切っておらず、寝ぼけた頭を起こす必要があった。



「ソファで寝ちゃってたのか……。えっと、今何時だろ」



 時計を見るため、身体を起こそうとする。

 ソファで寝てしまっていたようで、どうにも体が強張ってしょうがない。



「あ、あれ?二人ともどうして……」



 身体が動かない。そう思って自分の周囲を見てみると、どうして動かなかったのか……その理由を目にすることができた。

 アインの膝の上にはクリスが。そして肩には、クローネが寄り添って穏やかな吐息を漏らしている。



「すー……すー……」


「ア、アインしゃま……だめです……吸うならもっと優しく……っ」



 膝の上のクリスは、一体どんな夢を見ているのか。頑なに吸わせようとする姿勢はもはや表彰モノだ。



「だから吸わないって何度も言ってるだろ……」



 クリスの寝言にツッコミをいれて、どうしてこうなったのか……昨晩なにがあったのかを必死に思い返す。

 髪の毛がどうのと会話をして、その後は皆自分の席に戻ったはずだが、それから世間話をしてからの記憶がない。



 ——駄目だ。



 寝起きでどうにも頭が働かない。一度水でも飲んで体を起こそう……そう思ったのだが。



「ど、どうやって立てばいいんだ」



 二人がアインに寄り添って寝ている現状、どうやってここから抜け出せばいいのか悩み始めるアイン。

 給仕を呼ぶためのベルは机の上で、当然ながら手が届く距離にはない。



「マ、マーサさーん……っ?」



 大きなささやき声のような音で、アインはそう口に出した。こんな声でマーサが来るとは思えない、だがこうでもしなければやってられなかった。



「起こすのもかわいそうだし……ど、どうしよう」



 なるべく体を動かさないように、どうしたものかとアインは脳を働かせる。数十秒間それを考え続けていると、まさに予想してなかったことが起こった。



「おはようございます。お呼びですかアイン様?」


「マーサさん超すげえ……」



 ただの大きなささやき声。それを聞いてやってきたのかと思うと、マーサは本当に人なのかという疑いすら覚える。

 いつものように部屋に入ってきたマーサ。急いでやってきたのだが、この状況は彼女にとっても想定外の状況だった。



「どのようなご用件……です……か……っ!?」



 顔を上げたマーサがアインの周囲を見てしまった。それは二人の女性に寄り添われているアインの姿で、まさかこんな状況になってるとは思いもしなかったのだから。



「……失礼ですがアイン様。一つ申し上げてもよろしいでしょうか……?」


「な、なんでしょうか?」



 二人とも静かに会話をして、寝ているクローネとクリスが起きないようにと気を使う。引き攣った笑顔を浮かべるマーサが、これまた引き攣った声でアインに尋ねはじめる。



「そ、その……将来の第一王妃様は、始めにお決めになるべきかと……。アイン様が差を付けたくないとお考えでも、やはり臣民は不安に思います。なので、どうかお覚悟をしてですね……」


「違う。ものすごい勘違いをしてる……」


「い、いえその……私共使用人としては大歓迎なのですよ?王妃様ともなれば、数人は居て当然のことですから。いえ!陛下達に不満がある訳ではないのですが、臣下としてはそのほうが安心できるといいますか……」



 アインの言葉は耳に届かなかったようだ。マーサは誤解したまま話続け、まるで早口のように言葉を紡ぎ続ける。



「ですが私は臣下として。そして、長年アイン様を見守ってきた身としてはとても安心です。なにせお相手がそのお二人なら、皆がもろ手を挙げて歓迎、そして応援すると思いますので……」


「ごめんマーサさん話聞いて、ねえってば」


「では……その、ごゆっくりどうぞ。何かご入用の"モノ"があればお呼びくださいっ……!」



 マーサはそう言うと、足早にアインの部屋を出ていってしまった。とても大きな誤解をしたまま出て行ったマーサは、出ていく際になにやらブツブツ口にしながらその場を離れていった。



