俗世

俗世。

昔は、あれ程鬱陶しいと思えていた、俗世がそこにはある。

瓦屋根が並ぶ。人が忙しなく動いている。所々には店や寺もあり、それがまた、風景に違和感を醸し出していた。

朱色に塗られた橋が、丁度須弥山と俗世の間に、跨っていた。ここを越えれば、俗世に足を踏み入れる事になる。

思い切って、橋に足をかけて見る。足元の木は頑丈で、やや軋む様な音は出すが、揺れはしなかった。

こうして近くで橋を見ると、朱色の塗料が所々剥げており、年季の入った、淀んだ木の色が見え隠れしていた。紫外線によって変質し、くすんでいる所も多くある。いずれ、朱色は全て剥げ落ちてしまうだろう。その時に、直す技術を持った者はいるのだろうか。そんな考えが、頭に浮かんだ。

橋の下は、川ではなく山林だった。麓まで下りたと思ったのだが、まだ下があるらしい。だがその下は、木の緑に覆い隠され、目を凝らしても見えるものではなかった。

この下に興味は持ったものの、更に下に行く為の道は、見回しても何処にも無かった。崖を降りれば行けない事も無さげだが、崖下りなどやった事の無い蒼士には、無謀な行為に思えた。

大人しく諦め、橋を渡る。


最後の一歩を踏み出した途端、懐かしい喧騒が耳に入ってきた。先程とは打って変わって、目の前にある俗世の情報が、色鮮やかに入り込んで来る。

石畳の上を、無数の男女が忙しなく動き回っている。建ち並ぶ木造住宅はそのどれもが年代物で、中には今にも崩れそうな建物まである。店前に置いてある床机は、そのどれもが紅い布を被っており、雰囲気には似合わない程映えていた。

歩く人々の服は、洋服や服、更には小説に出てきそうな珍しい服装まで、様様だった。ここまで種類が多いと混沌を彷彿とさせるが、意外にも風景にしっかりと溶け込んでいる。

俗世の道を、歩き始める。石畳の道は、見た目に反して造りが雑なのか、所々、体重をかけられた石が不安定に揺れた。歩く人々は、それを気にもせず、足を急かして歩いている。

店頭で、客が並べられた品物を手に取りつつ、算盤を持った店員らしき人間と立ち話をしていた。言葉は聴き取れないが、笑顔で話している。

物凄く、大量の情報が目を通して入ってくる。かつてない鮮やかさ、かつてない情報量に、目眩がした。


そうだ、これが俗世。本来、居るべき、場所。

頭が、重い。身体が、動く事を拒む。

それでも歩いている。何処へ行くのか、何も分からず。

何も知らずに。本能が何を求めているのか、知らないままに。

目眩が、する。頭を抱えて、蹲りたい。変人だと言われようと。


俺の知った事では無い。


唇から、血が出た。

後ろから、馬の蹄の様な音が近付いて来る。

「おい、あんた大丈夫か」

男の声だ。後ろから、馬から降りる音がした。その者に、後から肩を掴まれる。力強く、痛かった。

「あんただよ、あんた。地獄を彷徨ってるみたいな歩き方して。皆、不安そうにお前を見ているの、気付いてないのか」

男に言われて、周りを見てみる。路上を歩いていた人々が、不安そうな表情を蒼士に向けていた。

「あ...すまない」

「全く、調子悪いんなら旅籠にでも行って休んでいれば良いものを」

「旅籠...」

旅籠と言われても、無一文が旅籠に行った所で厄介払いになるだろう。光輪も換金する必要がある筈だ。

これが乞食の気持ちと言うものなのか、と蒼士は薄れかける意識の中、のんびりと思っていた。

「すまんが、金が」

「それなら、此方にどうぞ。宿泊代は私が払いましょう」

蒼士の声を聞いていたのか、一つの旅籠から、声が掛かった。見ると、旅籠の前に中華風の衣を纏った中年の男が、一人立ち、手を降っていた。

「それは有難い。あんた、歩けるか。肩貸してやるから」

男の肩を借り、ともすれば途切れそうな意識のまま歩く。中年の男は一つ頷くと、暖簾を潜って旅籠へ入っていった。男に続き暖簾を潜り、やや建て付けの悪い引き戸を開けると、檜の匂いが鼻を突いた。先程の中年の男が、旅籠の主人と話をしている。

