自由の夢を描くペン・エクレア8(終)
「評価、低かったなあ」
十月下旬の放課後である。まばらになった教室で、明美は自分の原稿を見ながらつぶやく。
だが存外に心は重くなく、むしろ書き切った達成感に包まれている。
九月に出された課題――お店を舞台にした読み切り漫画の評価は、散々であった。意味のないコマ、描き込み過ぎの背景はゴチャゴチャし過ぎ、オチもわかりにくく、なんの話かわからない……等々。
しかし、店内の詳細な描写、意味不明なオチでも見入ってしまう最後のコマの絵は良いというコメントを貰った。モデルにした店の二人にも見てもらったが、あからさまに否定はしないにしろ、似たような感想だった。だが、二人は自分らの店が漫画になったことがうれしかったのか、しばらく店先にコピーを置かせてほしいと頼まれた。
「やっぱり、早野の絵はいいよなあ」
うらやましげな声と共に、横から原稿をのぞき込まれた。振り向けば、そこには田中がいた。
「A+評価の田中先生が言う台詞じゃないよ」
「先生はやめてよ。ほんと、早野の絵、めっちゃ綺麗だし、見入る。あー、俺もそのくらい綺麗な絵だったらな~」
はーあ、と大きなため息をついた田中は「実は読み切り、反響良くなかったんだ」と、明後日の方向を見てぽつりとつぶやいた。
だが、すぐに明美に向き合い、肩をすくめる。
「またせっせと作品仕上げて持ち込みの日々だよ」
「百本プロットノックはどうしたの」
「ぜーんぶボツ! 適当に描いたのも混ぜたら『適当に作ったのはちょっと見ればわかる。あなたの良さは話なんだから、もう少しプライドを持って。絵は下手でもいいです』って厳しく言われちゃった」
「田中も大変なんだね」
「まあね。でも、やっぱり、絵が綺麗なやつを見るとほんとグヌヌって悔しくて仕方ない」
そのとき初めて、明美の原稿を見た田中の目が変わった気がした。
「田中でも悔しいって思うんだ?」
「そりゃあ思うよ。特に、早野の絵は。そういや、依頼があったんだって?」
先日、SNS経由でイベント企画企業から、地方イベントのポスターデザインの依頼があったのだ。
課題を仕上げてから、明美は毎日ひたすら、自分が「綺麗」「良い」と思う絵をSNSで上げていた。評価ももちろんうれしかったが、以前ほど気にしなくなった。ただただ、自分のやりたいことを続けてみたかっただけだった。
先方曰く、明美の絵にはひとを引きつける力があるという。明美が得意とする緻密な線は、幼少期からの積み重ねだ。だが、ただ「綺麗」というだけを表現するだけではなく、対象の美しさや感情を「絵」に表すからだろう、と、打診のメールには書いてあった。
「打ち合わせとか、イメージのすりあわせが大変みたいだけど……精一杯がんばるよ」
初めてのことだが、自分の「良さ」が求められたうれしさで一杯になる。
「お互いにがんばろうぜ。あ~、でも今だけ言わせてくれ~、俺も早野みたいな絵かきてぇ~~」
「あーあ、私も田中くらい上手い話が描けたらな~。はは、ないものねだりだなぁ」
憧れ、うらやましがる気持ちを殺さなくても良い、と教えてくれたのはあのパティシエだった。
「だな。ないから、自分の持ってるモンで勝負するしかないんだろうな」
同時に、自分のことを……良さを愛して大事にすることも忘れてはいけないと伝えてくれた。田中は前からわかっていたのだろう。だから彼はこんなにも前を向いている。それに気づけず拗ねてしまった自分が情けないけれど、それもまたよい経験になると信じたい。
「そうだね。お互い、がんばろう」
明美の言葉に、田中もうなずく。
原稿料でピロートのお菓子を買うのを楽しみにしよう。明美はそう思うと、早く鉛筆を握りたくなる。原稿をしまい込み、教室を出る準備を始めた。
:::
「いかがでしょうか」
時は九月最終週の月曜日、夜のことだ。魔法菓子店 ピロートの喫茶の一席に座る蒼衣は、緊張した面持ちで尋ねた。
蒼衣の目の前に座るのは、師である三蔵広江。電話での宣言通り、彼女は休暇を取り、名古屋まで観光にきていたのだった。
エクレア――フランス語で稲妻を意味する通りに素早く食べた広江は、席を立ちあがる。やがてすっすっと空中に絵を描き始めると「ふうん」と口の端に笑みを浮かべた。
「かわいいネコちゃんが描けた」
ほらかわいい~、と広江が指差す先には、宙に浮かぶ小さなネコのイラストがキラキラ光っている。はしゃぐ様子から伝わる「感情」は楽しさにあふれているが、それはあくまで個人の「感情」でしかない。
職人としての判断は感情だけでできるものではない。故に、蒼衣は安心出来なかった。ひとしきり絵を描いて満足した広江が席に戻る。
「シュー生地をペンに、クリームをインクに喩えたって感じでいいんじゃない? もちろん味もね。スペシャリテのプラネタリウムと似ている星をモチーフに使いながら、食べた本人の想像力にも訴えかける魔法効果、見事だと思う。これぞ、お客に寄り添う天竺蒼衣の魔法菓子――課題は合格です」
