光輪が、薄暗い部屋の中で、ぼんやりと光っていた。

何もない部屋で、蒼士と光輪は向かい合っている。持ち主を失った後も、まるでそれが本体だと言うかの様に、光輪はその神々しさを保ち続けていた。

その神々しさを、蝕んだのは他でもなく蒼士自身だ。輝きを見ていると、罪悪感を感じる。これで、良かったのだろうか、何か、他に手段は無かったのかなどど思ってしまう。

「蒼士よ、少し良いかな」

考えていると、攸が戸を叩いてきた。叩かれただけではあるが、罪悪感が微かに薄れた。

「...ああ」 

答えると、攸が入って来た。蒼士の目の前にあった光輪を手に取り、自身は蒼士と向かい合う形で座る。正座で向き合ったまま、時が周囲を流していた。ややあって、攸が「話したい事はあるかね」と蒼士に聞いた。

無い訳ではない。だが、異様な虚無感が自身の心を支配していた。俯いたまま、小さく頷く。

「まったく、気の抜けた様な顔をしておる。自身を見てみよ」

言われ、顔を上げる。攸の出した鏡に、自分の姿が映っているのが確認できた。虚ろな瞳。生気を失った顔。太陽の光を拒む影は、辛うじて蒼士を人として創り上げている。ああ、こんな顔、していたのか。

まるで、今から死にに行く様な顔付きだ。この虚ろな顔、前はそれが普段の表情だった気さえする。此処に来てからの表情の方が、珍しかったのだと。

「もう少し、しっかりせぬか」

「...これが俺の、いつもの表情なんだ」

俯くと、膝の上に乗っている、自身の手が目に入った。何の変哲も無い、ただの手だ。だが、この手が、あの時に常識を打ち砕いた。

被害者は、そこに転がっている。目が潰れそうな程、神々しい光を放っている被害者が、そこに。

「呪いか」

光を見ていると、あの黒炎を思い出す。無意識に、呟いていた。

「呪いか。そんなものが、本当にあるとは思わなかったが」

「世には、有り得ないものが星の数程あるからな」

「そうかもしれんな」

栁湶華の書いた「天」の文字。あれだけに、まさかこんな力が秘められていたとは。

「お主はあの時、呪いを使った。栁湶華殿が居た事から考えるに、あの方に何かされたのだろう。その力は、弱体、強化はしようと消える事は決して無い。むやみやたらと使ってはならぬ」

「分かったよ」

有り得ない物が、こうして具現化され、あろう事か自身のものになった。この世界といい、人といい、有り得ない事が続く。今まで築き上げてきた全ての常識が崩れ落ちてゆく。

「この勢いだと、妖怪とか龍とか、怪物とか魔法とか。そんなものもありそうだな」

「あるぞ」

「だよな。なんかもう、驚くのが面倒になってきた」

「ははは...度胸がついたのかのう」

「自分で呪い使った時点で、色々諦めたよ」

「あっはははは....恐ろしき事かな、怠惰は。面白い」

攸は愉快げに笑う。蒼士自身は気付かなかったが、攸がここまで笑うのは初めての事だった。

「俺を肴にするな」

「ははは、失礼。やはり、知らぬ世より来た者の発言は、中々に面白い。常識と化したものが非常識になる、そこがな」

「当たり前だろうが」

「そうだな。当たり前でありながら、当たり前では無い。それを時々忘れる。歳かのう」

攸は光輪を拾い上げ、「これもまた、常識の狭間におるものよな」と目を細めながら呟いた。攸の手で光る光輪の輝きが、先程の言葉を否定するかの様に鈍くなった。

この光輪が、金額になるのは聞いたが、どうもこうして鈍く輝いたり神々しく輝いたりするのを見ていると、罪悪感が沸き上がってくるものだった。

「曇の部下に渡せば良いと、言っていたが」

「まあな。渡せば換金してくれるだろう。ただ、部下も多いからなあ。律儀な者から、大雑把な者まで、沢山おる。誰に会うかは、運じゃな」

「運かよ」

「そりゃあ、俗世には、あらこちらに曇の部下がおるのでな」

また俗世か、と蒼士は思う。ここに来て何度か、俗世という言葉を聞いた。それは、ここが俗世では無い事を意味する。では、俗世でなければ、ここは何だろうかと一瞬思ったが、それを口に出すのは憚られた。

「俗世か」

「此処を東に下りれば、俗世じゃよ」

東を見るが、屋内なので勿論、壁しか見えない。何かが見える筈も無いが、一瞬街が見えた気がした。極々普通の、住宅街だった。

「俗世か」

「うむ。お主も行くか?」

「行って、何になる」

「此処みたいな辛気臭い所におっても、若者には詰まらぬ事よ。俗世の新鮮な空気でも吸うべきかと思うての」

「....騒々しい所は嫌いだ」

「思ったよりも静かかもしれんぞ。騒がしいのは天使と討伐者ぐらいなものだよ。それに」

攸は一旦言葉を切った。光輪を手で回しながら続きを発する。

「今、何が起きているのか、その目で見るとええ。何も知らぬまま此処で過ごすのは惜しいものだ。無知故の知らぬ苦痛、知らぬ幸福もあるが、質が悪いからのう」

「質が悪い...か」

「何、主は一旦須弥山に来た。此処を見出した以上、俗世に下りたからと須弥山を失う事は無かろう。帰りたい時にいつでも帰って来て良いのだぞ。無理して居続ける必要もないでな」

