天使

「あっ......あああ....て、天使.....」

一人の男が、尻餅をついたまま後退る。顔は恐怖の色で凍り付いており、青ざめていた。

目の前に居るのは天使──。

ゆったりとした白い衣を身に纏い、純白の翼を広げている。手に持った剣は栄光の輝きを見せ、身体からは幸福の波動を発していた。目に眼球は無く、彫刻の様に無表情だ。その無い眼球が、男に向けられた気がした。

手が伸びる。その手は確実に、男の首を狙っていた。

「うっ」

首を掴まれる。天使の手に段々と、力が入っていく。男を絞め殺す気だろう。

これが、天使のする事だった。

首が締められ、息ができない。意識が少しずつ遠のき始めた。

──嫌だ...。このまま死ねば、西洋に...。それだけは....!

その時だった。天使の頭上で刃が血を求め、死の色を輝かせた。

何者かが天使を真っ二つに裂く。同時に、首を締めていた手の力が弱まる。血が吹き出し、真っ二つの天使は抵抗も出来ずにその場に崩折れた。

斬りつけた男が、地に転がっている黄金の輪を拾い上げる。

「よし、確保。地獄で良い夢見てな、天使さんよ」

「あ、あんた....」

青ざめたままの男が、呟く。それには答えず、天使の輪を持った男は、そのまま幻の様に掻き消えた。


帰りは、下り坂のせいか確かに早く感じる。あの稲刈りの音、そして「捉師」という存在は気になりつつも、気が付けば攸宅に着いていた。

門前で攸が、何かを探しているのか忙しなく動いている。

「探し物か?」

声を掛けられた攸は一瞬動きを止めるも、声の主が蒼士と知ると「脅かすな」と安心したように言った。

「悪い。で、何してる」

「その辺に、黄金の輪が落ちていないか?夜だから見辛くてな」

「黄金の輪、か」

「丁度、頭に被れるぐらいの大きさの輪なのだが。早う、見つけないと後々厄介な事になりかねん」

言われて、周りを見回す。一面、闇の色をした草と土だ。それらしき物は、全く見当たらない。

「....無さげだな」

「蒼士、お前も探してくれ。極力、朝までに見つけておきたい所なのでな」

「....はあ、帰って早々、物探しか」

面倒ではあるが、世話になっている攸に言われた以上、逆らう事には抵抗があった。大人しく頷き、探し始める。

「気を付けて探しておくれ。あの輪は妙に脆くてな。破損しても良いが、粉々にするのは止めておくれよ」

「破損したら許さん、ではなく良い、んだな」

「粉々にさえならなければ、別に良いのでな」

「その程度の代物なのか」

「その程度、というわけでも無いがな。破損は許すが紛失は許さぬ、という所じゃよ」

「中途半端な」

「本気で大事な物なら、身につけておるわと言いたい所だが、あんなもの、大事であっても身に着けとうない」

「何だそれは。元々が大分中途半端なものなんだな。それでも見つけないとまずいのか」

「まずい。時間経過と共に術が解けるからな。だったら粉々になってくれた方がましだ」

そんな無駄話をしつつ、草の根を掻き分けて黄金の輪を探す。辺は一面、闇だ。その中なら、黄金は割と見つけやすいと思ったのだが、案外闇に隠れてしまうと黄金も意味を成さない。暫く探したが、何も見つからなかった。

「....無いな。攸、こっちには無いぞ」

蒼士の報告を受けた攸は、ううむ、と眉を寄せた。

「....そうか。御苦労。こちらも同じだ。何処に行ったのか.....。まあ、最低、朝まで見付からずとも何とかなるにはなるか....」

攸は一つ溜息をつく。そして、黒い地を見つめながら、独り言の様に聞いてきた。

「蒼士、お主、呪いは使えんよな」

「知らんが、恐らく使えんな」

「だろうなあ」

想像通りで他に言うこともない、と言いたげに攸が答えた。直ぐに黄金の輪を探す体制に戻ったが、思い出した様に蒼士の方へと振り向いた。

「蒼士。万一の時は、童女を連れて、栁湶華の所に逃げてくれ。儂の事は放っておいてくれて良い」

「はあ」

「気のない返事だなあ。とにかく、何かあったら逃げてくれ。良いな」

何が起きるんだ、と思いつつ、素直に頷く。その黄金の輪に、何か妙なものでも封じ込めたりでもしているのだろうか。そう考える蒼士の目の前では、攸が相変わらずそれを求めて探し回っている。