合格、の言葉を聞いた瞬間、蒼衣がふーっと息を吐き出す。
「ありがとうございます」
傍らで様子を見守っていた八代が「よかったなあ!」と肩を叩く。
「店長さん、本当になにも意見しなかったの?」
広江は薄い笑みを浮かべ、小首をかしげて八代に視線を投げた。
「俺はなにも意見なんて言ってませんよ。ウチの優秀なシェフパティシエが一人で右往左往しながら考えてました。試食のお役目すらできなくて残念なくらいです」
八代はいつも通り、ユーモアを交えつつ、うまくはぐらかしてくれている。
蒼衣は八代に直接の意見は求めていないし、試食もしてもらっていないのが事実だ。なにせ師匠が指定したのは「店長さん」である。約束を破ってはいないはずだ。
広江はそんな八代を見て鷹揚に肩をすくめる。
「それは店長さんに悪いことをしたわ、ごめんなさい。身近な存在や同業に意見を聞くのも大事だけど、時には別の世界の刺激があっても面白いと思ったのよ。そういう意味で、店長さんには聞くな、って言ったの。――ま、あれだけバズってたら、創作意欲が刺激されるわよね」
「師匠、ご存じだったんですか」
クスクス笑いながら、広江はスマートフォンを出す。おそらく、早野の絵を見たのだ。
「まあ、一応私もスマホくらい持ってるからね。SNSのチェックくらいするわよ。蒼衣くんは相変わらずガラケーなの?」
「えっ、あっ、はい」
「便利よスマホ。声でも反応するし。いろんな写真見れるし」
いつの間にか、年下どころか年上でさえスマートフォンを使いこなしていることに疎外感がないとはいわない。が、いまいち踏み出すきっかけがつかめない。
未知の世界へ踏み出すのは、いつだって怖いのだ。
「ええ、まあ、そのうち……」
蒼衣がごまかし答えたそのとき。
広江が腕時計を見て「そろそろだな」とつぶやく。すると、客の来店を告げるベルが鳴った。
広江は、接客をするために動き出す蒼衣と八代を「そのままで良いわ」となぜか制止する。
戸惑っていると、入ってきたはずの客は無言のまま、蒼衣たちがいる喫茶スペースに向かってくる。慌てて声をかけようとする前に、広江が「私の連れよ」と言った。
客は、大学生くらいの男性だった。黒いTシャツにジーンズのシンプルな服装だが、センスがいい。背の高さも、百七十二センチの蒼衣よりも高く、背中に背負ったバックパックが小さく見える。
染めたであろうお洒落な茶髪に、小さなピアス。きりっとした眼差しは整っていて、雑誌やテレビで見かけるような「イケメン」モデルのように華やかだ。
若干、苦手なタイプだな、と心中だけで思っていると、男性は「どうも」と小さく頭を下げる。
「蒼衣くん、気付かない?」
「へ?」
なにを気付けというのだろうか。以前会ったことがあるのかどうか――頭をフル回転させても思い出せない。蒼衣は空気を読むのも下手だが、ひとの顔を覚えるのも苦手である。客や製菓関係者はなんとか特徴を捉えて覚えるように努めているものの、それでも完璧とは言えない。
「失礼ですが、どなたでいらっしゃいますか?」
「これだけ図体が大きくなったらわかんないかな」
「大きく……?」
「息子。私の息子よ」
「――
その昔、広江の店で修行していたとき、まだ小学生だった彼が、まれに仕事場へ顔を出していた記憶はある。だが、蒼衣が店を辞めるころには、中学の部活が忙しいとかで、会う機会が減っていた。蒼衣の記憶では、まだ幼い小学生の姿だったが故に、同一人物とは思えなかったのだ。
子どもの成長は早い、と感慨深さに浸っていたが、覚えていなかったのは失礼だったと思い直した蒼衣は「わからなくて申し訳ない。立派になってたので……」と、しどろもどろになって謝る。
幸久は、じろりと蒼衣を見る。無言で見つめられると、年下だとわかっているのに、思わず背筋が伸びる。
「俺もあんまり覚えてないんだけど……このひとが母さんの弟子?」
どこか訝しげな口調は、あまり良い印象でないことがうかがえる。
「アンタ、これからお世話になるシェフになんてこと言うの。ごめんねえ蒼衣くん、この子反抗期ですっかり口が悪くなっちゃって」
謝ってはいるものの、まだわずかに感じる「気持ち」には、なにかを企んでいるものが混じっている。
はたと、何気なく発言された単語が引っかかる。
蒼衣は「ちょっと待ってください」と詰め寄った。
「『これからお世話に』って、どういうことですか」
夏に突然万寿氏と引き合わせたり、課題を出したりと、広江の言動が突拍子もないことはわかっていたが、こうも唐突だと、蒼衣もほとほと参ってしまう。
広江はクスクスといつもの笑いを浮かべる。
「蒼衣くん、弟子を取ってみたらどう?」
「――で、弟子ぃ!?」
店内に、蒼衣と八代の素っ頓狂な声が響いた。
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