「えぇー……呼んだのに行っちゃったよ……」



 どうしたものかと考え始め、アインは少しずつ身体をもぞもぞと動かし始めたのだった。




 *




 脱出方法としては、身体をずらしながら、クリスの頭にクッションを挟んで枕にする。その後はゆっくりとクローネの身体を倒して、ソファの上に寝かせてきた。

 二人とも風邪をひかないようにと、一枚ずつ、布団をかけるという気遣い付きだ。



「でも、着替えを置いていってくれたのは助かった」



 立ち去っていったマーサだったが、昨晩アインが頼んでおいた着替えは用意していた。

 シャツにズボンのシンプルなものだったが、肌触りや布地の厚さを見るに、ただの安物ではないように見える。



「……誰かいるかな」



 テーブルの上には、『訓練場で体を動かしてくる』と書置きをしていった。

 昨晩は多くの疲れもあってか、ソファの上で寝落ちしてしまったアインだが、少し経つと、無性に訓練をしたいという衝動に駆られていた。



「マルコさんの影響だろうなぁ……」



 あれ程の騎士は他にはいない。その生き方には敬意を覚え、そして男としての憧れすら感じさせられた。

 その生涯を魔王領(イシュタリカ)に捧げ、他の皆が居なくなっても、ただ一人でその地を守り続けてきた。

 そんなまさに騎士の中の騎士、それがマルコという男。



 アインは熾烈な戦いの末に勝つことができたが、そのマルコに勝った自分が弱くてはいけない。そうしたことを考えていた。



「——っ……!ふっ……!」



 訓練場に足を踏み入れると、剣が空を切る音が聞こえ、誰かが訓練中とアインが気が付く。



「誰かいるのかな」



 時刻は先程、朝五時を過ぎたばかり。

 そのため人が居るとは思えなかったが、どうやらもう訓練を始めている騎士がいるようだった。



 訓練用の防具、それが置かれている場所に向かい、自分に合ったものを探すアイン。

 そして使いやすそうな剣を手に取り、すぐにその足で訓練中の騎士の許へと向かった。



「……ディル?」



 そこにいた騎士はディル。

 汗だくになりながらも、ただ黙々と素振りを繰り返していた。



「っ……ア、アイン様?どうしてこのような時間にっ!?」



 アインの声に気が付いたディルは、その素振りを止めて、アインの近くに進んでくる。



「あー、うん。なんか目が覚めちゃって」



 部屋であった事は伏せて置き、目が覚めたことだけを口にする。



「なるほど、そうした理由でしたか。ではアイン様も訓練にいらしたのですね?」


「そうだよ。だけど時間が早いからさ、まだ誰もいないと思ってたんだよね」


「はははっ……確かに、いつもなら誰もいないような時間ですから」



 朝6時もすぎれば、徐々に人が出入りしてくる。だからまだ、時間としては1時間程早かった。



「ところでアイン様。お一人で訓練をなさるおつもりだったのでしょうか?」


「まぁ誰もいないだろうって思ってたから、そうなるだろうなとは……」


「……でしたら」



 若干疲れていたディルが、居を正してアインを見つめる。



「私が、アイン様のお相手をさせていただいても……よろしいでしょうか?」



 思えば最近は、ディルと剣を交わす機会は無かった。

 もっぱら他の近衛騎士やロイド、あるいはクリス達だけだった気がする。



「そういえば、ディルと立ち会うのもしばらく無かったね」


「そうなりますね。なので、もしアイン様がよろしければ……」



 勿論アインの返事は是となる。



「こちらこそお願いしたいぐらいだよ。だから、久しぶりに立ち会おうか」


「あ、ありがとうございますっ!」



 勢いよく頭を下げて、アインに対して礼をする。



「少し待ってね。準備運動するから」


「えぇ、畏まりました。では私も少し汗を拭いてますね」



 どれぐらい前から剣を振っていたのだろう?

