自由の夢を描くペン・エクレア6
無我夢中で駅まで戻り、帰りの方向の電車に乗った後。明美は、乱暴に手を動かし、スケッチブックに思いつくまま殴り書いていた。
しかし、コマ割りも浮かばず、もちろんのこと話などみじんも浮かばない。そしてもちろん、絵もぐちゃぐちゃで、到底良いものとは言えなかった。
スケッチブックをかき抱きながら、苦しい気持ちは涙になって流れだす。
絵すら描けない今の自分は惨めだ。田中が明美の絵をうらやましがっていたことは、すでに記憶から消え去っていた。
無価値だ、惨めだ、最悪だ――胸中で暴れ出す負の感情に対して、ただただ衝動を抑えようとするのが精一杯。
ふと、足下に紙が落ちる。拾い上げるとと、それは以前食べたケーキ屋のカードだった。
「魔法菓子店、ピロート……」
スケッチブックを開けば、あのとき描いた絵が目に入る。口に広がる甘さと共に、田中や店のひとがほめてくれたことを思い出す。
震える手でスマホで経路検索し、店の場所を確認した。
描けないのに、なにかをしなければいけない。ならば動かなければいけない。その思いに突き動かされるまま、ただただ、ピロートの名前の映る画面を眺めることしかできなかった。
地元駅である彩遊市駅からバスに乗って、「魔法菓子店 ピロート」に辿り着く。ドアを開けた瞬間から甘い香りが立ちこめ、目の前に見えるショーケースには、たくさんのケーキが並んでいる。
いらっしゃいませ、と愛想の良い眼鏡の店員が現れた。
なにかをしなければ、という焦燥感に突き動かさたままの明美は、ここぞとばかりに課題のための取材の依頼――自分の身分、資料の撮影や、店内をじっくり見たいことを告げる。
「以前、この絵を描いたものです。コメント、ありがとうございました」
さらに、怪しい者ではないと主張するため、スケッチブックに描かれた『プラネタリウム』をモチーフにした絵を見せる。騙りではないことを示すためだ。
「ああ! あの絵の! いやいや、こちらこそありがたいですよ。僕は店長の東です。そうか、専門学生さん……すごいなあ」
シェフパティシエと相談するので、と一旦厨房に引っ込んだ店長を待つ間、試食として渡されたミニマドレーヌを食べながら、きょろきょろと店内を見渡す。存外普通のケーキ屋の風貌で、母の言っていた通りの親しみやすさだ。
「お待たせしました『魔法菓子店 ピロート』シェフパティシエの天竺蒼衣と申します」
厨房から出てきたパティシエ・天竺蒼衣は自己紹介をしたのち、明美の顔をほんの一瞬だったが、見つめた気がした。その後、慌ててコック帽を脱いで、再度頭を下げる。その瞬間に現れた長い髪と整った顔立ちに、明美はほあ、と思わず間抜けな声が出る。美形とは聞いていたが、どちらかといえば「イケメン」というよりは「美人」という単語が似合うタイプのそれである。しかしのどぼとけは確かに存在するし、そもそも発せられた声は穏やかとはいえ男性のそれだ。
このひとが、あのケーキを作ったのか。
職人という厳つい響きとは正反対の優しげな目元、さらさらとしてそうな長髪は、細かく絵に描いたらまさに美人画になる――ちらりと頭に浮かぶ気持ちはすぐに、どうせ「綺麗に」描けるだけで「漫画」にはならないのだと思うと、褒められたのがわかっていても、気分が沈む。
すると、蒼衣の眉がぴくりと動くのが見えた。
「ええと、お名前は……」「早野さんだ」「うっごめんなさい」というやや間抜けな問答が聞こえてきて、天は二物を与えずという言葉が頭に浮かぶ。
お見苦しいところを申し訳ないです、と恐縮した蒼衣は、こほん、と小さな咳払いをする。
「僕はネットとか普段見ないんですけど、店長に教えてもらって、あなたの絵を拝見しました、ありがとうございます。とても素敵な絵で、本当にうれしかったです」
照れた表情でぺこりと頭を下げる様子は、生真面目さが現れていて好感がもてるな、と明美は思った。
