期待の大型新人と雲クリームの反乱2

 そう言いながら、履歴書もなしにやってきた人間を雇えと言われて、雇うオーナーがいるだろうか、と不安になる。

 固唾をのんで返事を待っていると、八代は突然破顔し、蒼衣の背中を勢いよく叩いた。


「やっとその気になったかぁ、蒼衣!」


「うわっ! って、その気、ってどういう意味?」


「俺以外の人間と、働く気になったんだなあと思って。いいじゃん、成長してるじゃん、パティシエくん。良い傾向だ」


「それじゃあ」


「蒼衣の師匠の息子さんなら身元もはっきりしてるし、人手不足だし。いいんじゃないか? なにより、蒼衣が自分から『やりたい』っていうことを、無下にできないしさ。他人が困ってるのをほっとけないのが、天竺蒼衣だろ?」


「八代……いつも、ありがとう」


「いいってことよ」


 心強い友人に感謝を述べたあと、二人が喫茶に戻ると、広江はペットボトルの水を飲み干しているところだった。


「ちゃんと全部飲んだか? 具合はどうなんだよ」


 広江の隣に立つ幸久は、ぶっきらぼうだがどこか気遣わしい声で訊ねている。


「問題ないわよ、心配しないで」


 彼女の手元に、ピルケースが見える。


「師匠、どこか具合が――」


 広江は「夏の暑さでちょっとね」と蒼衣の言葉を遮るように言いながら、ケースを鞄に滑り込ませる。


「それより、作戦会議の結果はいかが?」


 上目遣いで広江が尋ねる。広江の向かい側にいつの間にか座っていた幸久も、蒼衣を黙って見据える。


「幸久くんを弟子にする話……僕でよければ、お受けしたいと思います」


 幸久が息をのんだ表情で蒼衣、そして広江を見る。


「約束、守ってくれるんだろうな」


「ええ。もちろん。じゃあ、それで決まり。ふつつかな息子ですけど、よろしくお願いします、天竺シェフ」


 広江は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

 とりあえず、丸く収まったように思えた蒼衣は、胸をなで下ろす。


 ……それは間違いだったのだと、蒼衣は後々に知ることになる。


::::


「すごい洗い物の山ですね」


「あ、そ、そうだね」


 なんの気も無しに吐かれた幸久の言葉に、蒼衣は声をひっくり返しながら答える。

 幸久の視線の先には、シンクの中から外まで山のように積まれたボウルやホイッパー、天板がある。

 幸久は平日夕方からと、土日祝日、朝から夕方までの出勤をお願いしている。

 今日で三日目、初めての平日短時間勤務だ。


「生地の仕込みが多かったんだ、ごめんね。申し訳ないけど、洗い物よろしくお願いします」


「了解しました」


 幸久に割り振った仕事は、洗い物と片付け、店頭販売の補助である。ついつい厨房の片付けを振ってしまい、まだ数えるほどしか店頭に立たせていない。

 蒼衣は、ちらちらと幸久の背中を追いかける。

 シンクの前に立ち、腕まくりをした幸久から、


「これ、俺が一人で洗うのかぁ」


 と、つぶやく声が聞こえ、蒼衣は肩をびくりと震わせた。

 幸久からぽろりとこぼれる本音の危うさに、蒼衣はひとり、肝を冷やす。

 彼は、生真面目な蒼衣からすると、やや浮ついた人物に見えるのだった。

 洗い物は、新人のやる仕事だ。魔法菓子店だろうが、普通の菓子屋だろうが変わらない、基本のキである。そして、職人の世界は広江の言葉通り、上下関係が厳しい。以前の職場なら、幸久の発言はすぐに諸先輩やシェフの反感を買うだろう。下手すれば、怒声と共にミルクパンや麺棒が飛んできてもおかしくはない。 

 愚痴を言い合える同僚や、さりげなくたしなめてくれる先輩がいればマシだが、今の蒼衣はただの先輩ではなく、この厨房を取り仕切るシェフパティシエである。

 たった一人しかいない上司に逐一注意されるつらさは、蒼衣自身が「パルフェ」で体験したことだ。

 余計な一言をたしなめる、にしても、すでに洗い物に集中しはじめてしまった彼の手を止めてまで、注意することだろうか、とも思う。はじめからガミガミとうるさく当たっては、関係を築く妨げになりはしないかと恐れているのだった。

 そういえば、この二日間、彼と雑談らしい雑談ができなかったことを思い出した。


――「大学はどう? デザイン学部なんてすごいねえ」


――「別に、すごいとか……普通に入学して入りましたし」


――「お菓子、好き?」


――「まあ、好きですけど」


 と言った具合で、思い出すだけで胃が痛くなる。自分でもダメなコミュニケーションの仕方だとは思いつつも、あまりプライベートなことを聞くのも失礼だろうと蒼衣は思うし、おまけにこちらをにらむように見てくるものだから、会話をしたくないのだろう、と怯んでしまうのだった。

