御殿が、赤々と燃えていた。小福寺よりも激しく、火の手が上っている。

人々が慌てて井戸の水をかけているが、炎は収まる気配を見せず、尚も轟々と燃え盛っていた。

その中、裏口から、一人の男が蹌踉めきながら出てきた。服は焼け焦げ、皮膚は焼けただれ、煤にまみれ、其れでも尚、胸にある物を大事そうに抱きかかえ、眼は真っ直ぐに前を向いていた。

男の足は、完全に炎に晒され、見るも耐えない有様になっており、こうして歩いている事が奇跡とすら思える惨状だった。

男は、近くにあった井戸に、倒れ込む様に身を寄りかからせ、御殿の方を振り向いた。

その途端に、轟音を立てて柱が崩れ落ちる。倒れた柱は仕切りを押し潰し、尚も燃え盛る。

「ああ...儂の都が....安住の地が...」

男は悲痛な声でそう呟くと、自身がずっと抱き締めていた、黄金の絹で包まれた赤子を見る。

この惨状にも関わらず、赤子は穏やかな顔付きで寝入っていた。

男はその様子を暫く眺めていたが、意を決した様に抱き上げると、えいと井戸の中に放り込んだ。

「この子を天使軍に奪われるくらいなら...捨ててしまった方がましだ。...さらば、我が命。上殿」

赤子が永久の闇に落ち、姿を完全に消したのを見るや、男は背を向けた。そこには、尚も燃え盛る御殿があった。

「ふ、ふふふ」

御殿を見ながら、男が笑い出す。

焼け爛れた身体が、再び御殿へと歩み始めた。

「ははははは....燃えろ、燃えろ....」

男の笑いは狂気を含んでいた。ありとあらゆる物を奪われ、全てに絶望した者の顔である。

男が、大紅蓮の中へと姿を消した。途端、柱が倒れ、建物が崩落した。


「攸」

蒼士が呼ぶと、攸は「何じゃの」と振り向いた。

「俺は、正しかったのかな」

蒼士の呟きに、攸は「またそれか」と言わんばかりに、首を振った。

「昨夜から言っておろうが。それは自身の善悪、真偽を秤にかけて決めるものである」

「そう、だよな。分かっている。分かってはいるんだが」

──崔然の墓を去った蒼士は、旅籠には帰らず、真っ直ぐに須弥山へと帰った。

その旨を伝えた時、零雨は「はてな」と言わんばかりの表情をしていたが、蒼士に嘘は無いと判断したのか、

「了解だ。旅籠の方は俺から伝えておこう」

と笑顔で答えた。

そして、そのまま帰宅はしたが、どうにもあの戦が頭から離れないのである。

兵としての道を断った事を、九尾と零雨は嫌な顔一つせずに承諾した。

それが心苦しくも思えたが、同時に崔然の姿が頭から離れず、また南海木叉の横顔を思い出してしまい、兵への恐怖が沸々と沸き上がってくるのだった。

どうしても悶々と悩んでしまう。

「分かっては、いるんだ」

そう自身に言い聞かせても、言葉は自身を嘲笑うかの如く、黒霧を呼び寄せ、更に蒼士を惑わす。

蒼士が尚も考えていると、童女が廊下を走る音が聞こえた。

彼女は、「攸、攸」と叫びながら此方に向かって来る。

「なんじゃ騒々しいぞ」

攸が大声で返すと、「お客さんなのお客さん」と童女が叫ぶ。

「客、とな」

「うん。九尾と凶鄒が来たよ」

凶鄒、と聞くや、攸は僅かに顔を曇らせたが、直ぐに表情を戻し、

「お通しせえ。直ぐに参る」

と大声で告げた。

「はーい」

そう答えると童女は、玄関の方へと入り去っていった。やがて、誰かと童女が話す声が聞こえ始めた。

「やれやれ、客とな。そちらの相手もせねばな」

攸が肩を竦め、立ち上がった。

「蒼士、すまんの。儂は一旦彼等の相手をしてくるよ」

そう言うや、攸は踵を返し、戸の奥に消えた。その後すぐ、攸の声が聞こえ始めた。

何を言っているのかは不明なままだが、声調から親しい間柄であるのは分かる。

何となく、聞いているのが嫌であった。気晴らしに、と蒼士は玄関の戸を開ける。


途端、純白の毛色に染まった、身の丈八尺余りの妖狐が視界に入った。大木を眺めるその瞳は黄金に輝き、光輪にも似た荘厳さを醸し出していた。

妖狐は、足音に気が付いたのか、振り向いた。

「む、主は」

