女の首は塩漬けにされ、縁鈴州──蒼士が最初に足を踏み入れた地を、縁鈴州と言った──に送られた。

その後直ぐに、近くの山中に埋葬すると、九尾が小福寺の僧等に説明した。

「私も同行して宜しいでしょうか」

意外にも、小福寺の僧都、崔然が自ら同行を申し出た。

「し、しかしあの寺を...この者は....」

予想外の言葉に驚きを隠せず、しどろもどろに言う九尾の言葉を崔然は「否」と遮り、

「埋葬に僧は必要でしょう。私がその役目を引き受けましょう」

と告げた。その声は有無を言わせない程に鋭く、同時に静謐の如き静けさを持っていた。

「う、うむ」

崔然の静寂の気迫に押され、流石に九尾も否とは言えず、唸りつつも遂に折れた。

自身の居場所を奪った者であるが故に、崔然が憤怒の念を見せやしないかと九尾は気を揉んでいたが、崔然はその様子を微塵にも見せず、淡々と経を読みその死を悼んだ。


崔然は最後に一つ礼拝すると、小福寺の焼跡の方へ向き直り、ぽつりと呟いた。

「今や、憂いは無し...。遂に、西方へ漕ぎ出す時が来た...」

その声は、忽ち風に融けてしまった。小福寺を見つめる崔然のその瞳は、泉の様になっていた。


その時、蒼士は小福寺の焼跡の側にいた。

全てが焼け落ち、今や残骸を留めるのみになった、且つて寺だったものが、其処にはあった。

風が吹く度、その風が、小福寺の栄光を、灰となったその記憶を、彼方へと流して行った。

「おや、君は」

背後から声をかけられ、振り向くと、崔然がそこにいた。

崔然は六十程の、小柄な僧であった。皺のある顔が、下がり始めた目尻を柔和に整えている。

崔然は一つ合掌すると、「此処に何か用かな」と蒼士に問う。

「いや、別に」

素っ気無く答えて、再び残骸を見つめる。隣に崔然が立ったのは、気配で察する事が出来た。

「物には全て、息吹有り。小福寺はその命を終え、知らぬ彼方へ還っていった。これもまた、一つの意志、一つの息吹なのだと私は思う」

崔然のあまりにも清々しい声に、蒼士は思わず崔然の方を向く。途端、崔然と目が合った。

その表情には、自身の寺を焼かれたとは思えない程、鮮明な光と柔和な笑みがあった。

汚れが一つもない瞳だ、と蒼士は思った。その瞳は、憂いに染まる蒼士の瞳では直視出来ない。

「何故...」

目を反らしながら蒼士は問う。何故、そんな瞳をするのだ、と喉元まで出かかったが、声には出ず、代わりに別の事を聞いてしまう。

「何故、そんな表情が出来る。何故、微笑む事が出来る」

崔然は微かに笑うと、小福寺の残骸を一つ、手に取った。そして愛おしげに残骸の欠片を撫でながら、微笑と共に、

「私は、漸く光をこの目で捉えた。慈悲、愛、道義。全てを象徴するその光を。そこには一片の闇も無い。ただ温和な慈悲に包まれている」

と答えた。

「...」

「私は、今まで闇を彷徨っていた。何も見えず、何も聞こえず、ただ静寂だけが支配する世界を、一人彷徨っておったのだ。この世に生を受け、物心付いた時には人としての暮らしを断ち、そして何十年もの間、永遠とも思われた闇を彷徨い、時には友として、時には敵として闇に寄り添っていた」

