第32話 昭和19年3月、夏樹、ウ号(インパール)作戦始まる


 空には折しも十五夜の満月が煌々こうこうと輝いている。

 柔らかい光が夜の世界を照らし、まるで影絵のように木々を、山々を浮かび上がらせていた。


 目の前には、幅およそ70メートルほどのマニプール川がゆったりと流れている。谷間を流れる夜の川。黒々とした水がなまめかしく月光を反射している。


 3月はまだ暑季だ。

 昼間の熱気が夜の6時を過ぎた今も、濃密に立ちこめていた。


 手前の川原には、木々の枝の下に多くの将兵がその時を待っている。俺たちは今夜、この川を渡る。

 遥か北方。山々を踏み分け、国境を越え、その先にあるインパールを目指して……。



 昨年から、ビルマ方面軍の隷下れいかにある第15軍で、インパールを攻略して、中国の蒋介石しょうかいせきを援助するルートを塞ぐ計画が検討されていたという。


 その計画。ウ号作戦というが、それに備えてか、俺たち弓師団の師団長は桜井中将から柳田中将へと、また輜重兵しちょうへい連隊長も陳田ちんだ連隊長から松木熊吉連隊長に代わっていた。


 輜重兵連隊の編成も変わり、馬はすべて第1中隊に集め1個小隊を編成。

 残りの第1中隊と第2中隊とは牛で編成。

 第3、第4中隊は従来通りの自動車編成となった。


 俺も増田もなぜか第2中隊から選抜されて、新たに編成された1個小隊に配属となった。 ただここだけの話だけれど、俺は牛よりも馬の方が扱いに慣れているので、内心では少しうれしい。


 ――今、斥候せっこうの小隊が、渡河とか地点を探るために川を調査している。

 すでにここは敵連合国の英印軍と日本軍とがぶつかり合う最前線。いつどこに敵軍が潜んでいるか分からない。

 それに制空権はすでに英印軍の手に渡っていた。



 斥候小隊が調査している間に、渡河のヘルプに来てくれた工兵達がゴムボートの準備を始めている。

 制空権が敵に握られている以上、もし渡っている最中に敵機に見つかってしまったら、俺たちには逃げ場は無く全滅の危険性がある。


 月明かりを頼りに作業を続ける工兵たち。

 その作業を見つめていると、増田がやってきた。

「いよいよだな」

と声を掛けると、増田も真剣な眼差しで工兵の作業を見つめながら、「ああ」と短く答えた。

 普段はおしゃべりが好きなこいつも、今は緊張からか沈黙をたもっている。



 敵の情報だが、再びインドとの国境を犯してこっち側ビルマに侵入してきていて、すでにトンザンあたりに強固な陣地が構築されているらしい。


 そのインドはイギリスに長年支配されていた。しかしその支配を打ち破り独立を目指そうと、チャンドラ・ボースが独立運動を展開。昭南シンガポールで独立連盟を結成し、インド国民軍を組織したらしい。

 彼らは日本の陸軍とともにインドに侵入し、独立運動を活発化しようと考えているそうで、まだ合流こそしていないものの、このウ号作戦にも参加する予定になっている。



 日本軍がインドのインパールを目指す。それがウ号作戦だけれど、どうも第15軍の牟田口司令官殿は、さらにその先のアッサム州ディマプールまで軍を進める内意があるらしい。

 ――あくまで噂レベルの話なので、どこまで真実かはわからないが。



 さてそのウ号計画の内容を少し説明しておこう。


 ビルマ中西部。

 チンドウィンという大河の西岸にカレワという部落があり、そこからアラカン山系の山々をうようにインパール道がある。


 我が弓33師団はこの道路に沿って進軍し、途中にある敵トンザン陣地を攻略。さらに道をさかのぼって国境を越えてインパールを目指す。


 同じ第15軍、通称号:林の隷下れいかにはまつり15師団と烈31師団があり、祭は東と北からインパールへ、烈はインパールの背後にあるコヒマを制圧して退路を遮断し、3師団でインパールを包囲する計画となっている。


