其ノ四拾七 ~鬼狩ノ夜 其ノ拾壱~
離れていても、分かる。私が瑠唯ちゃんを助け出した後、鬼は不気味極まりない流動体みたいな形へと変貌したのだ。外見的には、至る所に人の顔がくっついた、不定型な黒いアメーバ……その中心に位置している男。
《殺すつもりなんて……殺すつもりなんて……》
瑠唯ちゃんを殺した、そう言っても間違いの無い悪行を働いた男――椰臣義嗣。私も女だから……いや、仮に私が男だったとしても、私はあの男を赦さないだろう。
「姉ちゃん、これが最後だ。ここで全てを断ち切ろう」
私は頷く、すると炬白は紫色の光に姿を変え――天照と一体化した。
「僕も、一緒に戦うから」
一月先輩が、頼もしく私に紡ぐ。呪文を唱えると同時に、側に立っていた千芹ちゃんが青い光の玉へと変わり、先輩の右手に握られた霊刀、天庭と一体化した。
「……はい!」
鮮やかな紫色に輝く天照を掲げ、私は応じた。視線を後ろに、今し方鬼から救い出した瑠唯ちゃんを見る。
「うっ……」
瑠唯ちゃんは立ち上がっていた。まだ苦しそうだったけれど、幾分良くなっている感じがする。
「瑠唯ちゃん、そこに居て」
瑠唯ちゃんが、微かに頷いた。それを確認して、私は化け物、餓鬼霊へと変貌した鬼を、真っ直ぐに見据える。
天照を構える、私の隣で一月先輩も天庭を同じように構える。私達の霊刀が纏う二色の光が、体育館の暗闇に浮かんでいた。
《お前が欲しい……お前が欲しい……!》
もう、椰臣に生前の面影など無い。うわ言のような言葉が発せられた瞬間、椰臣――餓鬼霊のドロドロした全身から、巨大な黒霧が発せられる。
私と一月先輩に向けて、一直線に。
「!」
私は直ぐに、天照を盾のように構える。隣で、一月先輩も。
瞬間、飛んできた黒霧が刀身に触れ――そこを支点に、二又に分かれる。火花が散る音と共に、黒霧が飛散する。
「うっ! ぐ……!」
飛び散る黒霧が、顔や肩に触れて不快極まりない。攻撃の方法は、瑠唯ちゃんを核としていた時と同様みたいだけど、悍ましい雰囲気は段違いだった。
この黒霧に体の一部が触れているだけでも、気分が悪くなりそうな程に……!
「く、まずい……!」
一月先輩も、私と同じ事を思っていたようだった。今はまだ防げているけれど、このままだと長くは持ちこたえられない。
《姉ちゃん、天照はそのままにしておいて》
「ぐっ……! えっ?」
天照に宿っている炬白からの言葉、こんな状況だけれど、はっきりと聞こえた。
続いて、
《阿毘羅吽欠蘇婆訶……!》
その炬白の呪文と同時に、天照に纏っていた紫の光が増幅した。きっと炬白の呪文の効果なのだろうけれど、私に考えている暇は無い。
一方的に黒霧に押されていたけれど、今は僅かながら押し返す事が出来ている。
「ふっ……!」
天照で黒霧を防ぎながら、一歩を踏み出す。行ける、このまま近づいて、あの化け物を斬れば……!
滝のように放たれ続ける黒霧を防ぎながら、私はゆっくりと、でも確実に化け物との距離を詰めていく。私の側で、一月先輩も同様に距離を詰め始めていた。
「気を付けて世莉樺、嫌な予感がする……!」
一月先輩と同感だった。だけど、このまま守りに徹しているだけでは、いずれ崩される。守りを崩される前に、あの化け物を倒す事――それ以外に、私達に方法は無かった。
「!?」
しかし、黒霧が突然止まった。私達を押しつぶすような勢いだった黒霧が、何の前触れも無く途絶えたのだ。
何が起きたのか、そう思って視線を前方へ向ける。
巨大な流動体のような化け物、餓鬼霊は遠方で蠢いていた。
《気をぬかないで。いつきも、せりかも……!》
千芹ちゃんに言われるまでも無く、私も先輩も気を抜いてなど無かった。
私が息を吐いた次の瞬間、それが起きた。化け物から、無数の黒い柱のような物が伸び――まるでトンネルでも作るかのように、みるみるうちに体育館を覆っていく。
「っ!?」
天照を構えたまま、私は周囲に視線を巡らせる。その時、先輩と背中が当たった。
「っと、すいません……!」
「大丈夫。それよりもあの化け物、一体何を……?」
私も気になる。けど今はとにかく、周りに気を配らないと……!
「っ、世莉樺!」
一月先輩に呼ばれて、私は即座に振り返った。化け物の体中が、ボコボコと沸騰するかのように蠢き――次の瞬間、凄まじい勢いで黒霧の柱が伸びてくる。
「……!」
反応する事も出来なかった、しかし。
「伏せて!」
一月先輩に片腕を引かれて、私は膝を付く。
天照の刀身が床に触れ、金属音を立てるのが分かる。頭上を、黒霧の柱が通過していくのが分かった。風圧で、私の髪が煽られるのを感じた。
「先輩、ありがとう御座います……」
私は一月先輩に感謝した。あのままだったら、間違いなく黒霧に捕まっていただろうから。
けれど、次の瞬間に――私の安心は砕かれる。
餓鬼霊の狙いが、私達では無く本当は誰だったのか、理解させられる。
「うっ! や……ああああっ!」
小さな女の子の悲鳴が、私達の後方から発せられる。考える必要も無く、悲鳴の主は瑠唯ちゃんだった。振り返ると、黒霧が瑠唯ちゃんの足や腕に絡み付き、あの子を捕らえていた。
「……! 何で瑠唯ちゃんを!?」
私はそう発しつつ、瑠唯ちゃんの側へ走り寄る。
《もう一度瑠唯を取り込む気なんだ、核を取り戻そうとしているんだよ》
炬白の言葉に、私は危機感を覚えた。そんな事……絶対にさせる訳にはいかない、させない。折角鬼から救い出した瑠唯ちゃんを、再び鬼の負念に埋めさせるような事なんて……!
「うっ!」
けれど、私が辿り着く前に――瑠唯ちゃんに絡み付いた黒霧が引かれ、瑠唯ちゃんが餓鬼霊に引き寄せられる。
「あっ! ぐうっ……!」
瑠唯ちゃんを床に叩きつけるようにしながら、餓鬼霊はあの子を自らの下へ引き寄せて行く。取り込まれてしまう……! そう思った瞬間、瑠唯ちゃんは床に伏せたまま床の裂けた部分を両手で掴み、止まった。
だけど、その表情は苦痛に満ちている。
あんな細い両腕で、黒霧の力に逆らっているのだ。
「瑠唯ちゃん!」
私は駆け出した。隣にいた一月先輩も、同時に。
あの子をこれ以上、悲しい目に遭わさせる訳にはいかなかった。
「助けよう」
一月先輩の言葉に、私は頷く。
迂闊だった、まさか餓鬼霊が瑠唯ちゃんを狙うなんて、思っていなかった。
「はい!」
一月先輩に返し、私は瑠唯ちゃんの下へ走り寄ろうとする。周囲には黒霧が蠢いていて、餓鬼霊に近づけば危険な事など直ぐに分かる。
でも、そんな事気にしてる暇なんて無い、このままだと瑠唯ちゃんが!
「来ないで!」
しかし、他でも無い瑠唯ちゃんが、助けに向かおうとした私と一月先輩を制した。
「瑠唯ちゃん……!?」
私は足を止める。どうして、あの子は助けを拒むのだろうか。
「今私に近付いたら……お姉さん達も捕まっちゃう」
「……!」
瑠唯ちゃんが私達を制した理由が分かった。
あの子は、私達の事を案じているのだ。確かに瑠唯ちゃんの言う通り、今近づけば、黒霧の中に突っ込む形になる。
「瑠唯ちゃん……そんな事言わないで、助けに来たんだよ!」
瑠唯ちゃんを捕らえている黒霧が、張っている。こうしている間にも、あの子を引き寄せて再び取り込もうとしているのだ。私はもう、瑠唯ちゃんの言葉など関係無く、あの子を救いに向かおうとする。
「駄目!」
しかし、瑠唯ちゃんは再び、助けを拒んだ。それでも数歩分は近付いたから、私には瑠唯ちゃんの顔が鮮明に見える。
瑠唯ちゃんは、そのお腹を体育館の床に付けたまま――微かに笑みを浮かべた。悲しい程に、清々しい笑みを。
「お姉さん……ありがとう」
「……!」
瑠唯ちゃんは、
「私と友達になってくれたの、お姉さんだけだった。お姉さんが居てくれたおかげで、私……楽しかった。それに、私を鬼から救おうとしてくれて……本当に、嬉しくて……」
「瑠唯ちゃん……」
瑠唯ちゃんは、黒霧の力に抗い続けている。
「私の為に、もう危ない事はしなくていいから……」
あの子の瞳に涙が浮かんでいる事を見れば、それが本心から言っている言葉では無い事は分かる。さっき、瑠唯ちゃんはお母さんにもう一度会いたいって、ちゃんと謝って、許してもらいたいって言ってたから。
でも……瑠唯ちゃんは、私達を巻き込みたくないのだろう。
だけど、だけど……!
「お姉さん、もういいから……逃げて?」
「……!」
瑠唯ちゃんの言葉が引き金となって、ある光景が頭を過った。いつかの、今と同じような状況の記憶。
「私と友達になってくれてありがとう、私を助けようとしてくれて……本当にありがとう。もう十分だから、だからもう……逃げて」
“姉ちゃん……もういい、もういいから逃げて……! このままだと姉ちゃんまで危ない、だから……!”
そう、それは――あの火事の時の記憶。
炎の中、食器棚の下敷きになりながら私に『逃げて欲しい』と懇願する悠斗。そして今……黒霧に捕らわれながら、同じように私に懇願する瑠唯ちゃん。
二人の姿が、重なった気がした。
「あ……!」
瑠唯ちゃんが浮かべる涙が、微かな明かりを受けて煌めいたのが分かる。
五年前のあの時と、全く同じ状況だった。窮地の最中に居る悠斗を前にして、私は何も出来ずに逃げ出し、結果的に弟を見殺しにしてしまった。
瑠唯ちゃんに懇願されるまま、私は悠斗の時と同じように……逃げ出すのか。
目の前で泣いている小さな子を見捨て、後悔と罪悪感を重ねたまま、生にすがりつくのか――。
「……嫌だ!」
気が付いた時、私は思い切り地面を蹴り、一直線に駆け出していた。
「世莉樺!」
《姉ちゃん、無茶だ!》
一月先輩と、炬白の声が聞こえた気がした。でも、もうそんな物は気にならない。
眼前には、視界に収まりきらない程の黒霧が蠢いている。だけど、私には瑠唯ちゃんを助け出す事、それだけしか――頭に無かった。ここで逃げ出せば、悠斗はもう絶対に私を赦してはくれない。そんな気がしたのだ。
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