第34話 昭和19年3月、夏樹、圧倒的な敵戦力

 3299高地の物資集積所を確保した俺たちだったが、連隊の本部は山中から動かなかった。

 北の第1大隊と東の第3大隊と、両方の指揮を執るには中間に当たるこの位置がいいのだろう。


 17日朝に突撃を成功させて、突角陣地と3299高地を掌握した第3大隊だったが、すぐにその翌日には更に東側の山中に陣を張って、インパール道を監視することになった。


 ただ守るべき山は広大で、大隊の持つ第9中隊を正面南側に、その西側に第10中隊、さらに東の高峰に第12中隊を、というように分散配置をして対応していた。



 左突・笹原連隊の本部が控えとしていた第2大隊も、北の第1大隊の援護に投入することが決まり、19日にインパール道を北上していった。

 英印軍も孤立したトンザン陣地の退路を開くために必死なのだろう。



 中突・作間連隊の話も聞くが、向こうも同じ頃に攻撃目標のトンザン陣地を包囲することに成功したものの、激戦を繰り返しているという。



 さて3299高地占領から5日が経ち、今日は3月22日。俺はその3299高地で倉庫係をしていた。


 猛烈な陽射しが森の木々の枝を通り抜け、まだら模様の影を地面に描いている。

 まだ朝早い時間だというのに、すでに温度計は32度を超えていた。……今日も暑くなりそうだ。


 その時、倉庫の入り口から、

「――弾薬と糧食を受け取りに来ましたっ」

と元気な声がした。

 顔を上げると、そこには数人の若い兵士が来ている。


 敬礼をして話を聞いてみると、彼らは第12中隊の大宮小隊で、これから東方の第12中隊に追及するそうだ。


 なんでも昨日から、山中の第3大隊は、南のムアルカイという部落周辺からの重砲じゅうほう攻撃を受けているらしい。

 2日前には、よりによって大隊本部にも直接敵の一群が出現して、激しい銃撃戦となったと聞いている。ほかにも山中に各中隊陣地にも敵影があるらしいとのこと。

 敵はすでに本格的な反攻作戦に入っているとみられ、それに対応するために増援として向かうのだろう。


 ここは谷間になっているせいか、第12中隊が陣を構えている山を見ることはできない。地図上での読みになるが、一番高いところにある第12中隊の陣地が敵にとられてしまえば、そこから西に広がる第3大隊の各陣地は丸見えとなってしまう。

