道士


夕焼けは、赤々と血を流す。その血を、幻想的と捉える者、それが人である。血と捉えるのも、又、人である。

哀れにも、幻想を己とする者には、幻想の仕掛は見えない。

ただ、欲する処のみ。

彼方に押し流されたとて、尚、彼方を知らぬ。

其れこそ、愚かというものである。


俗世を己と見る者は、皆等しく、愚かなのだ。



此処の夕焼けも、かつて見ていた物と大差の無い夕焼けに見えた。故に、美しさも何も感じない。夕焼けは只の夕焼けにしかならない。

日頃見ていた物を注視すれば、影に溶けるかの如くひっそりと咲く華にも気付くという。だが、やはり気付かないものは、何をしても気付かない。

気付くだけの欲が、不足している可能性があった。

「やはり、綺麗だったか」

零雨が盃を手に、呟く。その顔は険しく、これから起こる事を危険視し、睨みつけている様に見えた。

「来るのか」

「これなら、多分な。全く面倒な輩だ、酒が不味くなる」

「酒飲んでないだろう」

「終わったら飲むんだよ。飲んでないとやってられん」

「何処で飲むんだ」

「此処で」

露骨に嫌な顔をした蒼士を知ってか知らずか、零雨は外の方を向いた。紅い光が、零雨を照らす。

──天使。

あの神々しい光を放った、美しき存在。

此処では、「悪」として存在する、禍々しくも、神々しいもの。

机に置かれた空の坏を見ながら、あの時見た天使を頭に描いた。

あの天使は、何処から来たのか。何故、攸を襲ったのか。不明であるが、生憎それについて問い詰める程、蒼士は天使に対して興味を持っていなかった。

これまでになく厳しい目を向ける零雨にも、正直興味は無かった。勝手に向けていれば良い、そう思っていた。

「嫌な空気だ」

零雨はそう呟くと、部屋を出て行った。が、少しして、戻ってきた。

その手には、零雨の身長よりも一回り大きい旗が握られていた。旗は鮮血を彷彿とさせる程赤く、金地で縫われた、何処かの曼荼羅の一部を切り出したかの様な模様が鮮やかに赤を彩っていた。

「それは、旗?」

蒼士が訊くと、零雨はそれを軽く振りながら「そうだ」と答えた。

旗を振る度に、赤が鮮やかに、室内に模様を作る。

「それで、どうするんだ」

「勿論、戦うのさ」

「それでか?」

怪しむ蒼士の前で、零雨が旗を横に振った。蒼士の視界が一瞬、紅に染まる。

だが、旗で戦うなど、蒼士には想像もつかない事であった。剣の様に刃がある訳でも無ければ、鎚の様に潰せるものでも無い。振り回したとて、せいぜい棒が武器になる位だ。

全く持って想像がつかず首を傾げる蒼士に対し、零雨は微笑むと、

「なあに、見りゃあ分かるって」

と旗を肩に担ぎながら返した。


その時だった。何者かの足音が、早足に此方へと近付いてくるのが聞こえた。そして、蒼士達の居る部屋の前でぴたりと止まる。

そして、小声で問いかけてくる声があった。

「零雨殿。いらっしゃいますか」

その声を聞いた零雨が、突然軍事的な目付きになった。零雨は「此処だ」と一声上げ、扉を開ける。そこでは、一人の男が方膝をつき、頭を垂れていた。

目は仮面に隠れて見えない。全身に金地の刺繍の入った外套を纏っており、それが男の奇妙さを際立たせていた。

その男は頭を垂れたまま、

「天使共が襲来した模様です。南方の空、小福寺方面に火の手が上がっております」

と静かに告げた。

零雨は大して驚いた様な様子も見せず、

「そうか。その辺りには兵糧があったな。備蓄しておいた兵糧の方はどうなっている」

と訊いた。

「事前に襲来を察知した百々目鬼殿が、密かに兵糧を灯潘坂に移動させた為に、食うに困る事は御座いませんが、太楼付近に備蓄しておいた兵糧は間に合わず、炎に呑まれた模様です」

