たまにはこんな日があってもいい。
——……アインがロイドたちと別れて調査に向かい、何事もなく宿に戻った日の事だ。
補佐官のクローネは多くの仕事を抱えており、寝る時間が無いほど仕事に追われていた。
「だから、俺も手伝うってば」
宿に戻ってきたアインから、いくらかの報告を受けて、いつも通りアインと夕食をとった後の事。
突如として運び込まれた多くの仕事に、さすがのクローネも口をひくつかせてしまった。
「馬鹿な事言わないで……アインは明日に備えて、きちんと休んで」
すでに0時を過ぎて、普通なら仕事なんて無いはずだった。
だというのに、テーブルの上には山となった紙の束。それはつまり、クローネがまだ休めないことの証明。
「いやいや……明日別に用事ないでしょ?だってロイドさん達だってまだ帰ってこないんだし」
休暇のようなもので、特別何か用事があるということはなかった。だがそれはアインだけの話であり、まとめ役をしているクローネにとっては、あまり関係のない話。
「何があるか分からないでしょ?だからアインは、しっかりと休む必要があるの……ね?」
「それいったらクローネも一緒だと思うんだけど……ほら、一緒にやればすぐ終わるからさ」
お互いの事を思っての事だったが、両者共に引く気はなかった。
立場の事などを考えれば、もちろんクローネの考えが正しい。だがしかし、アインがそう簡単に納得できるわけがない。
「だーめ。アインにはアインの仕事があって、私には私の仕事があるでしょ?」
「言ってることは分かってるんだってば。だけど臨機応変に変えていけばいいって思うんだけど」
クローネとしても、アインが頑固なのはよく理解している。
そしてこれだけの仕事が溜まってしまえば、彼が手伝うと言ってくるのもわかっていた。
「……私の事、信用してくれないの?」
あまりこうしたことは言いたくなかったが、自分の能力をもう少し信じてほしいと思ってしまう。
今まで多くの努力を重ねて、この補佐官という地位にまで来ることができたのだから。
「信用してるけど。でもそれとは別問題でしょ?だってこれはさすがに……」
確かにかなりの仕事量だ。紙の山なんて、そう簡単に終わる量じゃないのはクローネも理解している。
だがそれでも、これは自分の仕事だと譲らない。
——……その後も似たようなやり取りを繰り返した。結局アインが引くことになり、不満そうにしながらも、自室に戻っていったのを確認したクローネ。アインが休みにいったのを見て、彼女も仕事を開始したのだった。
*
「はぁ……今何時かしら」
連れてきた給仕や研究者。ウォーレンへと届ける情報の全てが、クローネの確認を必要とする。調査団のリーダーがアインということもあり、補佐官の彼女が確認するのが義務だった。
「3時……。それにしても本当に終わりがみえないのね……」
目の前に積まれた紙の山。アインもこれを見て『手伝う』と口にしたのだが、それはクローネのプライドが許さない。補佐官の自分が、主君に助けてもらうなんて以(もっ)ての外だ。
力のない瞳でその山を見ると、数時間仕事に付きっ切りだったというのに、全くその山が減った気がしない。
「とりあえず、
もうすぐ調査期間も終わる。およそ一か月間設けられたこのバルトの調査も、とりあえず一区切りつくことになる。
すると一同は王都へと戻る。そうなればウォーレンへの報告が待っているため、何があってもそれに遅れることは許されない。
クローネが考える最悪のケースは、そうした気のゆるみからの解任だ。それはなんとしても避けねばならない。
直接関係のあることではないが、ムートンへとオーガスト商会を繋ぐ作業も終了した。今手元にあるのは、その事細やかな契約内容の書類。王太子の予算が動くため、その内容も補佐官が確認する必要がある。
見落としが無いように一つ一つ丁寧に目を通し、終わった仕事だろうとも気を抜くことは決してしない。
「みんな頑張ってるんだもの。こんなところで弱音なんて吐けないから」
今日の仕事は特に多かったが、それでも毎日それなりの仕事量をこなしていた。顔に疲れが出てしまうこともあったが、それは第三者にはわからないように気を付けた。
アインにバレない様に朝からシャワーを浴びたり、目の周りをケアしたりなど、見えない所で気を使っている。
そのため疲れが溜まってきたのも事実なのだ。