 砲撃もより正確なものとなり、撤退てったいは必至となるだろう。戦略上の要地だから増援は当然のことだ。


 ……しかし増援といってもわずか1個小隊のみか。4、50人程度の増援、それも先の戦いで負傷者もかなり出たから、実際は30人ほどだろう。

 この3299高地では敵の野戦病院をそのまま利用しているが、戦死者も多ければ戦傷者も多い。


 命令書を確認して、糧食りょうしょくと銃弾の入った背嚢はいのうを渡した。

「では、行って参りますっ」

 敬礼をして彼らを見送り、俺は東にそびえる山を見上げた。



 翌朝23日のまだ暗い時間、突然、俺と増田の班に命令が下った。第3大隊の各陣地に銃弾を輸送せよというのだ。

 寝ぼけ眼をこすりながら集合したが、どうやら昼間に彼らを見送っている場合では無かったらしい。



 行き先は第9中隊。

 すでに夜半は過ぎている。急がないと朝になってしまう。明るくなれば身動きが取れなくなるから、それまでにせめて大隊の本部にいかないとまずい。


 さらに悪いことに今日は新月だった。直線で3キロほどだというのに、真っ暗な山中の獣道を行くのが難しい。

 ずっしりと重い弾薬の入った箱を背負い、俺たちは木々の間に踏み出した。


 敵の斥候せっこうを警戒しつつ、ゆっくりと進む。

 俺たちが山に入った頃から、にわかに風が強く吹き始めた。


 真っ暗な闇が圧倒的な質量をともなって、俺たちを飲みこんでいく。と同時に、強い風がうねるように吹き抜け、木々の枝がざわざわと怪しく揺れていた。

 昼間の熱気などあっという間に吹き飛んでしまい。まるでどこかの幽界ゆうかいのような不気味な空気が漂っていた。


 暗闇でも視界の効く俺でなければ道を間違えてしまうだろう。かといってライトをけてしまえば、遠くからでもよく見える。風が強くなったとはいえ、それは危険だ。

 みんなも懐中電灯を点けるのは最小限にしているようだ。


 ときおり闇の中に動物の目がまたたいている。他のみんなは気がついていないが、幸いに危険な動物はいないようだから、俺も無視をする。


 第3大隊の本部に到着した頃には、まもなく朝になるところだった。このまま第9中隊の陣地まで行けるだろうか。


 大隊の本部に向かう途中、突然、砲弾が空に撃ち出される音が響きわたった。あわてて近くの遮蔽物しゃへいぶつを求めて、その影に入る。

「こんな朝早くから――」


 驚くも、せめてどこかのごうに入れてもらわないと危険だ。


 ところが砲弾が着弾したのは、ここから遠く東の山の中だった。

 しめたっ。強い風が吹き続けているから、随分とれたんじゃないだろうか。


 ドオン。ドウドウドウドウ。ドオン。


 あの音、カノン砲だろうか。

 腹に響くような音が連続で鳴り響く。たちまちに東の山の頂上近くで次々に赤土が巻きあがり、立ちのぼった煙が風に巻き込まれてうごめいている。


 どれくらい攻撃が続いたのだろうか。やがてふっと唐突に音が止んだ。

 恐る恐る東の山を見上げる。土煙が風に吹かれて少しずつ透き通っていく。

 露わになった山の一画は、あんなに木々が生い茂っていたのに、まるでえぐり取られたようになっていた。


 本部の方が騒がしい。

 どっちにしろ、到着の報告もしないといけないので、本部の天幕に向かうと、そこでは通信兵が必死になって無線機に語りかけていた。


「第12中隊。応答しろ!」

 よほどあせっているのか、暗号などなく生文なまぶんになっている。だがその場にいる誰もがそれをとがめることはなかった。

「――第12中隊っ」


 しかし、いつまでたっても無線からは沈黙が流れるだけ。やがて、通信兵は無言で本部内の、あれは末木大隊長だ、の方を見る。

「第12中隊。……玉砕ぎょくさいと思われます」

 それを聞いた大隊長は口元を引き締めたままうなずいた。


 玉砕。

 俺の脳裏に昨日、倉庫にやって来た若者たちの姿が浮かんだ。ぐっと握りこぶしに力がこもる。頭がカッと熱くなり、周りの音が遠くなった。


 彼らが……、玉砕しただとっ。



「――輜重兵か」

 誰かの声に我に返る。

「悔しいのは分かる。だが、まずは報告をしろ」

 大隊の将校に促され、俺は敬礼し謝った。



 すでに明るくなっているけれど、どうやら前線では俺の予想以上に状況が悪いらしく。すでに弾薬をほとんど使い果たしているという。


 敵の砲撃にさらされる危険はあるが、ともかく一刻も早く弾薬を届けて欲しいらしい。

 幸いにも目指す第9中隊の陣地は、本部の正面700メートルほどという。まだ第12中隊玉砕の衝撃から立ち直れていないが、次は第9中隊の番になるかもしれない。急がないとマズい。



 無言で山道を駆け下りる。木々の枝の先がピシッと頬を掠めていくが、気にしている余裕はなかった。


 その間にも砲撃の音が再び始まり、次々にこの山のどこかで爆音が聞こえる。

「くそっ、くそっ、くそっ」

 いつしか俺はそうつぶやいていた。だが、足を止めることはできなかった。


「あそこだっ」

 後ろから誰かが叫ぶ。

 顔を上げると、もう陣地まであと100メートルの近くまで来ていた。だが、すでに砲撃が次々に着弾していて、あちこちの地面がえぐれたように吹き飛んでいる。

 周りの木々の下生したばえには火が燃え移っていた。


「くそっ。どうする?」

 このままじゃ危険すぎて中に入れない。……いや、構うものかっ。


 タイミング良く、一瞬砲撃が止まった。

「今だっ。どこでもいいからごうに入り込めっ」

 咄嗟とっさに俺が指示をしてしまったが、みんな「おおっ」と言う。

 友軍から撃たれないように「輜重だっ」と呼ばわりながら陣地に飛び込み、そのまま近くの壕に入り込む。その瞬間、反対側の斜面から敵兵が現れるのが見えた。肉迫攻撃がはじまる。