「──それは」

眉を寄せる蒼士に対し、崔然は再び、微笑を作ってみせた。

その笑みは、無限の微笑だった。

「遂に、私はその闇から抜けた。今は光...。憂いは全て、消えた。今度こそ、私の心に自由になって...。闇に縛られず、この先を歩んで行く」

「そうか」

蒼士はそれだけ言うと、背を向け、歩き出す。この男が、何を悟り、何を見たのか、漸く理解出来たからだった。

蒼士の背後から、崔然の言葉が聞こえた。

「人は...常に、独りなのだ」


その夜、崔然は世を去った。享年六七、服毒による自殺であった──


その事を聞いたのは、旅籠に駆け付けて来た崔然の弟子の僧からであった。

そこには零雨と九尾、蒼士がいたが、その知らせを聞くや全員が黙り込んだ。

「あの日、身の回りの整理をしておりましたが...まさか自害する覚悟であったとは....」

僧の慟哭だけが、沈黙の空間に響く。

「...そうか。この世に生を積む事よりも、死を選んでしまったか...」

九尾がその場で手を合わせた。

崔然の弟子の僧は慟哭しながら、

「泣かぬ僧は、一人とて御座いませんでした...。西方浄土で再び会おう、その時こそ、我々は笑顔で手を取ることが出来る筈だ、と言い残して自害なさいました」

と告げた。

零雨は慟哭する僧を宥め、「手厚く葬ってやれ」と静かに告げた。


蒼士は部屋の隅で、その様を見ていた。

崔然のあの微笑が、脳裏に蘇る。一片の穢れのない、仏の如き微笑。

死に行く者の微笑だ、と蒼士はあの時直感した。だからこそ、あの時何も言わずに去ったのだ。

だとしたら、戦場は──。

「蒼士、どうした」

零雨に肩を揺さぶられ、我に返る。途端に、不安を浮かべる零雨の顔が、鮮明に映った。

「具合でも悪いのか。倒れそうな顔つきしてたぞ」

「いや、大した事じゃない。崔然を思い出しただけに過ぎない」

座り直す蒼士に、少しは安堵したのか、零雨は漸く目を反らした。再び、慟哭する僧に目を向ける。

今は九尾が宥めているが、僧は床に伏したまま、全身を震わせていた。

「崔然殿の墓参りに参らねば。天使軍の仕業とはいえ、守れなかった我等にも非がある。今更謝罪したとて、どうにもならぬが」

「いいえ、誰にも非はありません。これは定めだと、崔然殿は仰いました。誰も怨んではならぬ、と」

「あの小福寺の跡はどうするつもりだ」

「残骸を撤去し、畑にせよ、と。無一文の者にのみこの畑を与えよ、と指示なさいました」

九尾はその言葉に感心したのか、「今更だが、無欲な僧よな...」と呟いた。

「ただ、手を合わせて下されば良いのです。あの方はそれすらお望みになりませんでしたが、残された僧等からの願いで御座います」

「勿論、直ぐにでも参ろう。良いな、零雨殿」

「勿論だ。断る理由なんざ無い。...蒼士はどうする」

「行かせて貰う」

蒼士は即答した。行かない理由など、無い。何より、あの微笑がこびり付いて離れないのだ。

勿論、蒼士と崔然は友情などで結ばれている訳ではない。ほんの一瞬、軽く話しただけの赤の他人に過ぎない。それでも、強烈な印象を植え付けられていた。


天使共が憎いのではない。ただ、死に行く者の言葉は、心に風穴を開けて行く。

光を見、闇を捨てた崔然は、抜殻を残して永遠に去った。

今更何を語ろうと、何も答える筈は無い。


彼の墓は、小福寺の残骸の直ぐ側、木々に隠れる様に、ひっそりと建っていた。

墓と言っても、石が数個積み重なっているだけである。その側にある小さな仏像が、物となったその抜殻、残骸と化した小福寺を、躍動感のないその躰で見守っていた。

線香の煙が、まだ細々と立ち昇っている。水受けに注がれた水も、まだ濁りの色を見せず空を鮮明に映していた。

その場に数人いた僧が、合掌した。そのうちの一人、袈裟を着けた五十代程の僧が、線香の煙を見上げながら告げる。

「墓も質素なものにせよ、と生前から口酸っぱく言われておりました。自然より恵まれた肉体は、自然に還すべきであって、還すべき時に生人が執着してはならぬと」

数人の僧が、頷いた。頷いた僧に対し、九尾は、

「お前達はどうする。もう寄るべき場所も無いであろう」

と眉を寄せつつ訊いた。僧は頷き、遠い目を何処へと向かながら答える。

「ええ、我等は、居場所を失いました。あとは各々、何処へなりとでも行こうかと思っております。桃苑殿などは崔然様と仲睦まじい様子でしたので、訳を説明すれば身寄りの無い僧も受け入れて下さるかと思われます」