 ディルの額や首筋、そして腕には多くの汗の跡が残っていた。こんな時間で、すでにこの量の汗だ。たかが数分前から剣を振っていた、そんなことはあり得ない。



 ディルがどれほどの時間、剣を振っていたのか。それが気になっていたアインだったが、ディルを待たせない為にも、手早く準備運動をする。



「……アイン様。一つお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」



 身体を伸ばしていたアインへと、ディルがそっと話しかける。



「いいけど。どうしたの?」


「立ち会う際に、一つ是非していただきたいことがありまして……」



 一体これから剣を交わすときに、何を自分に頼みたいのか。

 アインはディルの次の言葉を待っていた。



「……マルコ殿と戦っていた時のように、アイン様のお力を私に見せて頂きたいのです」


「それってその、昨日みたいに……ってことだよね?」



 時間にすれば、ほぼ丸一日前の事だ。

 昨日の今頃、アインはマルコとの一騎打ちをしていた。



「左様でございます。どうか、今のアイン様との距離を教えて頂きたいのです」



 当たり前のことだが、アインには自惚れる気なんてものはない。アインとしても、昨日のように剣を振るえるならば好ましい。



「——わかった。今の俺ができることを、全部ディルに見せることにする」


「ありがとうございますっ!護衛の身分で、こうしたことを申し上げるのは無礼なのですが……」


「そんなの気にしてないし、ただの護衛じゃないよ、ディルは。……よしっと、準備運動も終わり!」



 なるべく早く終わるようにと、準備運動をした。それでも怪我をしないようにと、アインなりに丁寧に行ったのだが。

 そしてその準備運動が終わったため、アインそのことをディルに告げる。



「では私が向かい側に参りますので、アイン様はここでお待ちください」



 するとディルが、アインの反対側に向かって歩く。

 しかしこの場には二人しか居ないため、審判を務められるような者は居ない。なのでお互いのタイミングで、この立ち合いを進めるしかない。



「アイン様。胸をお借りします……!先手は私がしてもよろしいでしょうか?」


「あぁ。いつでもいいよ」



 剣を握ると、自然と気が引き締まる。

 昨日のマルコとの一騎打ちとは違うが、それでも特別な緊張感を感じてしまう。



「では……ふっ!」



 ディルが先手を取り、アインの近くに進み始める。

 当たり前だが、ディルも動きは速い。ロイドの様な力を主にした剣ではないが、それでも力強さに溢れている。



 ——ギィン!