「蒼士、お主はもう戻って身体を休めてて良いぞ。後は儂が、何とかしておく」

攸はそう言うと、手の動きで蒼士に帰れ、と伝えて来た。これ以上何か言っても、無意味だと判断するより他無い。やや聞きたいことは内心に抱えつつも、大人しく室内に戻った。

童女は流石に、もう眠っているのか廊下には物音一つ無かった。

箪笥以外何も無い室内には、うっすらと月明かりが差していた。月の黄金の光が、闇に溶けて蒼くなった。

耳障りな警告音が聞こえる。

青い光が辺りを照らしていた。まるで「休め」と告げるかの様に。


知れ


憎め


蔑め



その時だった。外から何やら羽ばたく様な音が聞こえたのは。


いつの間にか、眠っていたらしい。昇り始めた日が、青黒かった室内を紅く染める。

それよりも、外から聞こえる羽ばたく様な音が酷く耳障りだった。障子を退けようとして、攸の言葉を思い出す。

まさか、とは思ったものの、念の為障子に鍵を付けておき、素足のまま廊下に飛び出した。廊下の端には童女がおり、玄関扉の前で立ち尽くしていた。

「童女。外に出るな」

蒼士の声で童女は振り返った。やや不安げな顔で玄関と蒼士を交互に見ると、「扉が開かないの」と小さく言った。

「開かない?」

「開かない。爺、探したけどいなかった。多分、外」

「あの爺、外から鍵かけたのか。裏口は無いのか?」

「あるけど、多分開かないよ」

「いざとなったら蹴破る。童女、裏口に案内しろ」

蹴破る、という蒼士に、童女は案内を少々躊躇ったものの、一つ頷くと蒼士の手を取り、廊下を走り出した。廊下の一番奥にある、小さな部屋に入る。

薄暗く、かび臭い室内だった。足元には無造作に書簡が置かれている。一つだけある窓は、積み上げられた書簡で殆ど潰されていた。書簡の隙間から漏れる細い光は、室内に舞う埃を宝石の様に輝かせていた。

童女は迷わず部屋の隅に突進し、積み重なった書簡の山を思い切り崩した。書簡の山が崩れ、埃が更に舞う。崩した場所の奥に、取っ手らしきものが見えた。

更に崩すと、扉が顕になった。随分と古く、所々腐りかけている。

「これが、裏口」

そう言うと童女は、扉を思い切り押す。だが、扉はびくともしない。

「どけ。蹴破る」

「えっ」

先程の蒼士の言葉を本気で捉えていなかったのか、まさか本当に行動に移すとは思っていなかったらしい。童女は泡を食った様な表情をすると、眉を寄せて問いかけてきた。

「蹴破るって、本気で。爺になんて言われるか...」

「所々腐りかけているんだ。修理するのに丁度良い機会じゃないか」

「物は言い様、ね」

呆れたのか感心したのか、止められないと知ると童女は首を傾げ、数歩下がった。童女が安全な位置まで下がったのを確認すると、足で思い切り扉を蹴飛ばす。

やはり腐りかけていたからだろうか。蒼士の蹴りで扉は見事にくの字に折れ、扉の一部が外に吹っ飛んだ。

「なんだ、あっさり行ったな」

「本当にやっちゃたよ、蒼士凄いね」

そう言う童女の目は、蒼士の足に向いていた。木屑か何かが刺さったのか、少し血が滲んでいる。何せ、素足だ。

「さて、うだうだ言ってないで早く出るぞ。状況によっては、栁湶華の所に逃げなくてはならん」

「の前に、靴。それ位の時間はいいでしょ」

言い終わるや否や、背を向けて廊下を走り出した。恐らく、蒼士の足の具合を心配しての事だろう。状況も状況で、手当が出来ないと判断した童女の、咄嗟の決断だった。

直ぐに童女が戻ってくる。差し出された靴を大人しく受け取り、その足でもう一度扉を蹴る。今度は、扉の殆どが外に吹っ飛び、もはや扉としては見えない程、原型を失ってしまった。

