添水の霞
@Xib
添水
行く先が崩れ落ちた。
灰白色の空間が、生死ならず有りと有らゆる物を呑み込んでいた。
静寂だけが、節々に襲い掛かる。其れが真だと、有らゆる物に承認させるかの如く。
其処に、ただ一つ、蠢く男がいた。
二本の脚を震わせ、蹌踉めきながら、ふらりふらりと歩いている。
男は目を虚ろに彷徨わせ、眉を憂いの色に染め、口を真一に引き結んだまま、ともすれば崩れ落ちそうな躰を引き摺る様に、歩いていた。
歩く度、砂が舞う。灰白色に染められた砂は、宛ら骨粉の様であった。
「何処だ....此処は.....何処だ.....?」
男の虚ろな問い掛けに答える者は、誰も居ない。
何処からともなく吹いて来た風が、男の視界に霧をかけた。
砂の霧は、次第に濃くなっていく。
再び、風が吹いた。
男は目を閉じる。開いたときには、視界は灰白に染められていた。
灰白の中、風が止んだ。再び、静寂が訪れる。
永遠に、此処で彷徨う──それが、己の命──
躰が、崩れ落ちた。僅かにあった自身の光脈が、砂に掻き消されてゆく。
その時だった。何か、竹の様な物が地を打った音が聞こえたのは。
精神が浮上した時には、あの灰白の風景は無く、変わりに一面の闇が其処にはあった。
しかし、今度は何者かの声が、耳を通して僅かに聞こえてくる。
「一体、何時まで眠っているのか....」
その声は、老人を思わせる奥ゆかしい声であった。何者か考える間も無く、続いて声が聞こえてくる。
「そろそろ起きて欲しいけどね。万一の時は、蛇矛で」
此方は、少女のような幼い声であった。艶っぽい声をしているが、発言が物騒である。
双方共に、男の知る声では無かった。だが、聞いた途端、心の奥底から漆黒の闇が上がってくるのを感じていた。
それが憎悪や郷愁の感情だと、今の男には気付く由も無かった。
今は抜殻の様に、意思を持たず、ただその場に流される事を望んでいた。
それが叶わぬ願いだと、己の内にそれに対する理解があろうと、尚も望んでいる。此処を、己の処にしたいものと、抜殻が望んでいる。その静かな葛藤を、男は己の事でありながらも他人事の様に感じていた。
二度程、声が聞こえた。だが突然、老人の声が、矢の如き速さで、鋭く鼓膜に突き刺さった。
「良いから、揺するでない。少しは離れよ」
その声を合図に、眼前の闇が揺らぎ、薄れ始めた。
抜殻の居場所が──無くなっていく。危機感を感じた男は闇を引き止めようと手を伸ばしたが、闇は男を嘲笑うかの様に、手を擦り抜けていった。
光が、満ちてゆく。拒もうと手を前に出した所で、光が完全に男を包み込んだ。
重い瞼が開いた。途端に、少女らしき者と目が合った。少女は年相応の大きな黒い瞳を輝かせ、此方を見つめている。
....忌々しい、瞳。
男がそんな事を思ったのは露知らず、少女は男が起きたのを知るや、起きた起きたと騒ぎ立てる。
「やめぬか。その者が不快感を露わにしておるぞ」
視界の外から、老人らしき声の叱責が飛んだ。叱責に驚いたか、少女は急に無言になり、大人しくなった。
その様子から悄気げているのかと思いきや、そういう訳ではないらしく、瞳は尚、興味深々といった様子で此方をちらちらと見ていた。
少女は、死人の如き白い肌をしている他、歳相応の朱が映えた頬、肩で切り揃えた艶のある黒髪に、蘇芳色に染まった撫子の衣を着ていた。
少女は、男にとっては鬱陶しい、黒い輝きを持った瞳で此方を見つめてくる。あの瞳に見られる事に嫌悪感を覚え、わざとらしく少女から目を反らした。
反らした先には、老人が居た。老人は部屋の隅に正座しており、刺す様な視線で少女を見ている。
その視線に少女は気付き、
「なによ、黙ったじゃない」
と唇を尖らせる。それを聞いた老人は、冷たい声で、
「黙るだけでは、不安が残るというものだ」
と答えた。
老人は、声こそ老人ではあったが、顔は予想に反してまだ若かった。まだ四、五十代だろう。黒々とした髪を豊かに蓄え、肌はきめ細かく、瞳は今だはっきりと開いている事が、老人余計若く見せている。