「……ウォーレン様だけじゃない、陛下もララルア様も……それに、お爺様だって」
名を上げた者達全てが、こうした厳しい日程だろうとも、いつでも平然とこなしている。成熟しきっていない体力と精神力が恨めしい。
とはいえ彼らは皆が熟練の者達で、長い間それを続けてきたから慣れているだけだ。決してクローネが弛(たる)んでいることもなく、これは極々当然の事。
それにいくら彼女が有能だといっても、名を出した者達と比べれば、仕事の速度が負けるのも当たり前だった。
「顔……洗ってこよう」
シャワーを浴びたら眠くなる。冷たい水で顔を洗い、気持ちを入れ替えよう。
それと温かい飲み物を入れてリラックス。そして再度この山に取り掛かろう……頬を軽くパシンと叩いて、そう心に決めた。
——……後の事はあまり覚えていない。というのも、顔を洗った後に飲み物を用意し、ソファに戻って腰を下ろしたところから記憶がないのだ。
*
「ん……っ、今……」
自分は何をしていたのか、それが一瞬分からなくなった。
ぼーっとしている頭をどうにか働かせ、現状を確認しようと必死に脳を動かす。
「あ、そうかこれってこっちの……んじゃ終わりっと」
耳元……いや、自分の上から聞こえてくるのは"彼"の声。うっすらと開けた目から見えるのは、ワイシャツにズボンというラフな格好の男の子。
さっぱりと現状が理解できなかったが、数十センチ程度の距離に、彼の顔が見えたのは簡単に理解できた。
「意外とお婆様の手伝いしてたのも役に立つもんだ」
小さな声で独り言を繰り返す彼、その声を聞いていると安心できて、例えば『今なら死神が来ても怖くない』。そんな気持ちを抱かせた。
まだはっきりとしない意識の中だが、この状況が好ましいことはよく理解できる。
「今更だけどこれって、俺のサインでもいいんだよね?……あ、うん平気か。よく見たらそう書いてあった」
右の頬を下にして、左耳が上を向いている今。
その右の頬には暖かな温もりが感じ取れる。わざわざ自分のために拵(こしら)えたかのような、絶妙な高さと硬さが嬉しい。
更にいうならば、この陽だまりの様な香りも、まるで一つの麻薬の如く鼻腔を満たす。
「まぁ間違えてたら、俺が勝手にやったっていえばいいだけだし。別に問題ないか……いけるいける」
陽気に笑う彼の声。それをずっと聞いていたくなるし、この場から離れたくないという気持ちもある。だがしかし、それ以上に起きなきゃという義務感が勝り、クローネはようやく覚醒に至り始めた。
「今、何時……?」
「あ。起きたのクローネ?……もう朝の9時かな、ゆっくり休めた?」
よく見てみれば、自分の背中には毛布が掛けられており、風邪をひかないようにという配慮が見受けられる。
「ごめんね。ほんとは部屋に連れてってあげればいいんだろうけど、勝手に部屋に入るのもさ……。ちょっと抱きかかえて、寝やすいようにはしたけど許してね」
そういって、ポンポンと頭を撫でるリズムが心地よかった。
なるほど。つまりここは彼(アイン)の膝の上であって、自分は疲れ果てて寝てしまっていた。そういうことだろう。
「……そ、それ私の仕事っ」
勢いよく起き上がりそうになった身体が、アインによって優しく抑えられる。小声で『もう少し横になってて』といわれ、その声色に抗えなかった。
「大丈夫だよ。似たような仕事したことあるし。ほら、お婆様の手伝ってたからね。やり方はわかってたから別に問題ないよ。万が一問題あったら俺がやったことだし、俺が責任取るから大丈夫」
問題無い?大ありだ。
仕事に疲れて寝落ちしてしまい、主君に仕事を肩代わりしてもらった。それのどこに問題がないといえるのだろうか。
あまりの情けなさに、気丈なクローネもうっすらと涙を浮かべてしまう。
自分は何ていった?アインにはアインの、自分には自分の仕事があるといったはずだ。
だが結局アインに手伝ってもらい、仕事を完璧にこなすことはできていない。これでは補佐官失格だ。
「……」
ペンを止めて、じっと目の前の紙を見つめるアイン。
だが彼の心は別のところにあり、それは自分の膝で休んでいるクローネの事だった。
視界の端に映る彼女の顔には、自分を責めるような表情が浮かんでいる。それを指摘してフォローしようものならば、彼女は罪悪感に苛まれることだろう。
勿論それはアインの本意ではない。ならなんて声をかければいいのか、それを考えていた。
