其ノ終 ~月送り~



 ある夏の午後。数日前までの雨天が嘘のように雲一つない空の下、蝉の合唱が鼓膜を揺らす中。来客を知らせるインターフォンの鳴る音に、瑠唯の母は玄関の戸を開けた。


「世莉樺ちゃん……?」


 瑠唯の母の下を訪れたのは、世莉樺と一月だった。怪訝に思いつつ、瑠唯の母は問う。


「どうしたの?」


「……」


 世莉樺と一月は、互いに横へ一歩下がり、間を空ける。

 その間から、一人の少女が姿を現す。瑠唯の母にとって、言葉では表しようの無い程に大切な、その少女が。


「……!」


 彼女の姿を目の当たりにした瑠唯の母は、言葉を失う。もう、二度と逢えない筈だった彼女が、自らの目の前に現れたのだから。夢ならば、覚めないでほしい。そう思った。


「る、瑠唯……!?」


 もう逢えない筈だった、ただ一人の娘――瑠唯の名を呼ぶ。見間違える筈など、ある訳が無かった。

 くりりとした大きな瞳に、横にボリュームを持つショートヘア、レモンのように黄色いパーカー……全てが、瑠唯の母が知る娘の特徴と一致していた。

 亡くなった瑠唯が何故ここに居る、しかしそれは瑠唯の母にとって、特に驚くに値する事では無かった。何故なら、瑠唯の母は一度、思念体の形で現れた娘の姿を見ているから。


「お母さん……!」


 母を呼ぶ瑠唯の声は、涙に震えている。どれ程会いたかったのか、言葉に出来なかった。亡くなる間際、何度も何度も呼び続けた母が――目の前に居る。

 瑠唯は、駆け出した。


「お母さん!」


「瑠唯!」


 自らの下へ駆け寄ってきた娘を、瑠唯の母はその場へしゃがみ、抱き締めた。もう亡くなっている存在の瑠唯は、肉体の無い魂だけの状態。しかし、瑠唯の母にはしっかりと感じ取れた。

 大切な娘の暖かみ――瑠唯の温もりが。


「お母さん、ごめんなさい……! 嘘を吐いて、本当にごめんなさい……!」


「いいの、もういいの……私こそごめんね、瑠唯に化け物なんて言って……」


 晴天の空の下――二人は涙に震え、長らく伝えられなかった謝罪を交わし合う。瑠唯と瑠唯の母、崩れたままになっていた母子の絆が元通りになった瞬間だった。

 世莉樺と一月は傍らで、その様子を見守る。

 自らの瞳に浮かんだ涙を、世莉樺はただ拭った。



  ◎  ◎  ◎



「そんな……どうして!?」


 陽が差し込む病室で、世莉樺は病院に居るにも関わらず、大声を発した。普段の彼女ならば、そのような迷惑な事はする筈が無いのだが、今の彼女には平静を保つ余裕など無かった。その理由は、世莉樺の前に設置されたパイプベッドに横になっている真由――世莉樺の妹だ。


「鬼の気に当てられた時間が、長過ぎたんだ」


 絞り出すかのように、炬白は応じる。鬼は消滅させた、しかし真由は目覚めなかったのだ。


「遅かった、っていう事……?」


 発したのは一月、その側には千芹の姿も。

 鬼を消し去れば、真由は目を覚ます。世莉樺はそう信じて戦い、結果鬼を消滅させた。これで鬼の負念は消え去り、真由は目を覚ます。そう信じていたが、真由は目を覚まさなかったのだ。

 妹には世莉樺の声も届く事無く、ただ眠り続けているだけである。


「残念だけど、真由はもう……」


 炬白自身も、言いたくない事だった。彼の言葉が何を意味するのか、世莉樺には考える必要も無い。


「嘘だ、嘘だ、嘘だっ……!」


 世莉樺は、涙に震える声を発する。認めたく無かった。信じたくなかった。もう二度と、真由が目を覚まさない事など、もう妹が自分を見てくれないなど。


「どうして、どうして真由……!」


 世莉樺は膝を崩し、ベッドの上の妹の側にすがりつく。何もかもが、崩れ去って行くような気持ちだった。真由を救う為に必死だったのに、世莉樺の尽力が実る事は無かったのだ。