しかし、薄灰色の衣から出ている筋張った細い手は、明らかに老人特有の手であった。
老人は掌程の紅い絹袋を懐から取り出し、少女に向かって投げた。
そして、少し厳しめの声で告げた。
「向こうに行っていなさい。用が済めば、呼んであげるから」
「しょうがないなあ。つまんないの」
老人に手で向こうに行くように告げれた少女は、不満を露わにしつつ、絹袋を懐に仕舞うと大人しく下がっていった。
少女が姿を消したところで、老人は男の方を向いた。少女を追い払った時とは違い、柔和な笑みを見せ、頭を下げた。
「起きて早々、子供が失礼した」
こうして近くで見ると、温厚そうな老人であった。だが、目には強い光があった。
「いや、気にしないでくれ。それよりも、此処は」
「須弥山の奥地、と言うべきかな。儂は長い間此処に住んでおったが、こんな山奥で迷い人を見たのは久しぶりじゃて」
「須弥山?」
男は思わず聞き返していた。
須弥山と言う言葉を、男は聞いた事があった。だが、何処で聞いたのか、何故知っているのかは男にも分からない。それでも、「現実」にあるものでは無い、という事の確信はあった。
老人が勝手に付けたのか、それとも現実にあったのか、或いは此処は現実では無いのか。
そもそも何故此処で目が覚めたのか、全く記憶が無かった。灰白色の世界を、廃人の様に歩いていたのは、覚えている。だが、そこから先の記憶は、完全に抜け落ちていた。
「何やら難しい顔をしておるのう。蒼士」
蒼士とは、男の名前である。名を呼ばれ、顔を上げた途端、視界に老人の顔が入った。
老人は口元を歪ませ、温厚ながらも闇を隠すような笑みを浮かべている。
「何故、俺の名を知っている」
「さてな」
老人はさも愉快げに答え、手を叩いた。やや黄みがかった歯が、目に映った。
「儂は攸と申す。先程の女子は、八聲露ノ童女。童女で良い」
「聞いてないが...。覚えてはおく」
溜息を一つ着くと、攸の方を向いた。攸が最初にしていた嫌な感じの表情は消え失せ、今は真顔で髭を扱いていた。
僅かな静寂の後、攸が口を開く。
「先程言った通り、此処は須弥山。そして、お主は須弥山の林道の外れで倒れておった。何故、あんな所におった?」
「知るか」
「覚えておらんのか?」
「少なくとも俺は知らん。覚えているのは、灰白の世界。それだけだ」
「ふむ、灰白」
それだけ言うと、老人は立ち上がった。蒼士の前を突っ切ると、窓の前の屏風をどかす。途端に、日の光と緑が蒼士の目を刺激した。
逆光で顔が暗くなった老人が問う。
「蒼士、今のお主には、何が見えておる?そのまま答えてみよ」
「答えるも何も、外だな」
「日の光はあるか?木々は見えておるか?」
「当たり前の事を聞いてどうする」
怪しむ蒼士には目もくれず、攸は外へと顔を向けた。
「そうか、それならば良い」
攸はそれだけ言うと、再び屏風を元に戻した。攸はその側に座ると、安堵した様な、穏やかな微笑みを見せた。
「どうやら、須弥山を認識した様だな」
「どういう事だ」
蒼士は眉を顰め、攸に訊く。攸はそれを待っていたかの様に、話し始めた。
「主の言っていた灰白の世界、それもまた須弥山だったのだ。須弥山は見出さなければ、決して見えぬ物だ。灰白の世界を歩いておったその時のお主は、須弥山を見出していなかった。だから、そこに居ても何も見えぬ。ただそれだけの事である」
「あの時は、須弥山が見えていなかった、という事か」
「その通り。灰白の世界は、須弥山を認識しておらぬ内に、須弥山に入ってしまった事によるものだろう」
あの灰白の世界は、今も蒼士の記憶にこびり付いている。虚ろな目で歩いていたが、それでも寂しく、同時に寂しさという美を、僅かに感じていた。
攸は一つ頷くと、
「まあ、見えておるのなら、外を少し歩いてもよかろう。動けば、何か思い出すやも知れぬ。ただし、須弥山に居るという事を忘れるでないぞ。忘却は須弥山を霧に隠す」
と外に出る事を勧めてきた。
