自由の夢を描くペン・エクレア5
「パティスリーパルフェ サカエ」を蒼衣が訪れた翌日、水曜日の午前中である。
厨房には、オーブンや機械の音のみが響いている。
出勤した蒼衣は、「プラネタリウム」の中心に入れるキャラメルムースをシリコンの型に入れているのだが、表情は上の空である。
うわべだけ、猿まね……。昨日の五村の言葉が引っかかって頭の中をぐるぐると回る。アイディアも、師匠の言う「自分らしさ」など、考える隙間はなかった。
そのうちに、手元が狂い、ムースがどばっと広がってしまう。しまった、と思ったときには時すでに遅し。
ムースは半分作業台の上に流れ出てしまっていた。
「あー……」
普段こなしている仕事すら上手くいかないのか、自分は。鬱々とした気分で片付けをしていると、ドアが開き、八代が顔を出した。
「なあなあ、蒼衣! 見てくれよこれを!」
「なに、どうしたの」
沈んだ気持ちのままおもむろに顔をあげると「これ!」とタブレットの画面を突きつけられる。
突然の行動に目を丸くしつつも、画面を見る。
「これ……『プラネタリウム』?」
夜空にちりばめられた星に、ドーム型の黒いケーキを手に持ち、うっとりと見つめる少女の絵。繊細な線のタッチに、水彩で描かれているのだろうか、ぼかしやにじみも美しい絵だった。
「すごく、綺麗。綺麗だけじゃない、なんか見ていて引きつけられるね」
「だよな。それ、おまえのプラネタリウムをモチーフにした絵らしいんだ。さっき教えてもらってさあ。めっちゃ綺麗なんだよなあ」
「ええっ、僕の『プラネタリウム』で?!」
驚いた。まさか自分のお菓子をモチーフにこんな綺麗な絵を描けるひとがいるとは。蒼衣もお菓子のアイディア出しに拙いながらも絵を描くことがあるが、やはりきちんと描けるひとの迫力は段違いだ。
「なんか……うれしいな。食べてもらえるのはもちろんだけど、その、だれかの創作意欲の基になったんだ、って」
さっきまでの鬱屈など、みじんに吹っ飛んでしまった。
食べて幸せだと感じてもらった「気持ち」が、絵から伝わってくるようだった。
「絵を描くって、すごいなあ……」
もう少し眺めていてもいい? とタブレットをおっかなびっくり持ち、見つめる。
色合いも、表情も、これが自分の作ったケーキがモチーフだと思うと、心がくすぐったくなる。そして不意に、片隅に積み上げたスケッチブックとサインペンが視界に入る。
自分の人生を詰め込んだそれが、別のひとの手で新たな解釈で受け入れられている、と気づいた瞬間。
もやもやと、頭の中でなにかがひらめきはじめた。
「……ペン、描く、細い……プラネタリウム……」
「ウチのパティシエも大喜びって返信しとこ……って、蒼衣? どした?」
八代の弾んだ声が遠い。
自分の魔法菓子で、新たな世界が見られる可能性を見つけた。自分らしさが、新しさを生む。
タブレットを八代に返すと、蒼衣は「なんでもないよ」と頭を振った。
「八代、そろそろ店頭に戻ったらいいんじゃないかな」
唇に指を当て「これ以上は秘密だよ」と暗に伝える。
あえて「魔法菓子のアイディアが浮かんだ」とは言わなかった。八代は、ただ絵を見せてくれただけだ。
すると八代は、悪巧みをする顔になって「ほんじゃ、俺は失礼しますよ」と、手をヒラヒラさせて売り場に戻っていった。
「……さて」
アイディアが出れば、あとはそれを形にするだけである。
「あのひとみたいには描けないけれど」
そして、
自分らしさを、見つけた。
スケッチブックを取り出した蒼衣は、すらすらとペンを走らせた。
:::
「え、今度の増刊に読み切り載るの? すげー!」
金曜日、教室に着くなり聞こえてきた言葉に、明美は思わず足を止める。見れば、数人のクラスメート達が、一人の男性を囲んでわいわいと騒いでいるのが見えた。
「ありがとう。でも、プロット百作持ってきて、って言われて泣きそうなんだけどね」
輪の中心に居るのは、田中だった。
「でもすごいじゃん、雑誌掲載なんて」
そこそこ有名な青年誌の名前が聞こえてきて、輪に入っていないクラスメートも聞き耳を立てている。
「画面が汚い汚いって言われたから必死こいて直したよ」
「お前の絵、華やかさはないもんな。そのかわり、話の展開とコマ割りの巧みさはピカイチなんだよな、悔しいくらいに」
「絵のことは言うな、絵のことは。でも、そこ編集さんも褒めてくれたんだよね」
そのとき、人だかりの隙間から田中と目が合う。
普段ならば、漫画のことについて何時間でも話せるくらいに仲は良いのだ。今だって、近づいて笑顔で「おめでとう」と言ってあげるべきなのはよくわかっていた。
なのに、足が動かない。
「でも俺、やっぱ綺麗な絵のほうがいいじゃんって思うんだよ。早野みたいな思わず目を引きつける、華やかな絵がさ。うらやましい。めっちゃくちゃ」
自分の名前が出て、心臓が飛び出そうなくらいに驚く。
明美だって、田中の漫画が好きだった。確かに絵は拙いが、ぐいぐい読ませてしまう話のテンポやコマ割りのうまさは、おそらくクラスの中でも一番と言ってもいい。故に、デビューへもっとも近い存在なのは、明美もわかっていた。
やっぱりちゃんとおめでとうと言いたい。自然と足が向いた瞬間――聞こえてきた
言葉に、全てが凍り付いた。
「早野? あんな、絵だけ綺麗なやつの漫画なんて面白くねえじゃん。お前みたことあるかアイツの漫画。つまんねーの。テーマも、なにが言いたいのかもぜんぜんわかんないし。顔だけ漫画っていうか、コマ割りへったくそだし、絵の綺麗さだけで読み手引っ張ろうとしてんの見え見え。生き残らないって。その点お前のほうが――」
明美は頭の中が真っ白になって、気付いたら教室を飛び出していた。
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