赤子

惶菴。

かねてより、甘露水によって栄光を我が物とする、常に瑞雲の立ち昇る地である。

故に、その噂を聞きつけた、安息を求める人々はこの地に集まり、今や大都市とまで発展した。

しかし今、瑞雲は跡形も無く姿を消した。今や、吉の兆しは何一つ無く、凶兆と呼ばれる黒龍が、その地に影を落としていた。


「これは、どうした事か」

九尾が唖然とした声で呟く。

目の前に広がっているのは、焼け落ち、炭と化した建物の数々であった。煙は収まっているが、建物の焼けた臭いが鼻を突く。人は歩いてはいるが、皆が皆、沈面としている。

それを見ていた凶鄒が、

「この様子では、到底聞き込みなど出来ないだろうな。九尾、先ずは人命救助だろうか。それとも別にあるだろうか」

と無表情のまま、九尾の指示を仰いだ。それに対し九尾は深く頷く。

「人命優先である。しかし、この状況でお主を救助に遣るのはどうも、気が引ける。お主は急ぎ、軍の者に伝えよ。蒼士」

九尾に突然呼ばれ、ぼうっとしていた蒼士は我に返る。

「蒼士、お前はこの道の先にある殿へ。あまり考えたくは無いが、あの者が気になる。儂は館の方へ行く」

「な、ちょっと待て、九尾──」

慌てて蒼士は声を掛けるも、九尾には聞こえていなかったのか、彼は本来の姿のまま、風の様に駆けていった。

また面倒事を、と頭で思いつつ、仕方なく御殿のある道を歩き出す。足元には、無残な焼跡が幾つも転がっていた。歩く度、灰が舞う。


歩いて、どれ位だろうか。

何やら、巨大な建物の焼跡が見え始めた。辛うじて留めている残骸から、御殿であった事が察せられる。だが、黒く焼け焦げたその残骸は、風でも吹けば崩落しそうな程、頼りなかった。

その前に、一人の男が立っていた。

水面に映る紅葉を写しとったかのような、見事な秋の色をした髪が、水面の如く波動を描いて揺れている。陽の光に晒され、鮮やかに輝くその衣は正に秋を体現しているかの様で、蒼士の目を惹いた。

