笛の音
梟が、突然鳴き止んだ。
芒畑に、異様な殺気を敏感に察したからだろう。梟は首を傾げると、我先にと大空へ飛び立った。
遅れて飛んだ梟の翼を、芒畑の中から飛んだ刃物が掠めた。
羽根が一、二本落ちるが、梟はものともせずに大空に消えて行った。
芒畑の目の前には、小さな庵があり、そこの縁側には一人の男が、笛を膝に置いたままその一部始終を見ていた。男は、目の前の芒畑に向かってのんびりとした口調で言う。
「気配の隠し方が、下手だね」
「五月蠅えな。気配を隠すとか、忍び寄るとか、そういうのは苦手なんだ」
芒の中から、殺気を帯びた不機嫌気な声が聞こえた。男は、宥めるように、敢えて優しい口調で返す。
「それでは、出世の道が遠ざかるだけだよ」
芒の中の声の主は、それには何も反応せず、何処かへと走り出した。芒の倒された跡だけが、何者かが其処にいた事を告げている。
「此処は地獄じゃないからね。まあ、こうして逃げ道を取ることも即ち人生かな」
男は独り呟くと、笛を口にする。
今宵は、下弦の月。
笛の音が、闇夜に木霊する。
笛の音らしき音が、夜の庭に響いていた。
幻想的かもしれないが、笛の音に疎い蒼士には、地味に煩い。少なくとも、蒼士にとっては頭痛のする音だった。笛の音が、頭の中を掻き乱してくる。
「誰だ、夜に吹いてる迷惑者は」
頭を押さえ、煩わしげに問う蒼士に、攸は意味深な笑みをする。蒼士は上を見上げた。月が、蒼士を嘲笑うかの如く、黄金の光を持って見返してくる。
舌打ち一つすると、攸が同じ月を見上げつつ答えた。
「栁湶華殿だろうな。あの者は時々、こうして笛を吹くのだ」
相変わらず意味深な笑みを浮かべる攸に、嫌悪に近い不快感を抱きつつ、吐き出すように「笛なんざ」と呟く。その中に、嘲笑の意も含まれていた事を、蒼士自身は気付かなかった。
「近所迷惑」
「風流と言ってあげた方が良いのではないかな。まあ、儂と童女はこの音にも慣れてしまったのでな」
「....はあ」
殆ど溜息に近かった。不機嫌宛らの蒼士を見て、何か思うところがあったのか、攸はにこりと笑う。
「笛の音に誘われて、と言うのも良い。蒼士も行ってみたらどうだ?」
「それは、魅了されて、だろう。俺は苛々して、だ。本人なんて見たら一発いくかも分からん」
「誘われたのは一緒じゃよ」
「過程だけは、な」
苛々してはいるが、単純に気になっているのも事実だ。何処の誰が吹いているのか、知るのもまた必要か、と思う。何かしら関わりを持っておいた方が後々、何かに使えるかもしれない。
後々有効に使えるかもしれない者をおっぽり出す程、蒼士は愚かでは無い。
「蒼士よ」
呼ばれ、振り向くと、攸は布を投げて寄越した。
闇夜にも溶けない、白い輝きを放った布だ。受け取った布を唖然としたまま見ていると、「外は安全とは言い切れんからな」と攸が呟いた。
「行くのなら、それを纏った方がええ。その布は防寒と、色々役目があってな。元は曇という者の衣だったが、少し手直しして、新しく仕上げておいた」
言われた通りに、身体に纏ってみる。成る程確かに、何も無い時よりは暖かい。纏って気付いたが、輝いていたのは、右だけであった。色彩は段々闇に溶けてゆき、左袖に至っては漆黒で、闇よりも暗い。
「了解」
外套の様に身体に纏い、紐で外れないように縛り付ける。身なりを整え、門を出かかった所で、攸が背後から声を掛けてきた。
「捉師には、気を付けよ。奴が何処に潜んでいるか、儂には分からぬ」
その声は鳴りを潜めている。それが余計に不気味であった。
「捉師?」