「成る程。それで他には」

「逃げ遅れ、負傷した者が数名。今、救護隊が手当をしております。重傷者、死亡者はおりません。ただ、監視の目が薄い所を突かれたので、負傷者は更に増えると思われます」

「敵の数は」

「物見によると、およそ三万。援軍が来る様子は現段階では無いようですが、念の為見張りを続けます」

零雨は暫く黙っていたが、一つ頷いた。

「分かった。俺も出撃する。救護隊はそのまま、手当を続けろ。事前に打ち合わせた通り、九尾は二千騎の遊撃隊で東南より突撃しろ。とにかく敵を掻き回した後、敗北の振りをして絖江に退却、敵を絖江におびき寄せろ。悟浄率いる水虎隊は絖江に待機。敵が着き次第、背後から襲い掛かれ。本隊の六千騎は俺が率いる。それまで持ちこたえる様に、と九尾と悟浄に伝えよ」

「策の通りにいかない場合は」

「百々目鬼に聞け。奴なら状況を把握している筈だ」

「承知致しました、零雨殿」

男はそれだけ言うと、揺らめく様にして消えた。

男が消えるや、零雨は面倒な、でも言いたげに溜息をついた。そして、蒼士の方を振り向く。

「今のは?」

「俺の隊の忍びで、水刧っていう奴だ」

「水刧」

蒼士は呟きつつも考える。あの仮面に隠された素顔は、どの様な表情をしていたのだろうか、と。

考える蒼士を他所に、零雨はあの旗を肩に担ぐと外へと歩きだした。

「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ」

「行くって、戦うのか」

「それが俺の仕事さ。さて、早く行かないとな。でないと、六千騎がいつまで経っても動かない」

そう言い残し、零雨は外へと去っていった。廊下を踏む音が、遠ざかってゆく。

やがて、馬の嘶きが遠くから聞こえた。そして、蹄が地を踏む音が聞こえ始める。

それは遠ざかってゆき、やがて音は消えた。


再び、静寂が室内を支配する。

天使が、来たのか。

足が、外へと向いていた。

天使という存在よりも、あの旗に興味があった。赤く閃く、零雨の旗。あの赤は、何を映すのか。

廊下を出て、広間に出る。そこでは、暇になったのか、主人が椅子の上で居眠りをしており、先程までとは打って変わって平和な雰囲気がそこにはあった。

起こさないように戸を開け、暖簾を掻き分ける。途端に、血を流したかのような赤が、外一面を染めていたのが目に入った。

来たときとは打って変わって、通りには誰もおらず、全て死に絶えたかのように物音一つしなかった。

遙か先に、黒煙が立ち昇っている。

あそこに零雨は行ったのだろうか。

そう思いつつも、黒煙を見ていた時、突然背後から声が掛かった。

「出てはならぬと言われておらんのか?」

振り向くと、そこには胎泉桃の錠剤をくれた、あの男が立っていた。

「あっ、お前は」

叫びかけると、男は人差し指を自身の口に当てた。

「あまり声を出してはならんよ。大声を出すと天使より厄介な輩に気付かれる可能性があるからの」

男は悪戯っぽく笑うと、蒼士を旅籠の影に隠した。

そして自身は、軽く手を振る。一瞬後、そこには、男ではなく道士が立っていた。

「驚かんでおくれよ。化けただけなのでな」

「しかし、何故道士なんだ」

「道士は色々、優遇されておってなあ。一目、そこで見ておくと良い。面倒な輩をな」

男はそう言い、旅籠の前の道を、ふらりふらりと歩き出す。すると間も無く、蹄の音が地に響き始めた。


覗いてみると、馬に跨った集団が、土埃を立てて此方に向かってくるのが見えた。

そのうちの一人が、道士に化けた男に気付き、「おい、そこの」と叫ぶ。

集団は蒼士の隠れている場所には目もくれず、一直線に道士の所へと行き、そして止まった。

そのうちの、最も豪華な鎧を着込んだ大将らしき男が、道士に向かって足を進め、怒鳴るように告げた。

「おい、今の状況を知ってんのか。なんでこんな所をふらついていやがる」

それに対し、道士はにこやかな笑みを返し、

「旅の途中でしてね。天使が襲来しているのは知っておるが、天使共を追い払う程度の術は使えるので、こうして歩いておるだけですじゃ」

と答えた。その答えが気に食わなかったのか、男は眉を顰め、鼻を鳴らした。

「ふん、また自惚れ道士か。天使に襲われても知らんぞ」

「それはそれで、対抗するまで」

