天使軍は、小福寺付近一帯を占拠し、兵士等を待ち構えていた。

天使軍の背後、止め処なく炎が上がり、熱気が周囲を包み込む。小福寺は赤々とした炎に呑まれ、その影を虚しく崩して行った。

天使軍の神々しさは目を開けるのも畏れ多い程で、背後の惨状など霞んでしまうほど輝いていた。

対するは、九尾の軍である。

九尾は、金の簪を刺し、経の書かれた黄色の衣を身に纏い、漆黒の髪と髯を胸まで伸ばした老人であった。だが目付きは妖狐の如き怪しさを見せ、狐である事を示す、頭に生えた獣耳が、牙の様に尖っていた。

その九尾が先頭に姿を現し、大喝した。

「哀れなる天使の兵ども。わざわざ死骸の堤を築きに来るとは、御苦労なことだ」

するとそれに呼応するかの様に、天使軍からも一人の兵が前へと進み出た。

白銀の鎧に身を固め、白馬に乗った女であった。身の丈程の旗を片手に、九尾を睨めつける。

「冷え粕を舐め、常に仏に媚び諂う者共が何を言うか。我々は正義の軍、十字軍より出でた神の軍である。我等に投降し、我等の神を崇めよ。そうすれば、貴様等東洋の民衆は、塗炭の苦より救われる事であろう。但し抵抗する者は容赦せぬ。一人残らず討ち果たさん」

女は声高々そうに叫ぶと、「いざ。真たる神の加護は、此処に有り」と旗を振り上げた。

それを合図に、背後に控えていた天使が一斉に九尾軍へと襲い掛かってくる。


「出撃せん。九尾、いざ参る」

九尾が馬を走らせ、呪符を手に取る。

「覇っ」

九尾が叫ぶと、呪符が九尾の周りを一回転し、再び九尾の眼前で止まったと思うと、忽ち呪符に書かれていた紋様が虚空に浮かび上がった。

紋様は九尾を覆い尽くす程となり、一つの陣となった。陣は襲い来る天使を一人残らず弾き飛ばす。

「いざ。その首、貰い受ける」

九尾の向かう先は、あの女だった。腰に挿した刀を抜き、周りの天使などものともせずに、一直線に女へと駆ける。

女も旗を両手に持ち直し、一直線に九尾へと駆けた。

長槍が届く距離になった所で、両者、高々と跳躍した。刀と旗が空中で一瞬交錯し、火花が赤々と虚空に舞った。

その途端、九尾軍の背後、赤い旗が上がった。それを合図にあちこちから旗が上がる。

「行け、我等の威光を、愚かな天使共に知らしめよ。仏の加護よ、我々を護り給え」

後ろの方から、誰かが荘厳に叫んだ。

それを期に、兵が大声を上げ、天使軍へと突撃していった。

忽ち、天使と兵が入り乱れ、その場が戦場と化す。


蒼士と南海木叉は、離れた丘の上から、その様を見ていた。

「これが...天使と鬼の戦...」

「そうじゃ。零雨等はこうして、常に戦い続けている」

「...」

最初に上がった、あの赤い旗。あれを上げたのは、紛れも無く零雨であった。

零雨等は兵を従え、背後に石の如く佇んでいる。

「何故、戦うんだ」

それは独り言であったが、南海木叉には聞こえていたらしく、「知りたいか」という答が返ってきた。

答える代わりに、南海木叉へと目を向ける。彼は穏やかな目で、戦場を眺めていた。

「知りたい様な、知りたくない様な。俺にも、分からん」

「ふふふ、根に迷い有り、心に霞あり、か」

南海木叉は愉快げに笑うと、慈悲を含んだ目つきのまま、語り始める。

「天使、奴等は西洋の者共だ。対して我等は東洋──。奴等は神の元に集い、我等は仏の元に集う。西洋の神、真たる者は、自らを絶対的正義と信じ、他の者を崇める者共を悪としておる。我々、神を信じぬ者は奴等にとっては害悪な者。だからこそ、奴等にとっては悪の蔓延する東洋を力でねじ伏せ、正義の元、悪の根源を排除しようとしておるのだ。その為には、西洋と東洋の丁度中心に位置する、一つの域を取らねばならぬ」

「西洋と東洋の、中心だと」

南海木叉は、眉を顰め、声を強張らせた蒼士の方へと、躰ごと向き直る。

「其処には、我等にとって無くてはならぬ存在が、天帝が居る。あの頂は、霊山へと通じておる」

その声は、先程までとは違い、静かで深い声であった。あの本来の姿を現した時の様な無限の美しさが、声に滲み出ている。

その時には、蒼士にも察しがついた。俗世に行く前、攸が蒼士に向けて言った、さり気ない一言を思い出したからだ。


──東に行くのだぞ。西に行っては、ならぬ──


あの時は大して気にもしていなかったが、蒼士の察しが正解ならば、そういう意味が含まれていたという事になる。

「それは」

南海木叉の視線を、瞳で受け取る。荘厳な輝きにも、今は耐える自信があった。

「須弥山じゃよ」

南海木叉はそう告げ、双方入り乱れる戦場を横目に、

「我等の聖域は、須弥山。天使共は、須弥山攻略を最大目標としておる。そこが我等東洋の総本山、もし須弥山が取られるような事があれば、我等は忽ち力を失い、東洋は西洋色に染まる事になろう」