 転がり込んだので一瞬空を見上げる形になったが、そこには一機の飛行機が浮かんでいた。

「……あれが赤とんぼ。偵察機ていさつきだよ」

 中にいた若い歩兵が教えてくれた。……が、すでにぐったりとしている。見ると腹部に砲弾の破片が突き刺さっていた。

 顔にはびっしりと脂汗を浮かべていて、苦しそうだ。

「すまんが、水は、ないだろうか」

「あるぞっ、ちょっと待て」


 どうやら陣地に迫った敵は、手榴弾しゅりゅうだんを投げ込んできているようだ。

 迫撃砲はくげきほうの音もするが、これは敵の方に着弾しているようだ。味方の擲弾筒てきだんとう隊がまだ生きているのだろう。


 壕から頭が出ないように、倒れている歩兵ににじり寄る。見ると若い歩兵の水筒は穴が開いていて、水滴がわずかにぶら下がっているのみだった。

 まだ若い。20歳そこそこの初年兵だろうか。

 指先の感覚だけを頼りに自分の水筒を引き寄せて、ふたを開けて口元に近づけてやる。力なく口を開くそいつに、そのまま水を飲ませた。


 やがて口を閉ざし、あふれた水が口元にこぼれる。

 あわてて水筒を離すと、

「ありがとう。……世話になった」

とぽつりつぶやいた。それを聞いてほっとした瞬間、急に目をカッと開き、

「天皇陛下万歳!」

と叫ぶやスイッチが切れたように脱力し、かすかに「父さん、母さん――」とささやくような声が漏れて動かなくなった。


「おいっ。しっかりしろっ」

と肩を揺するも、もう息をしていない。思わずガンッとそばの地面を殴りつけた。「くそっ」


 しかし、すぐにポケットをまさぐって軍隊手帳を取り、俺の神力収納から愛用のナイフを取り出した。

 ここは戦場だ。遺体を放置して撤退する可能性がある。だから許してくれ――。


 震えながら、右手の親指に刃を当て一気に切り落とした。そのまま軍服の一部も切り取って親指を包み込み、手帳とともに神力収納にしまう。人体を切る感覚に怖気おぞけが立つが、手帳にあった名前を叫んだ。

「友野戦死だ!」


 今まで砲撃音と銃撃音で気がつかなかったが、あちこちから「負傷!」「戦死」という声が聞こえていた。


 どうやら敵は一斉に押し込んでくるつもりはないようだ。ただじわりじわりと近づいているのを感じる。

 そっと頭を出そうとすると、次の瞬間、銃弾が飛んできて鉄帽を掠めていった。


 くそったれ。これじゃ身動きが取れない。……なにか打開策はないか。


 ジリジリと焦りだけが募る。


 幸いに、その日の攻撃も暗くなるとともに止まり、砲撃が始まると同時に敵は撤退していった。

 どうやら向こうも責めきれなかったようだが、こっちは九死に一生を得た。


 おそるおそる壕から外に出ると、辺りにはえぐれた地面、燃えさかる木片に、転がっている誰かの鉄帽。吹き飛んでいる陣地の残骸が、激しい戦闘の跡を生々しく教えてくれた。

 一面に漂う硝煙のけむたい匂いに、鉄のびたような血のにおいが立ちこめ、熱気が滞留たいりゅうしている。


 同じように壕から這々ほうほうていで出てきた将兵の顔は、どれもこれも泥やすすで黒くなっていた。

 幸いに増田も、同じ輜重兵の班の奴らも無事に生き延びていた。


 しかし、生き残った喜びはない。目の前には散々にやられた陣地の惨状さんじょうが広がっているのだ。

 戦死者の遺体があちこちに転がり、立ち上がれない重傷者がうめき声を上げていた。陣地に隣接する木々も砲撃のせいか打ち折られ、その断面がメラメラと燃えている。


 そこへ大隊本部から連絡が入った。

 無線を受けた通信兵が、言いにくそうにしながら臨時に第9中隊の指揮を執っている千木良ちぎら軍曹殿に何かを報告した。


 それを受けた軍曹殿は、目をゆがめて口を食いしばり、凄まじい形相で何かをえている。


「……転進だ。3299高地西方の陣地に今夜中に移動する。……遺体を運ぶ余裕はない。各自、準備を急げ!」


 その命令を聞いた歩兵たちは返事をしたものの、誰もがうなだれて散らばっていった。できうる限りの戦友の親指と軍隊手帳を集める作業に入るのだろうか。


 俺たちは軍曹殿に一声掛けて、先に移動することにした。大隊本部、また3299高地で何らかの命令が来ている可能性があるからだ。


 すぐに陣地を出発して、大隊本部を経由。

 どうやら山中の第3大隊全体が、3299高地をさらに西に行ったところの陣地に転進するらしい。3299の物資はできるだけ持ち去る予定だが、時間が無いのでほとんど残していくしかなさそうだ。


 せめて……。インパール道が打通されていればあの物資を車で運べたんだが、トンザンの背後を遮断している俺たちにも、逃げられる場所はどこにも無いのだ。


 ともあれ、俺たちも山中を進む。

 昨夜からずっと吹き続けている風は、雨雲を運んできたようでどんよりとした雲が空を覆い、そこからスコールのような激しい雨が降り出していた。


 あたかも俺たちの転進を援護するかのような雨が、機関銃掃射のように木々の枝をピシピシと打ち、俺たちの身体にも突き刺さるように打ち付けていた。

 びしょ濡れになり全身が冷えるとともに、お腹から何か大切なものが流れ出していくような感覚がする。


 足が重い。身体が重い。心が重い。


 顔を上げるも、いつも空に浮かんでいた月は、黒い雲に塞がれて見えない。ただただひたすらに、雨がすべてを洗い流すかのように降りつづけていた。

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