「学校の課題で、うちの店を資料にしたい、とのことでしたよね? うちでよければぜひ参考にどうぞ。あの、ただ……一つだけお願いがありまして」
「なんでしょうか」
「新作の、試食をしていただきたいのです」
喫茶に案内され、まもなく出されたのは、一本のエクレアだった。
オーソドックスな細長いシュー生地に、マットなチョコレートの上掛け。キラキラとラメのような金粉が乗っている見た目は、先日食べた「プラネタリウム」を彷彿させる。どんな味なのか、効果が待っているのか――期待が胸の中で、ちかちかと星の光のように光り出す。
「これは『ペン・エクレア』です」
「ペン?」
確かに細長いが、ペンというには太すぎるだろう、と首をかしげていると、「魔法効果のご説明を、簡単にさせていただきますね」と続けて解説が始まった。
「これは、食べると空中に絵が描ける魔法効果があります」
絵が描ける、の言葉に、思わずはっとして蒼衣を見る。明美の反応に若干たじろいだ蒼衣ではあるが、すぐに「驚きますよね」と言う。
「すごい偶然です。まさか、新作のヒントになった絵の作者さんがいらっしゃるなんて」
「私の絵が、ヒント……なんですか?」
はい、と蒼衣は無邪気にうなずく。
彼は、今の自分の心情など知らないはずだ。
描けるのか、今の自分に。描いたところで、上手く描ける気などさらさらない。そんなほの暗い思いを抱いたまま、この、他意のない言葉に応えられるのか。
ペン・エクレアへ手を伸ばせず、押し黙っったまま明美に、蒼衣は優しい声で「早野さん」と呼ぶ。
真っ直ぐに見つめられて、別の意味で言葉が出ない。
「今日初めてお会いした方に、不躾かもしれませんが……僕は、本当にあなたの絵に感化されてこれを作ったんです。なので、お願いです。あなたの絵を、僕の魔法菓子で見せてほしいんです」
耳を打つ言葉は、初めて出会った学生にかけるにしてはひどく真摯で、夏に会った編集者の態度とは真逆だった。
このひとになら見せてもいいかもしれない。突き動かされるまま、エクレアを手に取る。
口にすると、とろりとした甘いチョコレートクリームがあふれ出る。プラネタリウムにも似ているが違う。バニラに似た、不思議な甘い香りが強くて、どこかうっとりしてしまう。
たっぷりのクリームに溺れるようだった。柔らかなシュー生地と絡み合うと更に味に深みが増す。
一旦かみ切ろうとすると、クリームの量が多いので、こぼれないように慌てて口の中に押し込んでしまった。
「慌ててっ……しまって」
やっとのことで飲み込み、後悔する明美の様子を見て、蒼衣は申し訳なさそうに、だがどこか慈しむように微笑む。明美にきょうだいはいないが、もし兄が居たならばこんな感じなのかもしれない、とあらぬ妄想をしてしまう。
彼は大丈夫ですか、と気遣ったあとに「エクレアはフランス語で『稲妻』や『電光石火』の意味もありまして、そうやって素早く食べるお菓子でもあるので、気にしないでください」とフォローしてくれた。
飲み込んだあとも、口の中には甘さの余韻が残っている。チョコレートの味の中に隠れていた甘い香りは魅力的で、ふわりと夢心地になるようだった。
と、そのとき。
「――腕、が」
自然に、右腕が斜め上にあがっている。戸惑っていると、蒼衣から「大丈夫です」と優しく囁かれる。
いつの間にか、人差し指の先がほわりと優しい光が宿っていて「うわ」と声が出る。
「そのまま、空中に絵を描いてみてください」
促されるまま線を引く。まるでつけペンのようななめらかさに、なじみ深いものを感じる。
すいすいと描いた軌跡はラメインクのようにきらめき、太さも細さも自由自在だった。なんて心地の良い書き心地だろう。座っているのがもどかしくて、席を立つ。自由に、思うままに――筆が進む。
「ほああ」
「こりゃあすごいや」
いつしか二人分の感嘆のため息が混じった声がして、明美は我に返った。
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