蒼士が聞き返すと、攸は眉を顰めたまま頷いた。そして続ける。
「黒い脚絆に、黒い衣を着た奴だ。まあ、見れば分かる。万一出会ってしもうたら、とにかく抗え。いざとなったら、儂の名を出すのだ。奴は権力と賄賂に弱いからな」
「承知した」
攸に頷きを返し、外に出る。
街灯など、ある訳が無い。ただ、月の光を灯りにして進むより他無かった。道はあぜ道ではあるが、足元が悪いという訳ではないので、比較的進み易い。
それよりも、時折聞こえる、稲を刈る様な音が気になっていた。
柳が、影となって揺れていた。今は、風で揺れている事すら、何かがいる様に思えてくる。興味本位で、柳に近付いた。ざわざわと揺れる柳は、影から光を通して蒼士を見つめる。
風なのは分かっていたが、やはり、何もいなかった。
突然、笛の音がはたりと止んだ。稲を刈る様な音も止まった。静寂の中、木々の擦れる音がする。先は一本道だ。笛に頼らずとも、迷う訳では無い。揺れる柳からは目を反らし、再び歩き出す。
少し歩くと、再び笛の音が聞こえ始めた。音量から、大分近付いてきたらしい。目の前にはいつの間にか、芒畑が広がっていた。何か、異様な気配を感じる芒畑だった。注視しつつ、早足であぜ道を進む。
再び、稲を刈るような音が聞こえた。
敢えて気にせず、そのまま歩く。程なく、竹林の中に庵が見え始める。
庵の縁側に、音の主はいた。黒髪を靡かせた貴族風の男が、縁側に座って笛を吹いている。その姿は、小さな庵にとっては豪華すぎた。
その男は、蒼士の気配に気付き、笛を持ったまま立ち上がった。ゆったりとした動きで、こちらへと近付いてくる。
「やあ、貴方も、この笛の音に惹かれて来たのかな」
風流な声だった。妙に心地良い。
男が、目の前に立つ。そこで気付いたが、男は蒼士とほぼ同じ身長だった。
眉目秀麗とはこの事か、と納得してしまう程の美顔の持ち主だ。微笑が異様なまでに良く似合う。目は清流の如く澄んでおり、欲を抱えた蒼士が直視するのは危険だった。
紫紺とニ藍の袖は風に流され、緩やかにその場を彩る。裏地に施された黄金の刺繍が、闇夜に細やかな煌きを齎す。
「それにしても何時、此処に来たんだね。攸殿も人が悪いな、黙っておくなんて」
男は仏の如き無限の微笑を見せながら呟く。露骨に目を反らす蒼士にも不快感一つ表さず、「さ、こちらにどうぞ」と手を取って歩き出す。
手を振りほどく事が一瞬頭に浮かんだが、不思議とその選択は沈んでいった。男を見ていると、もう、どうにでもなれ、という気分になる。煩わしいとかもう、どうでもいい。
「お疲れかな。顔色があまり、優れていない様だ。攸殿の宅からだと、少しあるし、なにせ坂道だからね」
男は先程まで男が座っていた縁側に蒼士を座らせると、自身の袖で蒼士の額を拭う。他人に汗を拭われた事など全くない蒼士は、驚きで思わず仰け反った。
「な、何をして....」
「人は皆兄弟とも言うだろう。兄弟の身体を労るのは、当たり前の事だ」
男はあっさりと答えた。普段なら、変な事を言い出す人間だ、とでも思っていただろう。現に蒼士は、そういう人間が苦手だった。だが、この男に言われても、不思議と苦手意識を感じない。
寧ろ、成る程と手放しで感心している。男には、そうさせるだけの器量があった。
「....はあ」
多分、この男には何を言っても敵わない。少し言葉を交わしただけでも、それがよく分かる。今は色々、黙っておいた方が良い、というのが蒼士の判断だった。
ふと、笛が目に入った。こうして見ると、黒く塗られた笛でありながら闇を跳ね除け、黒い輝きを保っている。
「それも、須弥山の材質なのか?」