「う……うわああああああっ!」


 眠ったままの妹の側で、涙声を張り上げる世莉樺。炬白と一月は、彼女の後ろ姿から視線を外し、千芹は俯いて悲しげな面持ちを浮かべていた。

 その場に居る皆が、絶望していた。真由はもう、戻ってはこないのだから。

 窓の外に広がる青空が、とても皮肉で陰鬱に思える。

 一月達は、世莉樺にかける言葉が見つからない。大切な妹を失う結果に終わってしまった世莉樺の気持ちなど、誰も推し量る事など出来ないのだ。


「……」


 涙声を発し続ける世莉樺、その後方で炬白はどこか物憂げな――それでいて、毅然とした面持ちを浮かべていた。

 どれくらい、世莉樺の悲痛な涙声を聞き続けていたのか。炬白は何かを決意したかのように頷き、世莉樺の背中へ、


「姉ちゃん」


 静かに発せられた声だったものの、世莉樺の耳にはしっかりと届いた。世莉樺は振り返り、炬白を見る。


「真由の事……どうしても助けたい?」


「! 方法があるの……!?」


 世莉樺の表情に、一筋の希望が浮かぶ。


「方法が、無い訳でも無い」


 炬白がそう返す、すると側に居た千芹が何かに気付くように、はっとした表情を浮かべた。


「ちょっとこはく、まさか……?」


 炬白は千芹に視線を向け、首を横に振る。

 すると、千芹はその後の言葉を繋げる事無く、黙った。


「炬白……方法があるなら教えて! 私、何でもするから!」


 世莉樺は、炬白の両肩を掴む。涙に潤んだ彼女の瞳が、炬白の顔を映した。


「真由を助けられなかったら……! 私、私はまた……!」


 世莉樺の脳裏に過るのは、悠斗の事だ。眼前で助けを求めていながら、助けられなかった悠斗。この場で真由を救えなければ、世莉樺は彼女を目の前で失う事になる。

 自分の無力さで、大切な人を失う――それを繰り返す事が、世莉樺には怖くて堪らなかったのだ。


「分かったよ」


 炬白はそう言い残すと、自らの両肩から世莉樺の両腕を優しく放す。

 彼は、ベッドに歩み寄り――真由の顔を見下ろした。


「……」


 少しの間、炬白は真由の顔を見つめていた。

 そして彼は微笑む。自らの持つ優しさを、全て真由へ注ぎ込むかのような――優しい笑みを浮かべた。

 その後、炬白はその右手の人差し指を、真由の額へ当てる。

 左手で印を結び、何かの呪文を唱え始めた。


「……?」


 炬白は一体何をしようとしているのか――世莉樺がそう思った時、炬白が真由の額へ接している指が、微かな光を放つ。

 同時に――。


「んっ……」


 真由が――もう目を覚まさないと思っていた筈の真由が、声を発した。声を発しただけでは無く、その表情が微かに動いている。


「真由!?」


 世莉樺は驚きつつ、真由の顔を見やる。


「ん、う……お姉ちゃん?」


 真由はゆっくりと目を開け、確かに世莉樺を呼んだ。


「あれ? 私、どうしたんだっけ……」



 混濁している様子の真由は、ベッドの上でその身を起こす。次の瞬間、姉が抱き着いてきた。


「! え、ちょっと……お姉ちゃん、どうしたの?」


 世莉樺は応じなかった。

 彼女は、妹の頭をその胸に抱き締め、涙交じりに「良かった……真由、本当に良かった……!」と発している。

 炬白は、世莉樺と真由に背を向ける。

 誰にも見えはしなかったが、その表情には優しげな笑みが湛えられていた。



  ◎  ◎  ◎



 その日の夜――鵲村の公園では、夏祭りが行われた。

 恒例行事とも言える祭りには多くの人が集まり、多くの露店が出され、沢山の人々で賑わう。

 祭りも終わりを迎える頃、その行事が行われる。沢山のカササギユキシズクを夜空に向けて放つ行事、『月送り』が。

 世莉樺と一月、そして炬白と千芹。彼らの前には、瑠唯が居た。

 蝶の模様の浴衣姿の、瑠唯が。