「主人、部屋を一つ。松で結構。それから、寝具を。芸者はいらぬ」

「松ですね。食事は何時に致しましょうか」

「後で言う。とにかく、部屋だ部屋」

「あ、はい」

慌ただしく去っていく主人を見届けると、男は蒼士の元へ近寄ってくる。

「零雨よ、もう少し付き合ってくれるな。お前の馬は此処の厩に預けておくから」

零雨、と呼ばれた男は、蒼士を支え直しながら当たり前だ、と言いたげに答える。

「乗っちまった舟だからな。良いだろう、付き合うさ」

「ほほ...流石零雨。説明を省けるのが、なんともお主らしい」

「まどろっこしいのは嫌いなんだ」

「時に吉と出、凶と出る。ほほほ、今回は吉か、凶か」

「どっちでも」

二人が雑談している所へ、主人が戻って来た。手招きをしている。

「此方へどうぞ」

「さて、参ろうか。もう少しの辛抱だぞ、少年よ」


零雨に支えられ、廊下を歩く。

案内された部屋は、廊下の突き当たりにある部屋だった。松、というだけあるのか、旅籠にしては和室が広々としていた。窓は大きく、庭が見える。中心には高価そうな色合いをした風流な机があり、硯石と筆が置いてある。重ねられた座布団には金色の紐がついていた。

蒼士は、座布団を数個重ねたものを枕に、衣を布団代わりにして寝かされた。和室独特の、畳の匂いが蒼士を包む。寝かされて、漸く零雨と男の顔が鮮明に、目に写った。

零雨は、蒼士と同じ様な髪の色をしていた。強い光を持った目が、不安気に蒼士を見ている。上半身は布を一枚肩にかけているだけであり、筋肉質な身体が露になっていた。一方男は、痩せ細った身体をしている。ゆったりとした中華風の衣でも、その痩身を隠しきれていない。やや皺の見え始めた顔が、男の年月を感じさせた。そして、栁湶華や攸を彷彿とさせる優しい顔付きだった。


男が、懐から包を取り出す。開くと、そこには錠剤が数個あった。

「直ぐに良くなるからな。金剛殿に貰った胎泉桃を練り込んだ薬だ。飲みなさい」

男によって口に放り込まれる。苦いかと思いきや、ほんのり甘い錠剤であった。僅かに、桃の香りが口に広がる。溶けやすい物らしく、呑み込む前に、錠剤は溶けて消えてしまった。

「これで良くなるのか」

「勿論。胎泉桃は数多くの症状に効く。精神的なものに対しても、だ。まあ、元気になり過ぎるのが難点と言えば難点だがね」

その言葉を聞いていた零雨が、首を傾げつつ男に訊く。

「元気になり過ぎるって、どういう事だ」

「病気に対する不安とか、そんな事を考えているのが馬鹿馬鹿しく思える程元気になる。そして無性に腹が減る」

「そんな凄い物なら、俺達みたいに天使共を追っ払う者にも分け与えてやって欲しいもんだ。日々疲労との格闘だよ」

「生憎、胎泉桃は滅多に身を付けんのでな。兵全員に配れる程の個数は無い。というより、私の持っているこの錠剤、これに胎泉桃ほぼ全部使ってしまったよ。それにな」

「それに、なんだよ」

「腹が減っては、戦は出来ぬ、と言うだろう。元気になり過ぎて戦の度に腹鳴らしちゃあ、戦なぞ出来んぞ」

「まあそれはそうだが」

「戦の度に兵達から、腹の虫がぐーぐー鳴っているのでございます、とでも言われてみろ。兵糧不足になるではないか。懐石料理であれば安上がりだが、酒喰らいも多い。やがて酒屋から悲鳴が上がる。民は酒が飲めなくなる。民衆の快楽を奪ってはならんぞ」

零雨は男の言葉に眉を潜めていたが、やがて笑い出した。

「つまりは渡したくないって事だな」


そんな二人の会話を聞きながら、蒼士は目を閉じる。男の言っていた通り、身体が軽くなっていくのを感じていた。身体にあった薄汚い気が絞り出され、清潔な気が身体を巡り出す。初めての感覚にやや恐怖を感じつつも、身体を巡る気に一種の歓びがあった。