質問されたのが笛の事だと気が付いた男は、笛を構えながら首を振る。
「いいえ。これは霊山のもの。霊鷲高峯をご存知かな」
「....いや」
「霊鷲高峯は、聖境と呼ばれている所でね」
笛を、鳴らした。荘厳な音色が響き渡る。
「君がいつか、行ける事を願っているよ。とても、長い道のりだけれど....」
そう呟くと、再び音色を奏で始める。攸宅で聴いたときは頭痛がしたのだが、今は頭痛を感じない。音は同じ筈だが、遠近でこうも変わるものなのだろうか。
「攸殿に、栁湶華が宜しく言っていたと、伝えてくれ。最近会っていなかったから」
「ああ、伝えておく。...栁湶華、だな」
「そうだ、私は栁湶華と言う。名乗っていなかったな。忘れていたよ」
再び微笑を見せると栁湶華は立ち上がった。少し待っていてくれ、と蒼士に告げると庵の中へ入っていく。
ぼうっと待っていると、再び栁湶華が出てくる。手には綺麗に折り畳まれた紙があった。
「これを、攸殿に渡しておくれ」
藤を思わせる色をした紙だ。銀色で、藤の花が書かれている。微かに和の甘い香りがした。
「中身は、大した事ではないけどね。けれど、君の帰路の、御守にはなる筈だ」
「御守.....か」
「その通りだ。無闇に手放したりしてはいけないよ」
蒼士が頷くと、栁湶華は今は蒼士の手にある藤の紙に、手を重ねる。
「どれ、此方を見て欲しい」
栁湶華に言われ、やや顔を上げる。あの澄みきった目が視線に入った。
無限の慈悲。それを讃えた瞳は、何か聖域を覗いている様な気すらして、相変わらず直視出来ない。目を反らす蒼士を見つめる栁湶華は、やがて小さく呟いた。
「君は、欲の殆どを捨てたような目をしているね」
「....」
「欲を捨てるのは、悪い事では無いよ。それは不要なものを削ぎ落とす事だからね。ただ」
栁湶華が、蒼士から目を反らした。その瞳で、月を見上げる。
「欲が無くなれば、何も残らない。欲は、煩悩と同じ様なものだからね。かの境地に至った者は、煩悩を断つ事でまた新たな悟りを開く事もある。無我と言う己が、永劫の彼方に己を運んでくれるからね。けれど、俗世においてそれは、器を捨てる事になる。空しさを悟り、自ら命を断つ事になる。それしか方法が、見えないんだ」
「それは」
「悪徳が蔓延し、善徳は平和維持の道具として、悪徳に利用される。それも全て、欲故だ。欲を捨てた人間には、もはや地獄絵図だろう」
「そうかもな」
悪徳の、蔓延。欲──。
何処からか、甲高い警告音が聞こえた気がした。
何かが此方に、迫ってくる。物凄い勢いで、周りの物全てを潰そうと、此方に向かってくる。
思わず、振り向いた。
後ろは、障子で閉ざされていた。
「気のせいか....?」
呟く蒼士に、栁湶華は静かに告げた。
「記憶と欲は、切り離せない関係だ。特に、意志の弱い者には、ね」
そう告げると、笛を吹き始める。何故か、音色を美しく感じる。初めて聴いたときは、頭痛がしていた筈なのだが。魅了される音色、そう例えられる程に美しく感じられた。
「夜も深まり、鬼達も活動を開始する頃かな。そろそろ帰るべきかもしれない。もう少し、語ってみたかったけどね。来た時よりも、直ぐに着くはずだよ。魅了さえ、されていなければ」
それには答えず、笛を吹く栁湶華に背を向け、歩き出す。
手には藤の紙。
御守──。
おの意味は不明なままだが、信じておこうと決めた以上、手放すつもりは無かった。
何かが、芒畑の中を駆け抜けていった。
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