蒼士の足音に気付いたか、男が振り向いた。何やら、金色の布に包まれた物を抱きかかえている。そして、その目は、何処と無く肌寒い冬空を思わせる、虚ろな目であった。

「丁度良い」

男は蒼士の姿を認めるや、虚ろな目を僅かに輝かせ、早足に近付いてきた。そして、手に抱きかかえていた金色の物を押し付けてくる。

「これ、貰ってくれ。俺には必要の無い物なんでな」

「何だ、出合い頭に突然。これは何なんだ」

「無欲には凶、煩悩には吉。そんな物かな。俺には無用の長物」

「何だそれは」

蒼士は男の腕を掴みながら、地に下ろした金色の物を片手で開く。そこには、安らかな寝顔をした赤子が入っていた。

蒼士は驚き、

「どういう事だこれは。お前、見ず知らずの奴に赤子を渡そうってのか」

と詰問口調で男を問い詰めた。だが男は虚ろな目を宙に投げたまま、溜息一つ着くと、不満気な声を露わにする。

「開けるなよ、と言っておけば良かった」

「そういう問題じゃ無いだろう」

蒼士に突っ込まれても、男は大して気にもかけていないらしく、宙を見上げたまま呆れた口調で、

「そこの井戸で拾ったのが、俺の運の尽きか。五色の瑞光なんぞ、無視しておけば良かった」

とぶつくさ言っている。

「五色の瑞光、だと」

「瑞光が井戸から放たれていたから、拾ったら玉璽だったとか。で、実際やれば赤子って訳。煩悩しかない輩がやるものだね、これは。面倒な事だよ」

男は眠る赤子を冷ややかな目で見つめつつ、呟いた。

「これはいっそ、百々目鬼あたりにでも渡すか。貔貅の餌やりみたいだなあ」

「何をぶつぶつ言っているんだお前は。別の意味で正気か」

「正気、正気。百々目鬼を貔貅だのと言っていても、正気」

会話をする二人の傍らで、赤子は何も知らずに眠っている。その手に、何やら光る物が握られていた。蒼士がその手を解くと、光沢を持った物が赤子の手から滑り落ちた。

それは地に落ち、灰と化した地表を転がる。しかし、それは灰をその身に纏っても尚、陽の光を受けて煌々としていた。

「これは」

近付き、恐る恐る拾い上げて見ると、そこには2つの太陽が彫られた、黄金の金印があった。

それを背後で見ていた男が、その金印を目にするや、「まさか」と目の色を変えて呟いた。慌てて蒼士の元に駆け寄ると、金印を奪い取り、目を細めながら日にかざし始める。

男の、鑑定しているかの様な手の動きに疑問を抱いた蒼士は、「何をしているんだ」と訝しげに訊いた。しかし聞こえていないらしく、反応の素振りさえ見せない。

何だこいつは、と心に思いつつも黙っていると、やがて男が一言、固い声で告げた。

「まさか...こいつは此処の息子か。こいつだけ見つかったとなると、親は」

男の目線を追い、蒼士も残骸を見る。無残なまでに焼け落ち、人一人の気配すら感じさせない焼跡に、奇跡的に誰かが生き残っているとは到底思えない。

「乱れるぞ、煌菴が。さて、誰に赤子を渡したものか」

男が呟いた所で、「蒼士」と遠くから声がした。振り向くと、九尾が此方に向かってきている。それを見た男が、素早く赤子を荷の中に隠したのを、蒼士は見逃さなかった。

「蒼士。...ああ、やはりこの御殿も」

「跡形も無くなってしまった。此処の住人は、全て死に絶えた様だ」

「全てだと」

「子供も大人も、全てな。遺体は──あるわけ無いか」

何という事だ、と九尾が力無げに俯く。その姿を見つめる男の姿は、不思議と見下している様に見えた。

なら、先程隠した金印を持った赤子は一体。蒼士はそう訊こうとしたが、男の目線が黙れ、と伝えていた。それを睨みつけた、と九尾は解釈したのだろう、男に対し、

「止めぬか。その者は我等の同士であるぞ」

と声を上げ、睨めつけた。勿論、その様な意味で睨めつけている訳では無い男は、肩を竦めただけで表情は変えなかった。

赤子には、何かある。そう判断した蒼士は、敢えて知らんふりを決め込むことにした。

「この男の言う通りだ。誰も居ない。一人残らず滅んだ様だ」

「む。そうか。煌菴...その平和を願ってはいたが、その願いの虚しき事よ」

九尾の顔が曇る。その時だった。男が蒼士の腕をぐいと引っ張る。

「同士、って言ったよな。九尾、少しこの男貸してもらうよ」

「お、おい咲烏。一体何を」

「安心してくれ。無事に返すから」

訳がわからないと眉を寄せる九尾には目もくれず、男、咲烏はその外見からでは想像できない強さで蒼士を引っ張っていく。歩きすがら、小声で、

「お前、栁湶華殿を知っている様だな。と言う事は、攸も知っているな」

と問いかけてくる。その口調は厳しく、答えざるを得ないような言い方であった。

「勿論だ」

と、蒼士は素直に答えた。

「なら、丁度良い。そいつを、急ぎ攸の元へ。彼等なら欲が無い、きっとこいつの為にもなる筈」

咲烏はそういうや、荷ごと赤子を蒼士に押し付けた。

「荷ごと押し付けるな、俺に。お前が行けば良いだろう」

「生憎、俺には須弥山を霧がかった形でしか見る事が出来ない。その姿を鮮明に捉える程の無欲さは無い。攸に会うにもかなりの労力がいるんだ、お前がやった方が早い」

「そう言われても、此処からどうやって須弥山に行けば」

「見出せば須弥山は目の前に現れる。あれはこの世の中心にあり、全ての者と繋がっている。見出せばそこに須弥山はあるし、見出さなければ須弥山は遠い」

そう言われても、意味が分からん、と蒼士は荷を押し返そうとした。だが、咲烏の力は予想以上に強く、押し返す事が出来ない。それに、赤子も中にいる。無闇に押せば、中の赤子が圧迫されるのは確実だった。

結局、大人しく受け取りざるを得なかった。手に持ちながら、溜息をつく。

途端、二人の間に霧がかかる。

霧に紛れ、先程までは無かった山らしき影が見え始めた。

「言ったじゃないか」

咲烏が言う。

紛れも無く、須弥山であった。

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添水の霞 @Xib

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