「ねぇクローネ」
「……え、えぇ。なに……かしら」
思いだすのは彼女の言葉。
『……私の事、信用してくれないの?』という、心に強く残った台詞だ。
「俺の事、信用してくれないの?」
人を信じる、信じない。そんなことはあまり口にしたくなかったアイン。
だが"想い"だけでは安心できない、そんな気持ちは分かっていた。
「信じてるに、決まってるじゃない……」
ギュッとアインのズボンを掴みながら、絞り出した声でそう告げた。その声が届けようとする想いは、すぐそばのアインにしっかりと届いた。
「考え方の違いはあるし、全部を素直に認めるのが難しいこともわかってる。立場の事もある、だから甘えすぎるのが悪いのは分かる。でもさ……——」
クローネの頭を撫で続け、アインはそっと間を置いた。
こんなに弱ってる彼女は初めてのため、言葉に間違いはないだろうか?そう頭の中で確認を繰り返す。
「此処にいるのは俺とクローネだけ。だからいいじゃん、俺はクローネと二人で何かするのが好きだけど。クローネは嫌い?」
「っ……嫌いなわけない、もん」
『もん』なんていう語尾の彼女を見て、アインは微笑ましい表情を浮かべる。こんな少女らしい彼女の姿を見られたのが嬉しかった。
おまけに頭を丁寧に撫でることにする。照れ隠しなどのいろんな気持ちが入り混じって、こうした口調となったのだろう。
「じゃあいいと思うよ。甘えすぎて相手に負担になる、そんなことに俺達はならないよ」
それにはクローネも同意する。
二人ともそうした気遣いぐらい、容易にできるのはわかってる。
「他人は他人でいいと思う。俺はこんな王太子だし、クローネはクローネだ。……あれ、俺いい事思いついたよ」
ポンと手をたたき、何かに納得したアイン。一方アインの表情を覗き込むクローネは、いまだ覇気のない顔をしている。
「他の王族はおいといて。"ウチ"は別にしよう、クローネ?急だけど一つ決めるよ、いい?」
いつも同様に優しい声色ながらも、有無を言わさぬような強さに溢れた言葉。
その力強さに胸を高鳴らせ、『……はい』と返事をするクローネ。
「俺はクローネが居ないと困るんだ。……それと、一応聞いときたいんだけど。クローネも俺が倒れたら困るよね?」
「……心配で倒れちゃうかもしれないわ、倒れた貴方と一緒に」
随分と素直な彼女を見てると、いつもと対照的な姿が可愛らしく思えてくる。普段の彼女が可愛くないという意味ではないが、どちらかというと美しいという言葉が似合うクローネ。だからこそそう感じてしまうのだろう。
「俺も同じってことだよ。クローネが居ないと困るし、倒れちゃうと俺も心配でしょうがないんだ。だからこうしよう、今回みたいに厳しい日程が続くときは、二人で頑張ろう」
「で、でも今日だけだったの。普段から無理してたわけじゃっ……」
「朝早く起きてたのだって、たまに嘘ついてたでしょ。どれだけ一緒にいると思ってるの?あれぐらい隠されてもすぐわかるよ」
徹夜で仕事をしていたとバレていた。それを気が付かれていたことに驚くばかりだが、ここまで自分を理解してくれてることは嬉しい。
クローネとしてみれば、なかなか複雑な心境だった。
言葉が浮かんできたわけじゃないが、どうにか弁明をしようと体を動かす。
だがアインがそれを許さず、身体を起こすことを許可されない。
「もうちょっとで終わるから。もう少し休んでて」
「……うん」
どうせ起きるのを許してくれない。そんな気持ちに甘えるのはダメな事だろうか?
自問自答を繰り返したが、素直になるのが正しい気がして、とうとう彼の膝に甘えてしまう。
「たまにはカッコつけさせてよ。——……俺のクローネ、なんていったぐらいなんだしさ」
冗談じゃなく、真面目な雰囲気でそう呟いたアイン。
それは彼女の心に響き、心臓が早鐘を打ち始める。アインにそれがバレない様にと、もぞもぞと体を動かして心音を誤魔化す。
勘のいい彼には、もうバレてるかもしれない。そう思っても気恥ずかしさから、それを止めることができなかった。当然のことだが今の顔は見せられない。きっと相当だらしない顔をしてると思うから。
「ねぇ、アイン」
「んー?どうしたの?」
——……クローネは、貴方の事が大好きです。
胸の中を、その想いで満たすのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます