其ノ四拾八 ~鬼狩ノ夜 其ノ拾弐~

 ずっと……ずっと悔やんで来た。

 どうしてあの時、悠斗を見捨てて逃げ出したのか。炎の中、食器棚の下敷きになったあの子の側に居てあげられなかったのか。

 もう私には、悠斗を見捨てた罪を償う方法なんて無い。何をしようとも、悠斗は帰って来ないのだから。


「っ! ふっ……!」


 それでも、私は走る。心臓が鼓動を速めて、破れてしまうような錯覚すら覚えても、それでも止まらない。

 私の先には、黒霧に捕らわれた瑠唯ちゃんが居る。

 どうして、私は走っているんだろう。もしかしたら、私まで黒霧に捕まるかも知れないのに。ここで瑠唯ちゃんを助けても、悠斗を見捨てた罪が消える訳でも無いのに……。


「お姉さん、来ないで!」


 私は足を止めない。

 ――何故、私は瑠唯ちゃんを助けようとこんなに必死なんだろう。あの子が鬼に取り込まれるのが見過ごせない、その理由が真っ先に浮かぶ。

 でも、一番の理由は……それじゃない。

 私は、繰り返したくないんだ。悠斗の時みたいに、誰かが目の前で逝ってしまおうしているのを、ただ指を銜えて見ている事を。

 だってもう、私はあの頃と同じじゃ無い筈だから。泣いている子を助ける力だって、ちゃんと持っている筈だから……!


「! あっ!」


 足首に、黒霧が絡み付く感触――前方に向けて走っていた私は、成す術も無く転ばされた。

 顔面から体育館の床に打ち付けられて、頬に鋭い痛みが走る。同時に、口の中に鉄のような血の味が充満した。


《姉ちゃん!》


 炬白の声が聞こえたけれど、返事をしている余裕は無かった。


「痛っ……うっ……!」


 痛みに涙が出て、視界がぼやけた。

 口元に手を触れると、赤い血が付いていた。口の中を切ったのだろう。だけど、痛がっている余裕なんて無い、私は直ぐに視線を上げ――瑠唯ちゃんを見る。

 瑠唯ちゃんは、自らを引き寄せようとする黒霧に抗っているけれど、その体を支える両腕は震えていた。

 ……もう、一刻の猶予も無い!


「っ……うあああああああッ!」


 足首を捕らえる黒霧が忌々しくて、私は座り込んだまま天照を逆手に持ち直し――黒霧を床もろとも貫く。鎖が断ち切られるように黒霧が切断され、消えていく。

 天照を床から引き抜く事も忘れ、私は立ち上がる。無我夢中になり、丸腰なのも厭わずに、瑠唯ちゃんの下へと走っていく。転んだ時に頬に出来た傷から、血が滴るのを感じた。


「瑠唯ちゃん!」


 あと少しで辿り着こうとした瞬間――ついに、瑠唯ちゃんの両腕に限界が訪れたようだった。瑠唯ちゃんの両腕が床の裂けた部分から離れ、後ろに、餓鬼霊の下へと引き寄せられ始める。


「駄目っ!」


 私は、必死に手を伸ばした。瑠唯ちゃんの手を掴む為に、もう無我夢中になっていた。

 その気持ちが通じたのだろう、私の手が瑠唯ちゃんの手を掴むのが分かる。


「はっ……!?」


 黒霧が、瑠唯ちゃんの手を掴んでいる私の腕に絡み付いた。きっと、餓鬼霊が瑠唯ちゃんを取り込むために、私の手を瑠唯ちゃんから離そうとしているのだろう。

 私は手を放す事も出来ず、逃げる事も出来なかった。

 次の瞬間、黒霧が私の腕を締め上げ――激しい痛みが、私の腕を襲った。


「っ……ああああああああッ!」


 腕を千切られそうな痛みに、口から自分の物とは思えない叫び声が出た。そんな叫び声を上げても、黒霧は私を解放する筈など無い。

 しかし、同時に私も瑠唯ちゃんの手を離さない。

 絶対に、この子を渡さない。腕が潰されようとも、もう瑠唯ちゃんを鬼の一部になんかさせない!


「お姉さん……腕が……!」


 瑠唯ちゃんはもう、私が助けに入る事を拒もうとはしなかった。私は痛みに表情をしかめながら――瑠唯ちゃんへ紡ぐ。


「瑠唯ちゃんは……もっと痛い思いをしてきたでしょう?」


「え……」


 瑠唯ちゃんの手を取ったまま、私は続ける。


「お母さんに謝れないまま、あんな所で最期を迎えて……怖かったよね、悲しかったよね、辛かったよね」


 痛みとは違う涙が、私の頬を伝い落ちて行く。

 誰でも構わない。瑠唯ちゃんは、救われなければならないのだ。この子を悲しい出来事から解放する為なら、私は――。


「瑠唯ちゃんの傷が癒えるなら、この腕くらい、あげてもいいよ……」


 瑠唯ちゃんは、私を見つめていた。 黒霧に締め上げられている腕は、感覚が薄れ始めている。


「お姉さん……!」


 瑠唯ちゃんが言った、刹那。

 私の目の前に、大粒の白い光が舞い降りた。これは――カササギユキシズク……?

 その直後に、黒い着物を着た男の子が私の側に現れる。

 炬白だった。彼はその片手に天照を持っていて、もう片方の手で紫の光を纏う鎖を振るい――瑠唯ちゃんを捕らえていた黒霧を切断した。


「世莉樺、動かないで」


 その直後に、今度は一月先輩の声。先輩は青い光を纏った天庭を振るい、私の腕に絡み付いた黒霧を正確に切り裂く。

 黒霧から解放された私は、瑠唯ちゃんの手を放し、その場へと倒れ込んだ。


「うっ……!」


 腕の内部から、焼け付くような痛みが襲ってくる。苦しげな声を発していると、炬白が側に寄って来た。


「ごめん姉ちゃん。黒霧に阻まれてて、助けに来るのが遅れた」


 一月先輩も私の側に来る。天庭から青い光が離れ、千芹ちゃんが現れた。


「腕、みせて!」


 千芹ちゃんは、先程まで黒霧に締め上げられていた私の腕を取ると、袂から竹筒を取り出した。竹筒の栓を抜き、中の液体を私の腕にかけていく。すると、まるで取り払われるかのように、痛みが引いていった。


「っ……」


 腕の痛みが消え去り、私は一先ず安堵する。すると、炬白が私の側で片膝を折り、私と視線を合わせた。


「姉ちゃん、天照も持たないで黒霧に突っ込むなんて、どうしてこんな無茶な事を……!?」


 炬白の表情は、真剣だった。私は差し出された天照を受け取りつつ、応じる。


「……瑠唯ちゃんを助ける事で、頭が一杯だった。心配かけちゃったなら、ごめん」


「もしも……!」


 すると、炬白はさらに――真に迫る雰囲気で私を見る。


「姉ちゃんにもしもの事があったら、オレは……」


 そこで、炬白は言葉を止めてしまう。彼は俯くように、視線を床へ向けてしまった。

 ……どうしたのだろう? 心配を掛けたのは確かだけど、どうして炬白は私にここまで肩入れするのだろう?

 理由を訊こうとすると、先んじて千芹ちゃんが炬白の肩に手を乗せて、


「こはく」


 炬白の名を呼びつつ、千芹ちゃんは首を横に振った。すると炬白は、何も言わずに立ち上がる。

 怪訝に思いつつ、私も立ち上がった。腕の痛みはもう、跡形も無い。


「黒霧の所為でずっと助けに来られなかったんだ、だけど……」


 紡いだのは、一月先輩。私は、ふと気付いた。

 今、こうしている最中にも黒霧が襲って来てもおかしくは無い筈。だけど、さっきから全く黒霧の気配を感じない。

 何故……そう思って私は、視線を黒霧の源、餓鬼霊の方へと向ける。


「あ……!?」


 そこには、信じがたい光景が広がっていた。

 巨大な流動体の形を持つ餓鬼霊、その周りに――沢山のカササギユキシズクが、白く淡い光を発しながら舞っているのだ。七匹、八匹……もしかしたら十匹以上居るかも知れないカササギユキシズク。その真ん中に居る餓鬼霊は、表面にくっついた無数の人面から苦しげな声を発していた。

 一体、何が……?


「黒霧に阻まれて、中々姉ちゃんを助けに助けに行けなかったんだけど……急にカササギユキシズクが沢山、この体育館に入って来たんだ。あそこからね」


 炬白は体育館のある場所を指差した。その先には、割れた窓。


「そうしたら、急にあの化け物が苦しみ出して、黒霧も止まって……」


「え……?」


 どういう事なのだろう。

 カササギユキシズクが沢山来た途端、餓鬼霊が苦しみ始めたなんて……。


「……つきのひかり」


 千芹ちゃんが、呟く。


「あの蝶たちが纏っているひかり……つきのひかりに似ているきがする。もしかしたら……」


「! そうか……」


 何かに気付いたように、炬白が発した。


「鬼は不浄な存在だから、月の光みたいな清浄な物は……鬼にとって毒に等しいのかも知れない」


 それが何を意味するのか、私には容易に想像が付く。恐らく、一月先輩も同様だったのだろう。


「じゃあ、カササギユキシズクは……」


「……うん、きっと月の光を運ぶ蝶なんだよ。だから餓鬼霊は、カササギユキシズク達が来た途端、その清浄な光に当てられて……動けなくなったんだ」


 カササギユキシズクの別称を、私はふと思い出した。

 月光蝶、今ならば――その名の本当の由来が分かる気がする。どうしてカササギユキシズクが光るのか、それは殆ど分かっていないと聞くが、だけど今は感謝するしかなかった。

 この場に来てくれた、月光蝶達に。


「! だけど、どうしてここに蝶達が……?」


 不思議なのは、その点だ。

 カササギユキシズク達は、どうしてこの場に集まって来たのだろうか。私や瑠唯ちゃんが窮地に陥っていた時に、まるで助けに来てくれたかのように。偶然と呼ぶには、タイミングが良すぎる。


「それはきっと……この子だよ」


 炬白の視線を、私達は追う。その先には、瑠唯ちゃんが居た。


「え……」


 瑠唯ちゃんは怪訝な声を発する。


「この子は生前、蝶が大好きだった。蜘蛛の巣にかかった蝶を逃がしてあげたりもしていた。だからきっと……」


「カササギユキシズク達が、恩返しに来た。つまりそういうこと?」


 炬白の説明に、一月先輩が補足した。


「オレが思うに、きっとそうだと思う」


 にわかには信じがたい事だった。まさか蝶が、瑠唯ちゃんへ恩を返しに来るなんて……そんな童話みたいな話。だけど、本当だと信じておくことにした。そうじゃなければ、あんなに沢山のカササギユキシズクが来る理由なんて思い浮かばない。


「姉ちゃん、お兄さん、今がチャンスだよ」


「え?」


 炬白は、


「動きが止まっている今の内に、二人の霊刀で餓鬼霊を貫くんだ。あの化け物を消滅させるんだよ」


「っ、分かった……!」


 私は、天照を持ち直した。この場所へと赴いた目的の内の一つを、思い出す。鬼を消滅させて、悲劇の連鎖を断ち切る事、真由を救う事……果たすのは、今しかない!


「一月先輩!」


「ああ、分かってる」


 先輩もまた、天庭を持ち直した。

 私の天照には炬白が、先輩の天庭には千芹ちゃんが一体化し――それぞれの色の光が、霊刀に纏う。私は一度振り返り、瑠唯ちゃんを見た。

 くりりとした大きな瞳が、私を見つめ返す。


「瑠唯ちゃん、今……助け出してあげるから」


 鬼を消滅させれば、この子を縛る存在は居なくなる。

 瑠唯ちゃんを救い出すという事は、あの化け物を完全に葬る事と同義、そう言って間違いは無いだろう。

 彼女が小さく頷いたのを確認し、私は再び化け物を振り返り――地面を蹴った。私の隣で、一月先輩も同様に。

 カササギユキシズク達が餓鬼霊に集き、動きを止めてくれている。


《欲しい……由浅木、お前が欲しい……》


 あの変態教師――椰臣から発せられる、瑠唯ちゃんへの淫らな欲望。もう怒りの感情を超えて、私はただただ赦せなかった。

 黒霧に邪魔される事も無く、私と一月先輩は餓鬼霊へと一気に接近し、そして。


「あああああっ!」


 怒りに任せ、私達は霊刀を餓鬼霊へと突き刺す。巨大な青と紫の火花が散る、同時に餓鬼霊の表面に付いた無数の人面が、断末魔の叫び声を上げた。苦しみや憎しみ、怨み、妬み、その全てを噴出するような叫び声が、合唱のように体育館を支配する。


「っ……!」


 堪えかねて耳を塞ごうとした、その時。私と先輩が霊刀を突き刺した場所を起点にして、餓鬼霊はまるで新聞紙が燃えていくように、その形を崩していく。表面に付いた無数の人面――恐らくは、これまで取り込んで来た人達の負念もろとも、跡形も無く消えて行った。

 あの男、椰臣の顔も。


「地獄に堕ちる筈さ、きっと……」


 そう発する一月先輩の横顔が、険しさを帯びている。だけど、私の表情も同じだったと思う。こんな程度で、あの男が瑠唯ちゃんにした事が無かった事になるのは、どこか納得いかない。だけど、あの男はこれからも苦しみ続けるだろう。

 一人の女の子を死に追いやった罪は、軽い筈等無いのだから。


「うっ……!」


 眩暈でも起こるように、私の視界が揺らぐ。自分が思っていた以上に、心身の疲弊は大きかったらしい。

 餓鬼霊が消え去った体育館には、沢山のカササギユキシズク達が舞っていた。暗闇に浮かぶ、無数の光の欠片――幻想的な光景が、戦いで疲れ果てた心を癒してくれるような感覚を覚える。


「世莉樺?」


「姉ちゃん、大丈夫?」


 天照から離れた炬白が、私を案じてくれた。私は座り込んだまま、応じる。


「大丈夫、それよりも炬白、もう鬼は……」


 炬白は小さく頷いて、


「うん、消えた」


「せりか、おわったんだよ」


 炬白に続いて、千芹ちゃんも発する。鬼を消し去った、それが何を意味するのか私には分かる。瑠唯ちゃんを救い出せたし、悲劇の連鎖は今ここで断ち切った、もう誰かが鬼に惨く殺される事は無いんだ。

 それに、真由も……。


「ん……」


 私は、両目を閉じた。

 黒く染まった視界、直後に炬白の声が聞こえる。


「姉ちゃん?」


 目を閉じたまま、私は応じた。


「大丈夫、ちょっと疲れただけ……」


 安心感や安堵感、それに達成感が、私を満たしていた。

 目を閉じているから見えないけれど、きっと体育館の中には沢山の月光蝶が舞っている事だろう。





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