眠っている意識を目覚めさせるには、動くのが一番だ、と判断した蒼士は、攸に同意し、
「そうだな」
と答えた。実際、あまり気乗りはしていないが、何か切っ掛けが出来ればと、期待する気持ちを抑えきれなかったのである。
「決まりだな。付いてきなさい」
歩き出した攸に、蒼士も付いて行こうと立ち上がったが、足の力が突然抜け、その場に崩折れた。
動かそうとしても、足は一切の命令を受け付けず、鉄の様に重く、動かせない。
「流石に起きたばかりでは、歩くのも辛いか。少し待っておれ」
そう言い残し、攸は部屋の奥に引っ込んだ。何やら扉を開けたような音がした後、漆の塗られた器を手に、戻って来た。
「ほれ、飲むとええ。恐らく、飲み終わった頃には、立てる筈」
差し出された器を手に取る。器には、透明な液体が半分程、入っていた。
「毒は無いから安心しなさい」
器を受け取ると、黙って一気に飲み干す。飲んだ途端、液体が体中に染み渡るのを感じ、漸く体力を失っている事に気が付いた。
今なら立ち上がれる、と判断しもう一度立ち上がってみる。少し蹌踉めいたが、今度は立つことが出来た。歩く事にはやや不安を感じるが、足が命令を聞いている分、大丈夫な筈だと言い聞かせる事が出来た。
「迷惑かけた。もう、大丈夫そうだ」
「その様だな。念の為、杖でもいるか?儂のものだが、あるにはあるぞ」
「いや、いらん。無くても歩ける」
「若者に杖は不要か。ははは.....」
老人は再び歩き出す。今度は蒼士も付いていくことが出来た。
部屋を出れば、田舎風の廊下が続いていた。廊下は狭く、そして薄暗く、人一人が通るので精一杯の広さである。その先にあった、玄関もまた、狭い。何故か靴は一足も置いておらず、代わりに隅の方に、小柄な花が一輪、生けてあった。
っや立て付けの悪い引き戸を開ける。その途端、あの屏風をどけた時と同じ光が、再び蒼士の目を刺激する。
青々とした、木々。木々の間からは鶯が、やや音程の外れた声で時の流れを告げている。緑を失った枯葉は色彩の絨毯となり、土を覆い隠していた。
すぐ側には、璃寛茶を更に濁した様な色の池が広がっており、先端が枯れた色をした草が、何本か水面から飛び出ている。水面から顔を出した流木の上で、数匹の亀が日光浴をしていた。その直ぐ側には、流木に乗り損ねた亀が、所在無さげに木の周りを泳いでいた。太陽の光は、木漏れ日となって夕と蒼士の上に降りかかる。
「あ、蒼士。爺」
一本の木の傍にしゃがみ込んでいた童女が、笑顔で手を振ってくる。手にはあの、絹袋が握られていた。
「何か見つけたか?」
「ちょっと、ね。はい、爺」
絹袋を持つ手とは逆の手を攸にむけて伸ばす。その手には真紅の花が握られていた。
「ほう、深見草。今年は綺麗に咲いたのか」
「ちゃんとお手入れしたもん。特に綺麗なの選んだから、ちゃんと部屋に生けておいてよね」
童女の膨れ顔に、老人はすまなさそうに頭を掻いて、
「分かった、分かった。去年は散々恨まれたからな。今年はやらなくてはな」と笑顔で言った。
「また同じ事したら、許さないから」
「はいはい」
蒼士はその会話を一歩離れて聞いていた。
蒼士にもわからないが、手が震えていた。無意識に唇を噛みしめる。何故、こんな行動を取っているのかは、自身にも不明である。だが、一種の後悔が、そこにはあった。
童女はそれに気付いたか気づいていないのか、蒼士の元に駆け寄る。足元まで来ると、懐から茜色の深見草を取り出した。
「はい。これ蒼士の分」
「.....は?」
「良いから受け取ってってば」
戸惑う蒼士の手に深見草を押し付けると、「これで良し」と童女は頷き、再び木の傍に戻り、先程と同じ様にしゃがみこんだ。
「何で、俺に」
唖然とする蒼士に、老人は目を細めて答えた。
「童女なりの好意かの」
「....嫌な推測だな」
押し付けられた深見草を見る。花には詳しく無いが、確かに、形が良いのは分かった。茜色は、日の光を受けて更に白く輝いていた。
「お前が持っていてくれ」