身体を起こしてみる。先程までとは違い、身体が軽かった。肩を借り無ければ歩けない程に調子が悪かったのが、嘘の様だ。

「おお、凄い。先程までの地獄でも彷徨っていそうな顔が嘘の様だ」

「胎泉桃は嘘を付かんよ」

驚く零雨と、微笑を浮かべる男に、蒼士は頭を下げる。

「助かった」

頭を下げられた事に更に驚いたのか、零雨が慌てて手を振る。

「俺は当然の事をしただけさ。この近辺を見回るのは、俺の役目なんでな」

「私も、当然の事をしたまで」

男は微笑と共に答えた。錠剤を包んだ紙を再び懐に戻すと、立ち上がる。

「さて、私はこの辺で。貴方の宿泊代は私が払っておくから、今日はゆっくり休みなさい」

「しかし、そんな世話になってしまっては。胎泉桃も、貴重な一つを俺如きに使ったのだろう」

蒼士の言葉に、男は笑い出した。背を向けると、独り言を言う様に小声で言った。

「飲水貴地脈、と言う。気にするな、とは言わぬ」

男が、戸を閉めた。閉まった戸を診ていた零雨が、呟いた。

「あいつ、誰だったんだろう」

「知らなかったのか」

「知らん」

即答である。

「で、だな」と零雨が蒼士の方に向き直った。「いきなりで悪いが、今日はあまり此処を出ないほうが良い」

「何故だ」

「天使共が、この州を狙っている。今晩辺り、来ると俺は予想している」

零雨が外を睨みつける。蒼士には極普通の庭であるが、零雨にはまた別の何かに見えているのだろうか。

天使。攸宅の前で見た、天使。あれが、此処にもいると言う事を意味しているのだろうか。外を見る。曇っており太陽が隠れているが、そこには確かな平和があり、天使に侵されるとは思えなかった。

それを不安と見て取ったのか、零雨は「安心しな」と笑みを見せる。

「だから俺は此処に来たんだ。奴等を、潰す為にな」

「潰す?」

「それが俺の、役目だからな」

「役目、なのか」

暫く、黙ったまま外を見つめる。暫くして突然、零雨が「やってらんないよ」と後ろに大の字になって倒れた。覗き込む蒼士を見つつ、「お前、役目って考えた事あるか」と聞いてきた。

「役目....か.....」

此処に来てからというもの、役目などと言うものを考えた事は、蒼士の記憶には無かった。無意識に役目を果たしてはいるが、それは後から考えてみての事だ。それに、須弥山の時では役目を負うことはあれど、此処、俗世に来てからは、役目らしい役目など、蒼士には無い。こじつけの様な形で言うなら、「旅籠で大人しくしている事」が役目ではあるが。

「考えた事も無かった」

「俺だって前は考えた事も無かったさ」

零雨は起き上がった。立てた片膝に身体を預けると、気怠そうに蒼士の方を向いた。

「前はな」

「今は、考えると言う事か」

「まあな。考えても、無駄なのは分かってんだけどさ」

「そうか」

演じる事、役目を果たす事。

かつては、しっかりとした役目があった気がする。それが、崩れきってしまう前までは。

どんな役目を負っていたかなど、蒼士の記憶には無かった。だが、押し潰される程、重かった。そして実際に、押し潰された。

忘却の彼方に憧れ、実行に、移した。

暗くなりつつあった雰囲気の中、零雨が手を二度、叩いた。

「まあ、こんな話は、しない方が良いか。ろくでも無い事を思い出しちまう。そういやお前、名は」

「蒼士、だ。お前は」

「ああ、俺。零雨藏岶。大体藏岶と呼ばれてるが、あの男みたいに、一部は零雨と呼んでる。覚えなくても良いぞ。記憶の無駄になっちゃあ、悪いだろ」

「そうだな。俺の名も、覚えなくて良い。無駄になるからな」

「俺は、もう覚えたよ。無駄な事を覚えるのが、俺の趣味だからな」

「嫌な趣味だな」

「全くだ」

「だが、悪くは無い」

「どうかなあ」

零雨が笑い出した。零雨の笑いに釣られて、蒼士も口の端を緩める。心が少し、穏やかになっていた。零雨のおかげか、胎泉桃のおかげか、それは不明だ。


ふと、扉を叩く音がした。零雨が開けると、主人が座っていた。

「あの、食事の方は如何致しましょうか。そろそろ決めて頂けませんか。此方も準備が御座いまして」

「どうすんだ、蒼士」

零雨に聞かれ、此処に入って来た時の事を思い出す。あの男は、後で言う、と言っていた。その事を、完全に忘れていた。手間をかけさせて悪い、と思いつつ答える。

「食事、頼めるか」

「承知致しました。芸者はどうなさいますか」

「いらん」

「あ、俺の分も頼むよ」

零雨の発言に、主人は驚いた様に零雨を見た。

「へ、零雨殿までお泊りに?」

「それはこれから考える」

「はあ」

主人は微妙な表情のまま、出て行った。

二人になった所で、「良いのか」と零雨に問う。

「今晩、奴等が来るんだ。事前に何か、食っておかないとな。腹が減ってはなんとやら」

ああ、天使。

その事も、忘れていた。外を見る。相変わらずの曇り空だが、日が出てきたのか、外が明るくなっていた。

「今日の夕焼けは、綺麗だろうね」

零雨が呟いた。その言葉には、棘があった。


飲水貴地脈。何となく、その言葉を思い出した。

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