と告げた。その目は天使の動きを追っているが、軽蔑の色を成していた。

「まあ、現段階では無理だろうがな。天使など所詮、東洋からすれば取るに足らぬ小童」

蒼士はそれには答えず、戦場へと視線を向けた。

明らかに東洋兵の数が減っており、天使軍は勢いを増している様に見えた。背後に控えていた零雨もいつの間にか消え失せており、約千騎程しか、背後にはいなかった。

先程まで先陣を駆けていた九尾はいたが、先頭を引き、今や後方付近で女と戦いを繰り広げている。

それも押されがちになっており、女の攻撃を受け止めるので精一杯になっている様に見えた。

「まずいんじゃないか。このままでは、負ける」

焦りがちに言う蒼士に対し、南海木叉は首を振り、

「百々目鬼の策だろう。恐らく何処かに引き入れるつもりだろうな。...この先は、絖江の筈だ」

と口元を歪ませながら、答えた。

「あ、そうか」

そこで蒼士も思い出した。水刧に告げていた策を使うのか、と漸く理解出来た。

その策の通りか、九尾軍はじりじりと後方へと下がっていく。寄せては離れ、寄せては離れを繰り返しているのだ。


九尾軍はそれを、半刻程繰り返していた。

次第に、背後に絖江と呼ばれる一里程の幅を持った、巨大な川が見え始める。

「くっ、川。これは叶わぬか」

九尾がさも悔しげに叫んだ。その言葉を真に捉えた女が、

「貴様の命運も此処までだ。やれ、天使達よ。この化狐の皮を剥いでやれ」

と叫んだ。

途端に九尾は女に背を向け、絖江へと駆けながら、

「やれ、策は整ったり。悟浄隊、藏岶隊、今ぞ」

と声高々に叫んだ。

すると直ぐに絖江の水面が乱れ、河の中から兵達が姿を現し、大槍を構えて天使軍へと突撃する。

「引っ掛かったな、愚かな輩め。悟浄隊、此処に有り」

漆黒の鎧に全身を包んだ男が大喝するや、絖江から更に兵達が姿を現し、天使を討つべく物凄い速さで地を駆けて行く。

不意を突かれた天使軍は策に乗せられた事を悟り、慌てて引き返そうとするものの、背後から物凄い砂埃を立てて突撃してくる軍がいた。

零雨の率いる、本隊であった。

「零雨藏岶、此処に推参。天使共、覚悟せよ。この私が来たからには、一騎たりとて逃さぬ!」


挟み撃ちに遭い、後に引けなくなった天使軍の有様は正に地獄絵図であった。

特に零雨の動き方は凄まじく、見事なまでに天使の列を掻き乱し、隙あらばあの旗を振り回し天使を蹂躪して駆ける。

飛んで逃げようにも、九尾が呪術で空間に障壁を作っており逃げる事が出来ない。

死兵となった天使軍は物凄い勢いで抗うが、数も数であり、その抵抗は虚しく戦場に散ってゆく。

女は今も、九尾と交戦していた。しかし本気を出した九尾に対し、今度は女が押され気味になっている。

その後少しして、九尾が声を大にして叫んだ。

「敵将、我が討ち取った!」

高々と上げられた長槍の先には、あの女の首が刺さっていた。


あれから一刻程経ったのか。

天使は、一人残らず討ち取られ、絖江の側には、天使の死骸が積み上げられていた。

光輪は割れてしまった物を除き、九尾軍が回収した。


先程まで戦場と化していた地は、今や天使の血に染まり、地を潤していた。

静寂に包まれた地を、蒼士と南海木叉は二人、黙って歩く。

歩く度、血が跳ねる音がする。薄暗闇の中を、砕けた光輪が僅かに照らしていた。

「これが、戦、なのか」

「そうじゃ。...だが、勘違いしないで欲しい。我等は、侵攻しているのでは無く、抗っておるのだと」

「言い訳にも、聞こえるがな」

「その通り。言い訳じゃ。そう言い、正当化しようとしておるのだ」

そう言う南海木叉の声は、如何にも寂しげであった。

「正義は、己の内にしか無いのだ。それを押し付け、正当化しようとするからこそ、其処で諍いが生じる。天使共は、正義の為に侵攻する。我々は、正義の為に抗う」

南海木叉は其処で言葉を一旦切った。一陣の風が二人の間に吹く。

その直後に、目尻に光を浮かべなから言葉を継いだ。

「儂は、つくづく思うのだよ。もう既に、人の心は地に堕ちたのだ、と。儂は、もう数え切れぬ程此処に生き、数え切れぬ程、戦を見て来た。その度に思うのだ。人は、何を教えた所で、支配階級の維持や、己の欲を果たす為にしか使わぬ。阿鼻叫喚の地獄絵図とは、この事なのだろう。かつて、道徳を再教育せよ、と申した者がおった。だが、儂は思う。無意味だと」

蒼士は頭を垂れたまま、ただ黙って南海木叉の言葉を聞いていた。彼の声には、虚しさが籠もっていた。その声を聞いていると、何も、言い返せなくなったからだ。


蒼士は天使の死骸を見る。うず高く積み上げられた死骸は、石と同じものになっていた。

もう二度と反応しない。いずれ、この死骸は土に融けてゆくだろう。それか、川に流され、塵と共に何処かに引っかかるか浮く事になる。

その考えが、虚しく感じられた。


南海木叉が、川の方を向いた。

そして、空を指差す。


「朝日だ」


其処には、普段通りの朝日があった。


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