 そしてもう一つ、蒼衣が口うるさく言えない理由がある。

 三蔵幸久は、新人にしては手際が良い。

 今も、生地がべったりついたビーターをたわしでこすっている。その手際は、つい三日前にアルバイトに入ったとは思えないほど慣れたものだ。

 食洗機は、初期費用を抑えようとなるべく状態の良い中古を仕入れたのだが、食品カスが付きやすいので、結局手作業である程度汚れを落とさないといけない。

 それを初日に伝えようとしたら「知ってますんで」とにべもなく言われたのだった。

 基本的なことを細かく教えずともやれる器用なタイプ――細かいことを注意するのもおっくうになってしまう。

 意気込んで師匠に「やります」と言った手前、ここまで鮮やかな手際をみた蒼衣は、なにを言ったらいいのだろうかと悩んでしまうのだった。いっそのこと手取り足取り教えてくれと言われたほうがマシだと天を仰ぎたくなる。

 頭の中でぐるぐると考えているそのとき、ふいに声がした。


「あの、ジェノワーズなんですけど」


「へ?」


 幸久が、一時間前に焼き上がったジェノワーズが並ぶ天板ストッカーを指さしている。


「しまったほうがよくないですか? もうあら熱取れてますよ。おとといも、シェフが忘れかけてたから声かけたんですが」


 彼の言葉に蒼衣の血の気がさあっと引く。幸久の言う通り、蒼衣はおとといの仕込み時、ジェノワーズをを片付けないまま帰宅しようとしていたところ、幸久に教えてもらったのだった。

 あわててラップで包み込み、日付を書いて急速冷凍庫へしまう。ありがとう、と幸久に礼を言うと、彼は憮然とした表情になって、

「これじゃあ、どっちが弟子だかわからない……」


 と、つぶやいた。


「――?!」


 どう返したらいいものか。というよりは、これは怒るべきなのか、同意すればいいのかわからず蒼衣は絶句する。


「次、なにすればいいですか、シェフ」


 混乱する蒼衣をよそに、幸久が指示を仰いでくる。やっとのことで息を吐き出し「明日は定休日だから、五徳の掃除を……」と言うやいなや、幸久は「了解です」と短く答え、コンロの前にさっさと行ってしまった。



 仕込みをしつつも、冷蔵・冷凍庫の中を調べ、廃棄すべきクリームや材料がないかを見る。やり残した作業がないか確認する。パイローラーや大理石の台の下など、普段では行き届かない掃除をする。水曜日の大まかな予定を書き出す……。

 定休日前の作業を終えた蒼衣は、厨房内に幸久がいないことに気が付いた。頼んでおいた五徳は、コゲ一つない綺麗な状態で洗い上げられていて、きちんと風通しよくなるようにコンロに置かれている。

 まさか、声も掛けずに帰宅したのか。いやいや、二日間は「おつかれさまでした」の一言はあったのだから、そこまで無礼な子でもないはずだと思った蒼衣は、店頭を見てみることにした。

 すると、焼き菓子の小さな棚の前で、佇んでいる幸久がいた。

 上から下までじっくりと見つめる視線は真剣で、面影に広江を感じる。ああ、親子なんだなぁと思っていると、彼の視線が一つのお菓子に集中していることに気が付いた。

 透明で、マチのついた縦長の袋に小さなフィナンシェが詰め込まれ、ロゴシールと細いリボンでラッピングされた『金のミニフィナンシェ』だった。


「それはね、うちの焼き菓子で一番の売れ筋なんだ。興味がある?」


 そっと近寄り、声を掛ける。


「ここでも売ってるんだ、って思って」


「師匠のレシピを拝借しててね。僕にとって、大切な焼き菓子でもあるんだ。このフィナンシェは」


 金のミニフィナンシェは、蒼衣のオリジナルレシピではなく、師である広江のものを使っている。

 九年前、広江に救われ、リベルテで働いている頃に知った菓子だった。蒼衣に差し伸べられた手から漂う、甘くて香ばしい香り。稀に現れる、小さな小さな金の粒は幸運のお守りであり、たとえ「あたり」でなくとも、焦がしバターの豊かな風味は、心身ともに多幸感を得ることができる。もともと焼き菓子は好きだったが、金のミニフィナンシェに出会って以来、いっそう愛着が深くなった。

 日常に寄り添う、やさしく小さなさいわい。それが蒼衣の欲しかったものであり、蒼衣の思う、魔法菓子のあり方のひとつだと信じている。それを教えてくれたのは師である広江だ。

 ……と、詳細に話しそうになり、はっと口をつぐむ。自分の話ばかりじゃないか、と。ふと「自慢と昔話と説教をしたくなったら歳をとったと思え……って最近見かけて」とぼやいていた八代の言葉を思い出し、あわてて幸久に話を……たとえば、フィナンシェは好きなのかと聞こうとした瞬間だった。


「――」


 幸久は、まるで息をするような、とても小さな声でなにかをつぶやいた。


「えっ、今、なんて言っ――」


 蒼衣の声に、幸久が一瞬顔を向けた。が、その目に浮かぶのは、拒否……おおよそ友好的とは言い難い表情で、蒼衣は二の句が継げなくなった。


「……上がります。お先に失礼します」


 極めて冷静な声音で言い放った幸久は、棚から、そして蒼衣からも顔を背ける。


「お、おつかれさま」


 なんとか返事はした蒼衣だったが、そのまま勝手口に消えていく幸久の背中を見つめるだけしかできなかった。

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