「瑠唯ちゃん、その蝶の模様の浴衣……とっても似合ってるよ」


 世莉樺は、率直に感想を述べる。瑠唯が着ているのは、瑠唯の母が彼女の為に縫った浴衣。娘の為に丹精込めて縫われた浴衣を纏った瑠唯は、本当に可愛らしかった。


「ふふ、ありがとう」


 瑠唯が腕を上げると、浴衣の袖が優雅に広がる。彼女は改めて、世莉樺の前に歩み寄った。


「お姉さん……私、お姉さんには本当に感謝しているの」


「え?」


 瑠唯は、


「私を嫌わないで、友達になってくれた事も。それに、今回の事も。お姉さんが居なかったら私、ずっと鬼に捕まったままだった。お母さんに謝る事も、嘘を吐いていた事を許してもらう事も……きっと、出来なかったから」


「お母さんに、許してもらえたの?」


 世莉樺が問い返すと、瑠唯は小さく頷いた。


「許してくれたよ。それに私も……お母さんを許してあげた」


 変わらないな、と世莉樺は思った。亡くなってしまっても、由浅木瑠唯という少女の優しさは何も変わらない。生前の頃と同じく、慈愛に満ちた子だった。


「もうそろそろ、かな……」


 瑠唯は、振り返る。

 数人の大人が、大きな籠を持ち運んで来ていた。籠の中には、沢山のカササギユキシズクが捕まえられており、白色の淡い光を放っている。人々は皆、蝶達が籠から解き放たれて夜空へ昇って行く瞬間――月送りが始まる時を、待ち望んでいる様子だ。

 瑠唯は今一度、世莉樺に向いた。


「お姉さんには……どれだけお礼を言っても足りないや」


 世莉樺は、小さく首を横に振る。

 気にしなくていい、瑠唯にはそういう意味に取れた。

 直後、人々の歓声が巻き上がった。籠に捕まえられていたカササギユキシズクが、一斉に放たれたのだ。月光蝶は、一頭一頭がそれぞれ月の光を受けて光の粒と変わり、夜空へ、満月を目指して昇って行く。


「私……行くね。お姉さん、本当にありがとう……さようなら」


 瑠唯は世莉樺に別れを告げ、そして炬白、一月、千芹にも小さく礼をした。次の瞬間、彼女の小さな体が空に浮かび、カササギユキシズク達と共に、夜空へ上って行った。

 世莉樺達は、月光蝶と共に行く瑠唯を見送った。


「瑠唯ちゃん……これからどうなるの?」


「霊界に行く事になる。そしてきっと……精霊になると思うよ」


 炬白は付け加える。


「優しい子だったんでしょ? あの子」


 世莉樺は、頷いた。

 母の名を呼びながら、非業の最期を遂げた瑠唯。

 しかし、彼女にはもう悲しみは無かった。鬼から救い出され、母と和解でき、そして母の愛が込められた浴衣を着て、あの世へ旅立つ事が叶ったのだから。

 カササギユキシズク達と共に、瑠唯の後ろ姿が満月に消えていく。


「瑠唯ちゃん、じゃあね……」


 やがて、月光蝶達と共に、瑠唯の姿は消えて行った。けれども、そこに居る多くの人々は、瑠唯を見る事も出来ない。瑠唯が見えるのは、世莉樺に炬白、そして一月と千芹のみだ。


「……」


 瑠唯を見送った後、一月は側に居る千芹に視線を移した。

 一月は予期していたのだ。そう――『彼女』との別れの時が、近づいている事を。役目を終えた精霊は行かなくてはならない事を、一月は知っているのだから。


「……!」


 千芹の方も一月を見て――二人の視線が合う。

 すると千芹は、周囲を見渡す。飛んでいくカササギユキシズク達を見送る人々の歓声は、止んでいない。


「ここは……ちょっとひとが多すぎるかな」


 千芹は、再び一月を向く。


「いつき、こっち」


 白和服少女は一月の返事を待たずに、歩を進め始める。

 内心驚きつつ、一月は彼女の背中を追う。後ろから「一月先輩?」という声が聞こえたが、応じなかった。一月にとっては待ちに待っていた時、と言っても過言では無かったのだ。千芹の正体は、秋崎琴音。一月の初恋の少女なのだから。