其処で一旦言葉を切ると、再び九尾等の方を向いた。

その顔に悲涙を見、九尾が声をかけようとしたが、僧が首を振って言葉を断った。

そして、「お願いが御座います」と何時にも無くはっきりと告げた。

「聞こう」

「九尾殿、零雨殿。私の様な年老いた僧は、このまま何処へと去りますが、血気盛んな若者は、天使に深い怨みを持ち、崔然様の仇を討つべく兵を募り出した者もおります。...僧の道を捨て、再び俗世に還元したとは言え、崔然様、そして我々の弟子である事に代わりは無し...。どうか、彼等を宜しくお願い致します。死なれてはそれこそ、崔然様に顔向けが出来ませぬ」

「...約束しよう」

「では、私は、もう此処を離れようと思います。次会う事が無い事を祈りたいですが、もし会うのなら、戦争の無い時か、西方浄土にて会いたいものです」

僧は九尾等に手を合わせると、振り返って崔然の墓にも手を合わせた。

「時々は、参ります故。この日を決して忘れは致しませぬ」

それに合わせ、数人の僧が合掌し、南無阿弥陀仏を唱える。

念仏は空に消えてゆく。この声が何処まで届くのか、生人に知る由はない。

在るべき所へ、届くと良いが──。


一通り唱え終わった僧等は、別れを惜しんだ後、其々の方向に消えて行った。

五十代程の彼は、旅籠の道の方へと消えて行った。

その背は如何にも、淋しげであった。


「これが、戦の傷か」

蒼士はその様を、ただ黙って見つめていた。

「これは一部に過ぎぬ」

「...」

「この惨状を終焉に導く方法は、我等東洋軍が西洋軍を壊滅させる事であろう。その論は幾度となく出た。だが、上殿がお許しにならぬ」

「何故だ?」

「西洋を壊滅させるなど、それこそ天使共と同等だ、と。我等の道義心は地に堕ち、代わりに腐敗した正義が世に蔓延する。西洋の輩を見習ってはならぬ、と申された」

蒼士はただ黙って聞いていた。九尾の乾いた声が、波を持って空間に響く。

「あの輩と同等になってはならんのだ。それは則ち、東洋の死を意味する。滅亡せずとも、道徳が地に堕ちればそれは死なのだ。正義の為に戦うのでは無く、抗うのだ。あの腐敗した輩が、疲れるまで」

その言葉を黙って聞いていた零雨が、口を挟んだ。

「俺達は自ら兵になった。若気の至りかもしれんがね。あの輩にもう、この地が汚染されないように。まあ、つくづく思うけどな、志願理由が西洋臭いなと」

零雨は頭を掻くと、呆れたような笑みを見せた。嘲笑の意が、そこには含まれていた。

それにどんな意が含まれているのか蒼士には理解出来ずとも、その時に、何れ出るであろう話への察しがついた。

何時にも無く、蒼士は力強く告げた。

「俺は兵士にはならない」


南海木叉の虚しき声。

崔然の仏の如き微笑。

僧の淋しげな後姿。

全て、自ら牙を抜いた者達の姿だった。


俗世は何処までも、混沌としている。

呑まれた者達は憂いを秘め、その知らぬ道へと、一人漕いでゆく。

何れ沈む憂いから、目を背け、素知らぬ振りをして──。


力強く言う蒼士に対して、零雨と九尾は二人同時に顔を見合わせたが、ややあって笑い出した。

零雨は一つ頷くと、蒼士の肩を叩く。

「賢明な判断だよ」

九尾も頷きながら、「お前の様な物こそ、絞龍とでも言うのかもな」とさも愉快げに言うと、眉をやや寄せながら、

「兵は、無情でなければ務まらぬ。殺人を堂々とするというのは、それ相応の心の対価を支払わねばならぬ。...お前が、もし此処で兵になるなどと言い出していたら、私は怒鳴っておったぞ」

と告げた。

「だけど、一切戦わないと言うのは危険極まりない。天使共はいつ襲ってくるか、分かる訳もない。せめて身を護る程度の事はしろよ。誰かみたいに自慈だどうだ言って、命を取られたら元も子も無い」

「その程度は、言われなくてもする」

その言葉を聞くや、零雨は「分かってるなら良いんだ」と頷いた。

その時に見せた笑みは、今までに無い清々しさを放っていた。



亡き者、生きる者。

生人の話を、石で作られた仏像は、亡き者に伝達せんものとばかりに躰で聞いている様に見えた。


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