急ぎ裏手を出て、庭の方へと向かう。羽ばたく音が近くなると同時に、何やら金属同士がぶつかり合う音も聞こえ始めた。

影から表を覗く。やはり、攸がいた。手に剣を持っているが、その刃に血糊がついていた。それよりも、その相手らしきものの方に目が行く。攸が相手にしているのは、敵と言うには余りにも神々しい光を放ちすぎていた。

純白の羽が美しい。穢れ一つない、何にも染められていない衣。そして、瞳のない顔からは神々しい光が無限に放たれ、見るものを魅了する。

「あれは....何だ....?」

蒼士は思わず息を呑む。後ろから庭を見ていた童女が、小さく袖を引っ張った。

「あまり身体を出さないで。あれは天使よ」

「天使だって?」

「ええ。昨日の黄金の輪、見つからなかったのね。術が解けたんだ」

童女はそう言うと、「ほら」と天使の頭を指差す。指差された先、天使の頭には黄金の輪が浮いていた。

「あれが、昨日探していたものだったのか」

「そういう事。天使って、黄金の輪さえ残っていれば勝手に復活するの。粉々に砕けば復活しないけど、天使の輪は通貨にもなるからね。価値のあるものをむざむざ砕くなんて攸はしないわ。曇もいるし」

その時、攸が動いた。老人とは思えない俊敏な動きで、天使目掛けて剣を突き出す。

天使も負けてはいない。とっさに防御体制に入り、攸の剣を剣で受け止める。暫く、鍔迫り合いが続いた。それでは埒があかないとでも思ったのか、天使が一歩下がり、盾を構えた。

其処に攸が突っ込む。剣と盾がぶつかる音が、空間を震わせた。

「童女」

「何?」

「栁湶華の所へ行くぞ。庭を突っ切る」

「蒼士」

不安気に蒼士を見上げる童女の手を引き、庭を突っ切る。天使と攸は目の前しか見ておらず、横を擦り抜ける蒼士と童女に見向きもしない。

庭を出て、坂道を走る。といっても、童女と蒼士では走る速さに差があり過ぎた。もどかしさを感じつつも、蒼士は童女の走る速さに合わせた。

朝の芒畑を突っ切り、昨日見た竹林へと走る。

やがて、栁湶華のいる庵が見え始めた。栁湶華がいるかどうかは分からないが、頼る他無い。

「栁湶華!」

知らないうちに叫んでいた。すると、竹林の中から「待っていなさい」という声が聞こえた。どうやら栁湶華は竹林の中で何かをしているらしい。

「今はそれどころじゃない。何処にいる」

「だから、待っていなさい。まずは落ち着きなさい」

「蒼士、焦ってても仕方無いよ。攸なら大丈夫、だから」

童女が蒼士の袖にしがみつきながら、宥める様に言う。言葉の内容こそ落ち着いてはいるが、声と手が震えていた。

「悪い。焦りすぎた」

縁側に童女を座らせ、蒼は立ったまま竹林を見つめる。

やや苛々しながら待つこと数分、漸く栁湶華が姿を表した。片手には鋸、そして竹を持っていた。栁湶華は縁側に鋸を置くと、竹を持ったまま蒼士へと振り返る。

「さ、行こうか」

「は?」

「攸の所へ」

「....え?」

「安心なさい。貴方達が来た理由なんて、来る前からお見通しだったよ」

栁湶華は朝日の元、あの微笑を見せると蒼士達が来た道を引き返していく。栁湶華はのんびりと歩いているのだが、不思議なことに蒼士が走った時よりも早く、直ぐに攸宅についた。そこでは相変わらず、剣と盾のぶつかり合う音がする。その音を聞きながら、栁湶華が笑い出した。