 自らの気持ちを伝える時を、少年はずっと待ち続けていた。


「琴音……!」


 幼い白和服少女は歩いている。

 しかし、その速さはどう考えても、幼い少女が歩く速さとはかけ離れていた。一月が全力で走っても、彼女の後ろ姿はぐんぐんと遠ざかって行ってしまう。


「はっ、はっ……!」


 しかし、一月は決してその足を止めない。

 少女を見失わない為に。ずっと伝えたかった事を、伝える為に。どれくらい走り続けたのか、気が付けば一月は、公園の一角の木々が茂った場所に居た。

 人々の喧騒が薄らと耳に届くが、周囲に人の姿はない。

 ただ一人だけ、彼女を除いては。


「……!」


 肩を上下させて呼吸する一月を、彼女は見つめていた。千芹の姿が、月の光の下に映し出されている。白い和服や、腰まで伸ばされた艶やかな黒髪が風に泳いでいた。


「琴音……!」


 一月は言葉を繋ごうとする。焦燥に駆られるような面持ちの彼。

 対し、彼女は落ち着いていた。


「まって」


 一月に手の平を見せて、千芹は制する。

 彼女は目を瞑り、両手で印を結んだ。そして何かの呪文を唱え始めた途端、その体が淡い光に包まれた。


「っ……」


 眩い光に一月は思わず、目を細める。

 しかし、光の中から現れた少女を視認した瞬間――彼は、眩しさなど忘れてしまった。光の中から現れたのは、千芹ではない。

 真っ白なワンピースに、負けず劣らず白い肌、対して、そのロングヘアは黒い。見つめられた誰もが勇気を持てそうな、優しく澄み切った瞳。


「……!」


 一月にとって、絶対に忘れられない少女が居た。


「琴音……!?」


 秋崎琴音。

 千芹が姿を消したのと引き換えに、彼女が現れた。生前の姿に戻る、精霊が扱う術の一つである。


「……」


 琴音は、その手を後ろで組みつつ一月を見つめた。

 真っ白なワンピースや黒髪が、風と共に泳ぐ。何処か儚げで、それでも美しく、優しげな彼女――生前の琴音と、面影は何一つとして変わっていない。

 月光だけが明かりとして成り立つその場所で、少年と少女は少しの間、向き合っていた。


「……ずっと、君に謝りたかった」


 先んじて発したのは、一月である。琴音は、何も言わずに彼の目を見つめていた。


「君にあんな酷い事を言って、傷つけるなんて……!」


 一月の声が、涙に震え始める。琴音は、彼の言葉を待つように何も返さなかった。

 涙を堪えながら、一月は紡いだ。長らく伝える事が出来なかった――謝罪、贖罪の言葉を。


「琴音……本当にごめん……! 君にあんな事を言って、本当に……!」


 溢れ出る涙に、一月は片手で顔を覆う。

 こんな言葉が何の意味を成さない事は、彼自身が知っていた。どんなに謝罪を伝えようとも、亡くなってしまった琴音はもう、戻っては来ないのだ。

 咎められても、恨みを言われても、仕方が無いと思っていた。そんな物で済まされるのならば、琴音を殺したと言っても間違いの無い罪が、そんな事で赦されるのならば――。


「いっちいは、泣き虫だね」


 しかし、琴音が発したのは、一月を責める言葉では無かった。


「え……!?」


 涙で潤んだ視界の中、一月は琴音を見る。彼女は、自らの黒髪の先に触れつつ、


「許すよいっちぃ、もう私……何も気にしてなんていないから」


 決して出まかせの言葉などでは無かった。

 琴音が笑顔を一月に見せている事からも、それが分かる。彼女が浮かべているのは、憎んでいる相手に向けるような笑顔では無かった。

 可憐で、清純で、清涼感に満ちた笑顔。それは間違いなく、一月が何度も見て来た彼女の笑顔だった。


「……私もね、ずっといっちぃに謝りたかったの」


 一月は、表情を怪訝に染める。琴音に謝られる理由など、彼は思い浮かばなかったから。


「私、いっちぃに最低な事言ったでしょ。バカだとか、大嫌いだとか……」


「え……」


 今の今まで、一月はそのような事など思い出しもしていなかった。酷い事を言ったのは、謝るべきなのは自分だと思っていたのだ。

 しかし、琴音も一月と同じだった。彼女もまた、一月に言ってしまった事を後悔し、罪悪感を抱いていたのだ。一月と琴音。二人は、お互いに心無い言葉をぶつけてしまった事を、悔やんできたのである。