 二人の剣がぶつかり合う音が響いた。



「参りますっ……!」



 ディルの場合は、あまり鍔迫り合いをする剣を使わない。流すように相手を翻弄するのだ。

 そのためマルコとは違い、独特の立ち回りでアインに立ち向かっていく。



「その流れには、持っていかせない……っ!」



 アインは、ディルが戦いやすい流れとならないよう、その流れを断ち切るために剣を振る。



「——っ!?」



 上の方から叩き落され、ディルの腕が一瞬力を失う。

 力押しで流れを断ち切られた。そんなことはなく、アインの目と剣筋が見せる一つの技だった。



「ま、まだっ……!」



 下半身に力を入れて、ディルがもう一度流れを引き戻そうとする。

 懸命に動かされたその身体も、その思いが果たされることは無かった。



「駄目だ。それは俺が許さない」



 なんとかして体勢を立て直す。ディルがそうしたことを考えていると、アインがそれを許さない。

 一撃一撃が重い攻撃で追撃する。すると体勢が崩れていたディルは、徐々に立つことすら難しいほどに、身体の動きを支配されていった。



「(っ……なんだこれ、身体を自由に動かさせてもらえない……!?)」



 身体を前に進めようとすれば、そうすると重心が崩れるように案内される。

 剣を振り上げようとでもすると、その力すらも利用されて攻撃が重なる。



「(俺自身の立ち回りですら、支配されていってる……!)」



 意思を強く持ち、アインの一振り一振りに対抗する。

 ある時は体をぶつけるように、そしてまたある時は、アインを翻弄するために変則的に。



「っ……はぁっ!」



 ディルが身体を完全に崩した。もはや強く防御ができない……そんな状況となった瞬間、アインが大きく剣を振り上げる。



「そ、それはっ……くっ、あ……!」



 剣を横に構えて、アインの一撃を耐えきろうとする。

 しかし下半身に力が入らず、上半身だけでは、その力強い一撃には対抗できない。



 大きな衝撃音を立てて、ディルはその勢いによって尻もちをつかされた。



「はっ……はぁっ……はぁっ……ま、参りました」



 結局のところ、自分ができたのは先手の攻撃のみ。

 その後はアインに翻弄され続け、戦いの流れですら支配されていたように思える。



 一振り一振りが決着に近づき、着実にディルを追い詰めていたのだから。



 ……アインは剣をディルの手前で止めて、すぐにそれを下げていった。



「(これが今のアイン様との距離、か)」



 俯くように地面を見て、ディルはそんなことを考えていた。

 それはしばらくの間続き、アインは何かあったのかと不安に思い、ディルに向かって不安そうに声を掛ける。



「ディ、ディル?大丈夫……?その、どこか怪我したりとか」



 こうして黙り込んでいたことに気が付き、アインを心配させてしまったことを後悔した。

 相手をしてもらったというのに、こんな体たらくでは情けない、と。



「も、申し訳ありませんっ!アイン様のおかげで、色々と分かったことがあったといいますか……」



 勢いよく立ち上がり、アインに向かって身振り手振りでそう答える。



「ほんと?無理してない……よね?」


「とんでもございません!ただその、どうすればいいのかもわかったので……アイン様のおかげで、頑張れそうです」


「う、うん?えっとそれって」



 晴れやかな顔で、ディルがアインにこう語った。



「……マルコ殿には負けていられない。そう思わされたのです」



 吹っ切れた。その一言が似合う程、ディルは晴れ晴れとした顔でそう口にしたのだった。




 *




 その後も何度か剣を交わし、アインも多くの汗をかいた。

 アインとしても、昨日の経験を思い出すため、ディルとの立ち合いは貴重な時間となった。



 そしてそろそろ訓練所に人が来る、その時間になってから、アインは訓練所を後にする。

 として隣接している浴場でシャワーを浴び、訓練で生じた汗を流す。



 一方、ディルはまだ訓練を続けるとのことだったので、アインは無理はしないでと言葉を残し、その場を後にする。



「やっぱり、目も良くなってる気がする」



 マルコとの戦いのとき、魔王化が始まった途端に力が湧いてきたのを感じた。

 ただ腕力が強化されたとかではなく、"生物"としての格が上がったかのような感覚だ。



 一挙一動が良く確認でき、踏み込む際の親指一本ですら力強く。そして考え方にも違いが……っと、これはカインの指導の賜物だろうか。



「ねぇ二人とも。いろいろと教えてほしいんだけど……?」



 実は王都に戻るときの水列車。その車内でも何度か念じたことがあった。

 だが、うんともすんとも言わず、それどころか夢の世界で出会えることもなかった。



「会う気が無いのか、それとも今は会えないのか……」



 魔王領でのことだけでなく、自分の身体についても相談したかった。

 だが、この思い通りにいかない感じが、それなりに歯がゆく感じてしまう。



「死んだ相手を頼る。その考え自体が間違いかもしれないけどさ」



 最後に一度ため息をつき、部屋に向かって歩くアイン。

 二人はどうしてるだろうか。もう目を覚ましただろうか?それともまだ寝てる?……もし寝ていたらどうしよう。



「まぁ、うん。別に後ろめたいことがあるわけじゃないし」



 誰に言い訳するわけでもなく、ただそうして呟いた。



「おぉアイン様!このような所でこのようなお時間に出会うとは」


「あれ?ウォーレンさん、早いね」



 アインが歩くのは、城門のうちとはいえ城の外。

 いくつかの専門施設が立ち並ぶ場所で、珍しくウォーレンとすれ違った。



「おはようございます。早いといえばアイン様もですが……いやはや、これほど凛々しくなられては、私も少しばかり困惑してしまいますな」



 城に戻ってから、ウォーレンとゆっくりと会話する時間は無かった。

 そのためウォーレンとしても、いつもと違ったアインと顔を合わせると、やはり困惑してしまう。



「あとで髪の毛は切るけどね。でも容姿は変えられないから、こればかりは慣れてもらうしか……」



 こうしてウォーレンに言葉を伝えながらも、アインはふと疑問に思う。



「そういえば、ウォーレンさん。どうしてこんなところに?」



 ウォーレンの出勤は早い。仕事量が多いという事もあるが、彼はその仕事が少なかろうとも、毎日騎士より早く城に足を運ぶ。



「最近は来年のことについて、少し調整作業もしておりまして。その事でいくつかの部署を周っております」


「来年?何かあるの」


「マグナの件でございます。アイン様にも行っていただくとは思いますが、マグナは調査できる場所が限られております。ですので主に代表として……そのために向かっていただくこととなりますが」



 つまり、アインにはあまりするべき仕事がない。ウォーレンはそう口にした。



「あー……まぁ確かに、でもやれるだけのことはやってくるよ。それで、時期はいつ頃に行けそう?」



 まだ夏にもなってないのに、早くも来年の話。

 そう考えたこともあるが、王族の日程調整とは、面倒なことが多くある。

 護衛やその他関係各所への連絡など。万が一が無いようにするため、するべき事は多くある。



「予定としては、春頃となります。まだ先の事とはなりますが、アイン様にはそのおつもりでいてくださればと……」


「学園を卒業する前ぐらい?」


「そうなります」



 来年にはマグナの調査。

 マグナといえば、アインにとっては多くの思い出が残っている。

 初めてプリンセスオリビアで到着した場所、海龍を討伐した場所、そして初めての公務に、最後はクローネとの再会。



 そんなマグナに出向き、赤狐の調査をする。

 それを思うと、思い出を汚されたように思えて、あまりいい気分はしない。



「……わかった。それじゃ何か決まったら、すぐに連絡貰えると嬉しい」


「えぇ、承知しております」



 小さく微笑み、ウォーレンがそう口にした。



「さてさて、マグナはどんな調査になるかな……」



 赤狐の件は気分が良くない。しかし、マグナに向かう事自体は楽しみだった。

 今度の旅は、どんなことが待っているのだろう。アインはそのことに期待をして、赤狐に対する不快感をかき消していくのだった。



「ではアイン様。私はこれで」


「うん。教えてくれてありがと、それじゃ」



 仕事に向かうウォーレンを見送って、アインはどうしようかと考え始める。



「今日はなにしよ……お爺様に報告もだけど、一応、報告書みたいにまとめておこうかな」



 旧魔王領関連の資料。当たり前だが、シルヴァードにしか見せない内容となるが、用意しておくことは悪くない。

 アインはそのことを考えながら、自室へと足を進めるのだった。



「それじゃ、今日も頑張ろう」



 朝日が昇り始めた王都の景色は、今日も晴れやかで美しかった。



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