「...気は向かんが、そこまで勧めるなら、少しは行く事にするよ」

「うむ。ついでに、光輪もな。後、東に行くのだぞ。西に行ってはならぬ。西は危ないのでな」

「はあ、分かったよ」

蒼士は立ち上がる。身体が、重い。俗世を、拒む自身がいた。ろくでもない所だろう、という認識が心にある。

やや重い体を感じつつも、外へと出る。庭先、老齢の松が、東を指差すかの如く枝を東へと伸ばしていた。

此処を下れば、俗世。

混沌とした、灰色の世界。

もう、いい、そう思っていたのだが、こうも人を見ないと何となく俗世に懐かしさを感じるのか、俗世を拒む一方好奇心で行こうとする心があった。

「気を付けなされよ」

「はあ、分かったよ」

そう答え、東へと、歩き始める。道は細く、足元も良いとは癒えない道だった。木々がざわめき、枯葉が舞う。

俗世、という言葉を聞くと、思うのはやはり、極普通の街並みだった。高層ビルが立ち並ぶ訳でもなく、石造りの建物が並ぶわけでもない。


何の変哲もない、住宅街。瓦屋根に混じり、二階建ての家がちらほら建っている。道は車がすれ違える程しかない。車の煙に晒される、玄関前の植物は文句一つ言わない。

毒草である夾竹桃が、庭先で見事な花を咲かせていた。その華やかさに誘われる無知な子供を死に至らしめようと、路上に枝を伸ばしている様に見える。

鵯らしき鳥が、花を折った。その途端、木の根元に墜落した。

子供が花を採った。その途端、木の根元にうずくまった。

毒に侵された二つの生物が、苦痛に悶える。次第に、触れた手から段々、骨だけの姿になっていった。子供が怯え、すすり泣く。

骨の姿に、涙は無い。やがて、骨だけの身体になった子供は、すすり泣きの姿勢のまま、前に倒れた。

その時、うずくまったまま、動かなかった子供の影が、動いた。


「あれほどさわるなって おかあさんにいわれてたのに」


純粋な、欲───。


気が付けば、周りに木々は消え失せ、一面芒畑になっていた。

芒は風に揺られ、一定の動きで揺れ動く。その動きに乱れは無く、秩序を再現している様にすら見える。この場に、混沌は排除されているのだ。

しかし、今は混沌がそこにあった。

何かが、いる。

栁湶華宅に行く時にも、感じたあの気配。少なくとも、友好的な気配では無かった。寧ろ、殺気を感じるものだ。

恐らく、声を掛けても反応は無いだろう。素早く抜けてしまうのが得策、というのが最終的な結論であった。歩き出そうと、足を踏み出した瞬間だった。

芒畑から、黒く太い縄が飛んでくる。その縄は、蒼士の足元を確実に狙っていた。

何だ、と思ったが蒼士の動きは一歩遅く、縄が右足に生き物の様な動きで絡みつく。振り解こうとしても、一方的にきつく締まっていくばかりで解ける気配は無い。もがけばもがく程、締まりがきつくなっていく。

「くそ、誰だ。そこにいる奴」

鋭く叫ぶと、芒畑の中から返事が返ってきた。殺気を含んだ、鋭い声だ。

「そんな事聞かれて、答えると思うか」

もう一本、縄が飛ぶ。今度は、首だった。

声を出す間も無く、縄が首に絡みついた。嫌な締め付け具合に、喉元から浅黒いものが迫り上がって来るのを感じる。

引っ張れば引っ張る程、締め付け具合が強くなっていく。このままでは、もうじき窒息死する事になる。

ならばと、一つの考えが頭に浮かんだ。上手く行くかは知らないが、生死を賭けた、行動だった。

距離を詰める。

考えが悟られない様に、敢えて無言で突進した。流石に黙ったまま突然突っ込まれた事に相手は驚いたのか、「ちっ」という舌打ちが聞こえ、首を締めていた縄が制御を失い、緩んだ。

今が、期か。

緩んだ隙に、首に巻き付いていた縄を外す。突っ込んでから、全てが一瞬の様に流れた。

「厄介な奴」

そう呟くと、縄を引っ込めた。足に絡まっていた縄が、挑発するかの様に蒼士の脹脛を叩く。

芒畑の中から、何かが飛び出した。人らしき外見だ。手には鎌のようなものを持っており、太陽の光を受けて残酷に輝いた。

その鎌が、振り下ろされる。

無意識に、手を上げていた。普段ならこのまま、手を斬られるだろう。そのまま頭まで真っ二つだ。だが、目を瞑っても、刃は来なかった。

見ると、手で鎌を受け止めていた。手が切れそうなのは見て明らかだが、想像に反し、切れる気配が無い。

鎌の使い手は相変わらず、芒に隠れていて見えない。だが、黒地の布が僅かに見え隠れしていた。

「そこのお前、何がしたい。さっさと引っ込め」

蒼士の声に反応したのか単純に引いたのか、鎌が引っ込んだ。

「くそ、栁湶華の加護さえなければとっくに殺せてたのに」

「栁湶華の加護、だと?どういう事だ」

聞くが、相手は吐き捨てた様な笑いをすると、何処かへと走り去っていった。

その時に、ふと思い出すものがあり、懐を探る。手が、目的のものに触れた。攸に渡しそびれていた、あの藤の紙だ。あの後完全に忘れて、今も攸に渡す事を忘れたまま俗世に行こうとしている。

今からでも、渡しに攸宅へ引き返すべきか。一瞬迷ったが、遙か先、街らしきものが霧の合間に見え隠れしていた。

あれが、俗世。

風が、追い風となって蒼士の背を押す。

引き返さなくて良い。そのまま行け。その言葉が、風に乗って聞こえて来る。

「攸、悪いな」

一度、攸宅の方を向く。今はもう、攸宅を一面の緑が覆い隠していた。

俗世へ、足を踏み出す。藤の紙を懐にしまい直した。

帰ってから渡せば良い。


後は黙って、進むのみだ。

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