「ごめんねいっちぃ……酷い事言って、本当にごめんなさい……」


 琴音の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。微かに涙が混ざりつつも、それでも一月にしっかりと届く声で――彼女は続けた。


「いっちぃ、大好き……!」


「……!」


 一月は、驚きを隠そうともしなかった。彼女の『大好き』という言葉が、『友達として』なのか、或いはそれ以上の意味を持つのかは分からない。

 けれども、一月の答えは既に決まっていた。

 数度、小さく頷き、


「……君を許すよ」


 彼女が自らを許してくれたのと同様に、一月も琴音を許した。

 そして彼は彼女を見つめ、伝える。ずっと胸に抱いてきた、彼女への気持ちを。


「琴音……僕も、君が大好きだ」


 一月が返した直後――琴音は、駆け出した。その綺麗な黒髪や、純白のワンピースを靡かせながら、一月の胸の中へと。


「……!」


 一月は驚く――しかし、拒もうとはしなかった。

 彼は彼女の背中にそっと手を回し、小さな体を優しく抱きとめた。間近に感じる琴音の香りは、花のような心地よさを帯びている。さらさらとした彼女の髪が、手に触れるのを感じた。


「いっちぃ……!」


 琴音が発した直後――彼女の体は光の粒へと変わり始め、一月の腕からすり抜けて行く。


「あ……!」


 別れの時だった。

 琴音の身が空に浮かび、次第に光の粒へと変わって行く。しかし彼女は狼狽える様子も無く、全てを受け入れるように落ち着いた面持ちで、一月を見下ろしていた。

 彼女が完全に光の粒へと変わる直前、琴音は最高の笑顔を一月に見せた。

 その桜の花びらのような唇が、微かに動き――。


《ありがとう……》


 琴音が最後に発した言葉を、一月は確かに聞き届けた。

 頬を伝って流れた彼女の涙が、月光に煌めく。そして、彼女は――秋崎琴音は、淡い光の粒へと姿を変えて、満月の浮かぶ夜空へと昇って行った。月光が仄かに照らす公園の一角で、少年は頬に涙を伝えながら、自らの想い人である少女を見送る。