「それは困るな。やたらと対抗して、殺されでもしたら上の連中にお叱りを受ける。爺、大人しく引っ込め。さもなくば、力づくでその辺の店に閉じ込めるぞ」

道士に注意する男の口調には迫力があった。だが、道士はそれをものともせず、笑い出した。

「はっはははは....」

「何が可笑しい」

更に不機嫌さを増す男に、「いや失礼」と笑いながら道士は答えた。そして尚も笑いながら、

「全く、懐疑心の塊のような者だと思うてな。それに、この痩せ細った爺が一人死んだとて、野にさえ伏しておればそなたらの責任にはならんだろう」

と答えた。その言葉を聞くや、男はやにわに怒り出し、

「馬鹿者。この国は道士を崇める者が多い。それに我が軍の背後には道士がおられる。此処で道士をおっぽり出して、死骸を見付けられてみろ。殺したのは誰だなんだと騒がれるに決まっている。良いから、下がれ。これ以上騒ぐと、お前の口を封じるぞ」

ともはや脅迫を思わせる勢いで道士に詰め寄った。それでも道士は全く動じない。

「だから、死なぬと言っておる」

「ち、埒があかねえ。おい、お前。それだけ言うなら、呪力に自信があるんだろうな。ならば俺等と共に来い。百々目鬼様の前で、そのでかい口を叩いてみろ。拒否するならば、こうしてでも」

男が懐から縄を取り出した。同時に、複数の兵が道士を一斉に囲み、捕縛する為に手を伸ばす。

「全く、面倒な輩じゃのう。儂も対抗せねばならんようじゃ」

道士は愉快げにそう呟くと、自身の手に文様を書いた。その文様は手から浮かび上がり、紋様から立っているのも難しい程の強風が吹き荒れる。

兵が強風に耐えられずに目を閉じ、身体を伏せたところで、道士はもう一度紋様を空間に描いた。すると紋様がたちまち水龍へと变化した。龍は吹き荒ぶ風に溶け、荒れ狂う激流となり、激流は周りにいた兵を男もろとも飲み込み、旅籠の方へと押し流した。

「くっ....」

旅籠の壁に叩きつけられた男がずぶ濡れの体を起こし、道士を睨みつける。それを待っていたとばかりに、道士は手を宙に上げ、自身の姿を遂に見せた。


身の丈八尺程の、黄金に輝く、男とも女ともつかぬ者が、そこにいた。

左手には黄金に彩られた蓮の杖を持ち、右手には一丈はあるであろう白銀に輝く大斧を持っている。金銀で彩られた袈裟は、既にこの世の産物では無い、という事を示すのに、充分な美しさを持っていた。

その姿を持って、慈悲を含んだ瞳で男達を見つめるその姿は、余りにも荘厳なものであり、その場に居合わせた誰もが、畏怖の念を持った。

それを見た兵士達は、何も言わずただその場に平伏す。そうさせる程の、美しさがそこにはあったのだ。

「我は南海木叉。俗世を視察する様、天帝より仰せつかった者である」

荘厳に言い放った声に、流石の男も地を額に擦り付けたまま、身動き一つしない。

南海木叉はその男等に斧を突きつけ、「今回は多目に見る。早う失せよ」と厳しい声で言い放った。

「は、はあ」

男等はそれだけ言うと、突っ伏したままの部下を起こし、逃げるようにして立ち去っていった。

再び静寂が訪れる。

南海木叉が白銀の斧を天に掲げた。次の瞬間には、先程までの道士が立っており、ふうと溜息をついていた。

「もう出てきて良いぞ」

その言葉は、明らかに蒼士に向けられたものだ。蒼士が大人しく出てくると、南海木叉はからからと笑い出し、

「まったく、厄介な奴等じゃ。俗世に呑まれ、背後を見失っていると見える」

と、消えた男達の背を見る様にして、呟いた。

「貴方は」

「なあに、此処にいる間はただの爺じゃ。俗世の視察に訪れておってな。怪しまれん為には道士に化けるのが一番なのだよ」

そう言い、再び笑うと、ふらふらと黒煙の上る方へと歩き出す。

「何処に行くんだ」

「灯潘坂」

「灯潘坂だって?」

蒼士は思わず聞き返していた。水刧の言っていた言葉を思い出したからだ。兵糧は灯潘坂に、移動させたと言っていた。その辺りで戦が起きている可能性がある。

「灯潘坂に、戦の様子を見に行くだけじゃよ。儂も黙ってはおれんのでな」

南海木叉はそう言うと再び歩き出したが、数歩行ったところで止まり、蒼士の方を振り返った。

「お主も行くかの?」

それは危険な誘いだと、蒼士にも分かっていた。だが、それでも。

「....そうしておこう」

蒼士は、頷いていた。

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