蒼士を視界に捉えるなり、妖狐は僅かに目を見開いた。その目は、姿は違いこそすれ、俗世で見ていたあの九尾と同じものであった。

「あっ、その目は」

「蒼士、と言ったかの。須弥山とは、此方の事であったか」

九尾は目を細め、白銀の尻尾を静かに振った。九本に分かれた尻尾の毛が、風を受けて波の如きうねりを見せる。

声は俗世の時とは比較にならないほど荘厳で、優雅な響きを持っていた。それがまた、美しい。

「凶鄒と共に此方へ参ったに過ぎんが、思わぬ掘り出し物かの。これは良い土産話が出来た」

九尾はさも嬉しげに目を細める。その視線はやはり、俗世の九尾のものだ。

しかし、戦を断った負い目がある。それに引け目を感じていた蒼士は、その視線を避ける為、敢えて別の話題を出した。

「凶鄒、とは。嫌な響きだが」

「ああ.....」

蒼士に訊かれるや、九尾は顔を曇らせた。

「凶鄒が気になるのか。あやつは」

そこまで言った瞬間だった。戸が開き、一人の男が歩いて来た。

歳は五十前後だろうか。顔の右側、足先が火傷か何かで爛れており、見るも耐えない有様になっている。雄々しい肉体の腰には剣を佩いているが、それも錆びている様に見える。赤い衣を羽織ってはいるが、血で染まったかのように赤黒い。

そして、右腕がこの男には無かった。無き腕の跡は肉で塞がれ、綺麗になってはいるが、剣で斬り落とされたのだ、という確信が持てるほど、周囲に生々しい傷跡が残っていた。

「凶鄒」

九尾が男の名を呼ぶ。凶鄒、と呼ばれた男は、無言で蒼士へと視線を向けた。

「こ、この男は」

「凶鄒、と言う。吉凶を視る力を備えておってな」

九尾に紹介されても、凶鄒はただ黙って蒼士を見つめていた。爛れ、窪んだ右眼が、此方を凝視している様に見える。

「凶鄒。挨拶せぬか。この者が、儂の言っていた蒼士である」

九尾に言われても凶鄒は暫く黙っていたが、ややあって口を開いた。

「紹介の通り、俺は凶鄒だ」

顔が爛れているせいか、口が開きにくいらしく、所々吃った様な話し方であった。だが、声には勇猛さがあり、将軍らしい荘厳さも兼ね備えている。

「あ、ああ」

「此方を眺めていても何も無いぞ。それとも、この躰が気になるのか」

気になっていた事を単刀直入に突かれ、蒼士は何も返せず黙り込む。

「大した事では無い。右腕は戦場に置いてきた。ただそれだけの事だ」

凶鄒は目を天空に向けながら答えた。なんでもない事のように答えてはいるが、その内に無常の念が含まれていたことを、蒼士は感じ取っていた。

「凶の兆しが見えた事を、伝えに来た。東、煌菴に凶の兆しあり、備えよ、と」

「煌菴」

蒼士の呟きには、九尾が答えた。

「此処より遥か東にある地で、古来より甘露水と呼ばれる、薬水が湧く地である。常に上空には瑞雲が立ち昇っていたのだが」

その続きは凶鄒が継いだ。

「その瑞気が突然消えたと思いきや、凶の兆しが見え始めた。何かが起こっている」

うむ、と九尾が頷く。

「儂等はこのまま、煌菴に向かう。それを伝えに来た。万一の事があれば、と思うての」

「万一?」

「凶鄒の言う凶は、只事では無いのだよ。かつて零雨もその件で瀕死の重傷を負ったことがあってな」

「そんなに、か」

三人が話している所へ、攸が姿を現す。三人を順に見つめるや、最後に蒼士の方へと向き、きっぱりと告げる。

「蒼士、煌菴に行くのじゃ」

「何...だって?」

突然の発言に蒼士は驚きを隠せず、攸を凝視する。もう、俗世など懲り懲りだ、と思っていたのだが。

断ろうとする蒼士を目で押さえ、攸は尚も告げる。

「戦には出向かなくて良い。ただ、あの地には一つの使命を帯びた者がおる。かの者に会ってくるのだ。敢えて名は出さぬが、自ずと分かるやもしれぬ」

「はあ」

「頼むぞ、九尾、凶鄒。これは儂の一つの賭けやもしれぬ」

「承知」

九尾は一つ頷くと、一声上げた。その声は、天の果まで届くかと思える程、響く声であった。

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