「ははは、大分苦戦している様だ」

「笑い事じゃないんだが」

「分かっているよ。だが、決して攸は負けないから、安心なさい。...蒼士」

「何だよ」

「左手を出しておくれ」

「なんだよ、こんな時に.....」

ぶつくさ言いながらも出した蒼士の左手に、栁湶華は右手の小指で「天」と書いた。そして告げる。

「さあ、これで良いだろう。貴方が戦うべき相手の前で、その手を出して、念じなさい。面白い事が起きるはずだ」

「お前は一々妙な事を言う」

「百聞は一見に如かず、だよ、蒼士」

栁湶華の微笑は、夜とはまた違う魅力を持っていた。ただ、微笑まれては逆らうものも逆らえなくなるのは、朝も夜も同じだった。

面倒な、と思いつつ左手を前に出す。左手だけに、意識を集中させる。次第に、身体が熱くなってゆく。その全てが、胸を通して左手に送られていくのを、感じた。

目を開いた。その目に、天使の姿がはっきりと写った。倒すべき、敵。

その瞬間、手から黒い炎が現れた。全ての光を喰らう、漆黒の光。炎は真っ直ぐに天使へと向かい、そして天使を包み込む。

神々しい光が、漆黒に呑まれてゆく。罪悪が、幸福を打ち砕くかの如く、力強く、無慈悲に闇の手は光を閉じ込める。

次第に天使が悶え始めた。必死に助けを求めているのか、手を伸ばしている。

黒炎は手を無情にも包み込む。やがて、黒炎に呑まれ、天使の姿は見えなくなった。

「蒼士...。呪いが、使えたのか」

攸が肩で肩で息をしながら呟いた。

「少しきっかけを与えただけで使えるとは、見事。私が出る幕は無かったみたいだ」

攸を介抱しつつ、栁湶華がにこやかに言う。

自分が出した事が信じられず、自身の手を見る。今、天使が火だるまになっている。あの炎を、自分が出した。

炎が弾ける音の中に、金属らしきものが落ちる音が聞こえた。

その音を聞くや、「変れ」と栁湶華が呟く。すると、竹が竹籠に変化した。それを黒炎の中へ投げ入れる。

「もう良いだろう」

何か呪文を唱えると、黒炎が鎮まり、残すは黒い煙のみとなった。栁湶華はその中へ入っていき、竹籠を手に取る。

竹籠の中に、光り輝くものがあった。それだけは、あの天使と同じく、神々しい光を放っている。

「それが、黄金の輪か?」

「そうだ。天使の源だよ。光輪、と呼ばれていてね、俗世では価値のあるものなんだが、管理を怠ると、今日の様になる訳だ」

栁湶華は光輪を取り出し、蒼士の掌に置く。

「術をかけておいたから、暫くは復活しない筈だ。それに、炎にも焼かれているし、復活しても先程の通りとはいかないだろう」

光輪は、想像以上に軽かった。風が吹けば飛びそうな程だ。だが、風が吹いても、光輪は微動だにしない。

「この輪から発している気は、かなり上質なものだ。もし、曇の部下に会ったら、それを渡すと良い。高値で買い取ってくれるだろうから」

そう言うと、攸と童女を交互に見る。

「私はそろそろ戻るよ。もう役目も終わった事だし」

「助かった、栁湶華殿」

「この位、朝飯前さ。今度は気を付けるんだよ」

最後に蒼士を見ると、微笑を浮かべた。背を向け、歩き出す。

「全く、あの御方はいつもすまし顔だな。さ、儂等も戻ろう。...俗世か」

俗世か。

気になりつつも、攸の後を付いていく。

俗世。

響きが、耳に残った。

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