  ◎  ◎  ◎



「そろそろ……お別れかな」


 前触れも無く発せられた炬白の言葉に、世莉樺は振り向く。炬白の片手が、透けていた。


「お別れ……?」


 炬白は視線を移し、世莉樺を向く。


「役目を終えたから……オレは帰らなくちゃいけないんだ」


 焦る様子も無く、炬白は落ち着いていた。

 ふと、何かを思い出したかのように、彼は着物の胸元を探る。炬白が取り出したのは、一枚の紙だ。


「これ……姉ちゃんに渡してくれって」


「え……誰から?」


 そう発しつつ、世莉樺はその紙を受け取る。

 リングノートの一枚に、ある一人の少年のメッセージが記されていた。


「……!」


 世莉樺にとって、見覚えのある筆跡だった。

 忘れもしない、弟の字である。


「悠斗……!?」


「ずっと渡しそびれちゃってたけど……それ、悠斗が姉ちゃんに渡して欲しいって」


 リングノートの一枚には、鉛筆でこう書かれていた。


『姉ちゃんへ

 オレは姉ちゃんが大好きです。

 いつも優しくて、オレや真由や、悠太を気遣ってくれる姉ちゃんが大好きです。

 オレは姉ちゃんを恨んだりしていません。

 だから、もうオレの事で思い詰める必要なんてありません。

 姉ちゃんの弟で居られて、オレは本当に良かったです。


 ――悠斗』


 助ける事が出来なかった弟からの言葉――姉を想う弟の気持ちが、記されていた。気が付いた時、世莉樺は目の奥が熱くなるのを感じていた。

 彼女の頬に一筋の涙が伝い、悠斗からの手紙に落ち、吸い込まれていく。


「っ、悠斗……!」


 安心感と同時に、世莉樺の頭には弟の姿が蘇る。

 亡き弟に思いを馳せていると、


「悠斗は……姉ちゃんを恨んでなんかいないんだよ」


 涙で潤んだ瞳で、世莉樺は炬白を見る。黒着物の少年は物憂げな表情で、


「だからもう、姉ちゃんは悠斗の事で悩む必要なんか無いんだ」


「……うん」


 世莉樺は小さく頷く。悠斗からの手紙を手に、世莉樺は静かに泣き続けた。

 少しの間を空けて、


「姉ちゃん」


 炬白が世莉樺を呼び、世莉樺は彼を向く。


「姉ちゃんの命を助けた借り、まだ返してもらってなかったよね」


「え……」


 手紙を片手に持ちつつ、世莉樺は彼の言葉の意味を考える。

 思えば、世莉樺が生きているのは炬白のお蔭でもあったのだ。彼がいなければ、世莉樺はきっと鬼と成った瑠唯に殺されていただろうから。

 命を助けた借りは、いずれ返してもらう――炬白がいつか、世莉樺にそう言っていた。


「ん……私、何をすればいいの?」


 涙を拭いつつ、世莉樺は炬白へ問う。

 炬白は視線を外して、「そうだな……」と呟く。そして彼からは、思いもしない答えが返ってきた。


「じゃあ、姉ちゃんに一つ、約束して欲しい事があるんだ」


「え、約束……?」


 炬白は、


「真由と悠太の事……これからも守ってあげて欲しい」


「え、真由と悠太を……?」


 炬白が世莉樺に望んだのは、以外にも彼女の弟妹の事だった。どうして炬白がそんな事を望むのか、世莉樺には全く分からない。

 炬白とあの二人に、どのような関係があると言うのか。


「約束して。オレが姉ちゃんに求めるのは、それだけだよ」


 炬白の瞳は、真剣さを湛えていた。理由など関係無く、有無を言わせないような感じがある。


「……!」


 世莉樺は困惑した物の、理由を考えるのは止める事にした。炬白が、自身を救ってくれたこの少年が、それを望んでいるのなら――。


「……分かった。私、これからもちゃんと守るよ、真由と悠太の事」


 彼女の返事を受ける間にも、炬白は光の粒へと姿を変えていく。炬白は頷き、そして世莉樺に背を向けて――歩を進め始めた。


「炬白!」


 少年の背中を、世莉樺は呼び止める。

 彼が振りかえるのを待たずに、世莉樺は紡いだ。


「私を助けてくれてありがとう。炬白が居なかったら、私きっともう殺されてた。それに瑠唯ちゃんを救う事も出来なかったし、真由を助ける事も……!」


 炬白は、世莉樺に背を向け続けていた。


「だから……本当にありがとう」


 世莉樺は、精一杯に彼へ感謝する。彼への恩は、きっと言葉で返し切れる物では無い。しかし、世莉樺には言葉以外に、炬白に感謝を伝える方法が思い浮かばなかった。


「それが、オレの役目だからね」


 そう呟き、少しの間を空けて炬白は振り返った。


「姉ちゃん……!」


 世莉樺を呼ぶ炬白の声には、どこか真に迫るような声色が含まれていた。しかし、彼は何かを言おうとするが――言葉を押し留めるように、口を噤む。

 代わりに発せられた言葉は、


「その……元気でね」


 炬白の体が光の粒に変わっていく。別れの時は、近かった。


