自由の夢を描くペン・エクレア7

「あ……!」


 一歩引いて見てみると、明美の斜め上の空間には、青年の顔が浮かび上がっている。ラフなスケッチ画のようだが、はらりと落ちる髪の毛の繊細な表現、愁いを帯びた目元は輝きの中にあってもつぶれることなく精密だ。電車の中で殴り描いた絵とは明らかに違うそれは、確かに明美の絵だった。


「すごく、素敵な絵です。綺麗です」


「いやはやすごいなあ、リアルタイム!」


 蒼衣と、いつの間にか見に来ていた八代に褒めちぎられるが、当の明美は半ば放心状態だった。

 全身から力が抜けて、すとんと椅子に落ちるように座る。


「夢中で、描いてて……絵、描けなかった、のに。すごく、のめり込んでしまって……でも……私……絵は……」


 まだ呆けている明美を見た蒼衣は「差し出がましいようですが」と前置きし、


「なにか、思い悩むことがあったのですか」


 と、遠慮がちに尋ねてきた。

 言い当てられた――という驚きよりも、優しい、気遣わしい声が明美の胸に響く。


「――私、漫画が描けないんです」


 自然と、言葉が出ていた。

 えっ? と蒼衣と八代は戸惑う。漫画の専門学生で、絵も描けるのに「漫画が描けない」なんておかしいだろう。二人の反応は当然だった。


「絵は描ける、んですけど、コマ割りとか、お話とかが全然ダメで。絵だけじゃだめ、って何度も言われてて」


 話し出せば、止まらない。


「友だちの描いた漫画が、今度雑誌に載るんです。デビューしちゃったんです。悔しかった、んです。喜べなかったんです。漫画が描ける友だちが、うらやましかった。評価されている彼が、ねたましかった」


 明美は心の中にたまっていた思いを、涙を流しながら吐き出す。それも、初対面のひとの前で。いけないことだ、ダメなことだと思っても、涙も、言葉も止まらなかった。


「絵だけ綺麗でもダメだって、他のクラスメートも言ってて……がんばって描いた漫画も評価少ないし、持ち込みでもぼろくそ言われたし……っ。漫画、描きたいのに、うまく、いかなくて……私……」


 そんな自分が描いた空中に浮かぶ絵は、本当に「素敵な」絵なのだろうか。改めて見ることが出来なくて、ぎゅっと目を瞑る。


「早野さん」


 優しく名前を呼ばれ、思わず顔を上げる。蒼衣が、少し泣きそうな顔でこちらを見ていた。

 それは、まるで自分の気持ちの痛みを一緒に味わって――分け合っているような感覚だった。さっきもそうだったが、彼は明美の心の内がわかっているようだ。だが、決して土足で上がっていくわけではなく、痛いところに優しく手当をしてくれる心地で、不快なものではなかった。


「実は、ペン・エクレアの魔法効果は空中に絵が描けること、だけではないんです」


「……え?」


 絵が描けてしまうだけでも驚く効果なのに、と明美は思う。


「これを食べたときに描く絵は、本当にそのひとが好きなもの、大切にしていること、得意にしていることを表してくれるんです。クリームに使っている『天の川の星砂糖」と、チョコレートを混ぜるとできる香気成分――ちょっと不思議な甘い香りがしたと思うのですが、それのリラックス効果です」


 にこり、と蒼衣が笑った。


「でも、なかなか信じられませんよね、自分の得意なことは。他人の持っている素敵なものがとてもうらやましくて、仕方がなくて、苦しい。自分の力を上手く生かせない歯がゆさもあって、つらいと思います」


 しみじみと語る蒼衣にも、似たような経験があるのだろうか。よく考えれば、ジャンルは違えど彼はなにかを作り出す職人である。


「職人さんも、そういうことがあるんですか?」


 ヒントが見えそうだ。明美は、蒼衣に尋ねる。 

 すると蒼衣は「ありますよ、つい最近も」と照れた様子で答えた。

 蒼衣は、エクレアを見やる。


「僕のお菓子は、見た目は派手ではないけれど、だれかを一瞬でも楽しく、しあわせにするために寄り添うおいしい魔法菓子。それでも、別の素敵な魅力を持つものに憧れてしまいます」


 そこで一旦言葉を切った蒼衣は「ですが」と言葉を続ける。


「僕の魔法菓子を求めてくれるお客さまがいます。信じてくれる友人がいます。その良さと、僕の憧れるお菓子の『良さ』とは、違うモノなので、無理矢理比べてもだれも幸せになりません。もちろん、自分も」


 話の作れる田中の良さを欲しがって、自分にそれがないのだと嘆いていた自分を思い出した。


「でも、憧れから学んでいくのはいいことだと思います。後々、自分の『良さ』にしていくことはできるかもしれませんし。だから、憧れの気持ちも大事にしながら――なによりも、自分の良さを愛してあげてみてください。この『ペン・エクレア』も、あなたの良さの一部がありますから」


 すいません、つい、おしゃべりしてしまいました、と蒼衣は恐縮するが、明美は首を振る。


「パティシエさん、このエクレア、すごくおいしかったです」


 宙を見上げる。ちょうど、きらきらと星が瞬いて流れていくように、絵が消えてしまうところだった。あんなに綺麗に描けていたのになあ――素直にそう思える自分がうれしくて、口元に笑みがやっと浮かんだ。


「揮発性の高い雲のクリームも使っているので、消えるのが早いんです。こちらこそ、食べてくださってありがとうございます」


 逆に深々と頭を下げられた明美は「わ、私こそ!」と立ち上がる。


「絵を見てくださって、綺麗って言ってくださって……本当にありがとうございました。課題も精一杯がんばるけれど、自分の良さをもっと大切にしたいな、って思ってます。完成したら、お店にお持ちしても良いですか?」


 漫画の課題は、今の自分の力を出しきればいい。素敵なお店が舞台の、優しい話でも面白いかもしれない。


「ええ、是非お待ちしています。さあ、好きなだけ資料をどうぞ。写真でも、スケッチでも。ほんの少しなら、厨房もお見せしますよ」


「ほんとですか!?」


 蒼衣の申し出に、明美はいそいそとスマートフォンのカメラを起動させる。たくさん資料を撮って、このお菓子屋さんの良さをたくさん自分の材料にしよう。そして、今度は宙にではなく、自分のキャンバスに自分の絵を描こう。

 明美は胸一杯に期待を膨らませながら、こちらですよと手招く蒼衣の後を付いていった。

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