「勿論。預かっておくとするかのう」
攸は深見草を受け取り、意味ありげに笑うと、こっちだ、と枯葉の道を踏み出す。
池の、丁度反対側だろうか。そこまで行った所で、攸は足を止めた。
「あれが、見えるかの」
攸に言われ見ると、池の側に、一つの添水があった。見た目は、なんの変哲もない添水である。
だが、水が流れ出すのを待っても、竹筒に動く気配はない。竹筒はただ静かに、流れ続ける水を受け止めている。
「あれは、須弥山の頂から採った竹でな」
ぼうっと見つめる蒼士の間を擦り抜け、攸は添水へと歩き出す。
「普通の竹とは違っていての。よって、その辺の添水とも違う」
「だから、反転しないのか?」
「簡単に言えばな。だが、反転しない訳では無いぞ」
ほれ、と攸は人差し指を動かした。来い、の意思表示だ。
大人しく近寄ると、攸は竹筒を指差す。
「覗いてみなさい」
言われた通りに、竹筒を覗く。中も、極普通の見た目であった。だが、水が入っても、その嵩は一向に増えることがなく、常に半分を保っている。
「嵩が....増えない」
「その通り」
竹筒の水面に、攸の姿が映った。振り向くが、攸は離れた位置で、池の側にある石の上に立ち、蒼士を見つめている。
もう一度竹筒を覗いてみる。今度は、攸の姿は無かった。
「須弥山の竹は、鳴る時にしか鳴らない代物でのう」
攸は淡々と語り始める。
「本来ならば、その効力を失うが、生憎此処は須弥山。その竹が須弥山にある間ならば、ただの竹にはならぬ。鳴るべき時が来た時にしか、鳴らぬ」
「しかし、それは何時」
「そればかりは、儂も鳴る直前しか察する事は出来ん。何時鳴るかなど、天帝位しか予知出来んのではないかな。....ん?」
攸は突然、しかめ面をすると、空を見上げた。蒼士もつられて空を見るが、只の青空が広がっているだけであった。
「どうした」
「──来る」
「え?」
「下がれ、鳴る」
攸に手で下がるように伝えられ、慌てて数歩下がる。すると竹筒がゆっくりと傾きだした。
中の水が数滴、池に零れ落ちる。そして、一気に反転した。
かこん、という音が、庭中に響き渡った。
驚くべきはその余韻であった。十秒経っても、その余韻は尚、静かに庭を震わす。
何秒経ったのか。余韻が、完全に消えた。
「凄いよね、この余韻。だから須弥山を離れたくないんだ、あたしは」
いつの間にか、童女が直ぐ傍に立っていた。
「そういえば、そんな事を言っておったのう、ははは......」
老人が笑うと、童女が懐かしそうに目を細めた。
「懐かしいなあ。何時だったっけ、此処に来たの」
「それを老いぼれに聞くな。記憶力もないと言うに」
「元から期待してないから大丈夫」
二人の会話は、蒼士の耳には届いていなかった。余韻の消えた今もまだ、耳が余韻に支配されていたからだ。
竹筒の音は、極楽か地獄か、この世の物とは思えない音だった。
まるで、世の無常、煩悩、虚無を全て語っているような音である。常人が聴くべきに値するのか、それを考えてしまう程であった。
再び水を貯め始めた竹筒は、先程の音を忘れたかの様に、其処の時に、静かに融けていた。ただ、流れ出る水を受け止め続ける。再び、流れ出す時が来るまで、再び。
....ざわめいている。
白と黒の混じった、灰色の、混沌とした大地。
混沌を、命が鮮やかに彩る。その鮮やかさが、人には残酷だった。
天は、混沌を見つめていた。眼は無くとも、見つめることが出来ている。
その中に───混沌の、中に──一人──
水面、炎と化す。
「蒼士?」
童女に袖を引っ張られ、蒼士は我に返る。
「蒼士、どうしたの?具合でも悪いの?」
「....いや、少し、な」
頭が、痛かった。今のは、一体。
頭を押さえる蒼士を見ていた攸は、一つ呟いた。その言葉は風に流れ、蒼士には届かなかった。
「煩悩、溺れて沈む事は無し、かの。のう、添水」
添水は、言葉にならない答を返した。
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