「うん、炬白もね」


 炬白は世莉樺を見つめつつ、頷いた。そして、幼い少年の姿をした精霊――炬白は、淡い光の粒へと姿を変え、夜空へと昇って行く。

 世莉樺は、自身を、瑠唯を、そして真由を助けてくれた炬白を見送る。

 彼女の片手には、悠斗からの手紙がしっかりと握られていた。



  ◎  ◎  ◎



 炬白は、夜空に浮いていた。緩やかな風が、彼の髪や黒い着物を緩やかに揺らし、月光が腰に下げられた鎖に反射していた。


「……」


 何かを発する事も無く、彼は天を目指して空を昇って行く。ふと、何かに気づき――炬白は一度空中で止まり、振り返る。

 後方から、その身を着物に包んだ少女が炬白を追って、夜闇を昇っていた。月光に照らされる、艶やかな黒髪や新雪のような着物。


「こはく……」


 千芹だった。

 彼女は炬白の側まで昇り、そして彼に問う。


「よかったの? 精霊のやくめを終えたから、しょうたいを明かしても良かったのに……」


 炬白は首を縦に振り、


「良いんだ。これが、姉ちゃんにとって一番なんだから」


 千芹は、白和服や黒髪を靡かせつつ、問いを重ねた。

 彼の横顔を見つめつつ、


「でも、霊界であんなにせりかとあいたがってたのに……!」


「……」


 炬白は何も返さない。


「こはく……ううん」


 千芹は、首を横に振る。

 そして彼女は、目の前に居る黒着物の少年をこう呼んだ。その時の千芹の声色は、まるで別人格になったように真剣さを湛えていた。







「悠斗君」







 千芹は、紛れも無く炬白をそう呼んだ。炬白は物憂げな瞳を千芹に向け、そして、


「もう十分さ、姉ちゃんにも会えたし……妹と弟の顔も見れたしね」


 炬白は続ける。


「オレが余計な事を言ったら、姉ちゃんはきっと、オレの事で思い悩んじゃう気がするんだ。姉ちゃんは優しいから」


 千芹は、


「だけど……悠斗君、精霊の掟を破ってまで……」


 炬白は、真由を助けた――しかしそれは、精霊の掟に背く行為。彼は世莉樺を助ける為に来た、真由を救うのは掟破りなのだ。


「妹を救う事よりも掟が大事だとか……そんな事言ってたら、姉ちゃんに怒られちゃうよ」


 掟を破った事を後悔する様子も無く、即答した。


「姉ちゃんが気に掛けてくれて、オレは幸せだった。きっと真由も悠太も、そうだと思う」


 炬白は視線を外し、自らの下に広がる風景を見つめる。夏祭りが行われている公園には、仄かな明かりが浮かんでいた。

 世莉樺は恐らく、あの辺りに居る事だろう。


「だから、姉ちゃんにだって幸せになって欲しい。その為なら……」


 炬白の言葉は、そこで止まる。


「悠斗君……泣いてるの?」


 炬白は、千芹の言葉に応じなかった。彼は視線を下に向けたまま、


「じゃあね、姉ちゃん」


 そう呟き、炬白は自らの目元を着物の袖で拭う。黒い着物の袖に、小さく染みが付いた。


「ごめん、行こうか」


 千芹に促し、炬白は彼女と共に満月へと昇って行く。

 やがて――二人の精霊の後ろ姿は、月光に溶け入るように薄れていった。



  ◎  ◎  ◎



 その日、世莉樺の朝の戦争は既に終戦を迎えていた。

 退院した真由は元気を取り戻し、再び小学校へ通い始めている。真由を小学校へ、悠太を幼稚園へ送り出し、世莉樺も高校へ行く用意をしていた。茶色いロングヘアに櫛を掛け、制服に着替え、竹刀袋を背負い、通学用鞄をその手に取る。


「……!」


 彼女はふと、何かを思い出したように畳の間へ足を運ぶ。通学用鞄と竹刀袋を一度床に置き、彼女は仏壇の前に敷かれた座布団に正座する。

 仏具の鈴を鳴らして、両手を合わせる。


「悠斗……行ってくるね」


 世莉樺は立ち上がる、竹刀袋と通学用鞄を掴み、再び仏間を後にする。彼女の後ろ姿を、仏壇に置かれた悠斗の写真が見送っていた。

 もう見る事の出来ない、世莉樺の弟――悠斗の笑顔がある。


 その日の鵲村の天気は、雲の一つも無い快晴だった。


























 雪臺世莉樺




 金雀枝一月




 雪臺悠斗/炬白




 秋崎琴音/千芹




 由浅木瑠唯/鬼




 椰臣義嗣/餓鬼霊




 瑠唯の母




 雪臺真由




 雪臺悠太




 朱美




 佑真




 世莉樺の母


























              鬼哭啾啾2 ~月光蝶と小さな怨鬼~



























                      終
















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