 雨季が近づいていて、作戦開始がいつになるか心配していたが、ちょうどインパールを制圧した頃に雨季になれば、敵の英印軍は反攻作戦もできないだろうという読みらしい。


 なるほど、図面上から判断すれば、インパールを弓、烈、祭で包囲する作戦で有効な作戦といえるだろう。

 ……こっちの補給線が細く長すぎて、とても維持できないということに目をつぶればだが。


 はっきり言って、無理だろう。



 インパールまで図上の計算では約190キロ。実際は山あり谷あり川ありで、行軍距離は470キロほどになると想定される。

 仮に30日で計算すれば、1日におよそ16キロを歩く計算となる。途中に立ち塞がっているのは、日本アルプス級の山々だ。しかも戦闘しながらで、果たして計算通りにいくだろうか。


 物資輸送は俺たち輜重兵の任務でもあるから「厳しい」とか「無理」とか言いたくはないが、正直補給線をどこまで維持できるかわからない。


 足りない物資は敵陣地で奪う心づもりなのだろうが、そもそもその敵陣地がいくつあるかもわかっていないのだ。

 あるかどうかもわからない物資を頼りに進軍するには、距離が長すぎる、道程が厳しすぎる。


 もちろん危険を恐れて戦争はできない。できない理由を挙げることは簡単だ。それを乗り越えてこそ勝利があるのも道理だろう。

 ……ただ。その上でだ。


 今回のウ号作戦は生半可な戦いでは済まない。そんな予感がしている。

 第15軍の牟田口司令官は50日でインパールを攻略するとか、4月29日の天長節天皇誕生日には堂々とインパール入りすると豪語しているらしいが……。


 しかしそんな俺の不安とは関係なく、昭和19年2月25日、弓第33師団から所属する各部隊に命令が伝達された。


「一、師団は極力企画を秘匿ひとくしつつ、作戦準備を整備強化しX―7日Xの7日前一斉に行動を開始し、一部を以てヤザギョウ―タム―パレル道に沿う地区を、主力を以てトンザン―チッカ―インパール道を、インパールに向かい突進せんとす。


(中略)


九、輜重兵しちょうへい連隊は動物輜重を以て中突進隊の後方を前進し、中及び左突進隊の補佐に任ずると共に、自動車輜重を以て右突進隊の補給及び主力方面の集積に任ずべし。


(中略)


十一、物資収集利用班は、各突進隊の後方を前進し、鹵獲ろかく物資を収集利用し、師団の戦力増強を図るべし。

十二、各突進隊及び各隊は、行李を含み十四日分の糧秣りょうまつを携行すべし。

 特に現行物資、鹵獲物資の収集利用に努め、戦力を保持増強すべし(以下略)」




 ウ号インパール作戦自体のX日は15日。俺たち弓師団の作戦発起はXマイナス7日である今日、3月8日。


 先の命令に明らかなように、弓33師団の本部は、部隊を右突進隊、中突進隊、左突進隊の3つに分けた。


 右突進隊は山本募少将指揮下に、歩兵第213連隊主力、中・軽戦車30両あまりの戦車を持つ戦車第14連隊、9門の九四式山砲、8門の自動車牽引けんいん15榴弾りゅうだん砲と10カノン砲など、野戦重砲兵じゅうほうへい第3連隊、同第18連隊を配属。


 中突進隊は作間さくま大佐指揮下で、歩兵第214連隊主力、山砲兵33連隊の1ヶ大隊を配属。……香織ちゃんの旦那の秀雄くんの部隊だ。

 そして、左突進隊は笹原大佐指揮のもと、歩兵第215連隊主力、山砲兵33連隊の第3大隊を配属する。


 作戦では、まず右突進隊は北から回ってパレルからインパール平原に出て、東南の方角からインパールを目指す。

 中突進隊と左突進隊は、トンザン付近の敵陣地を2方向から挟撃きょうげきして殲滅せんめつし、そこから北に進みインパールを目指す計画だった。


 輜重兵連隊は、俺たち駄馬1個小隊が左突笹原連隊の配属。

 一部の自動車隊を右突山本連隊の補給任務に、そして残りは主力部隊の補給任務に就くこととなっている。


 各自持参する食糧は14日分。

 その内訳は、各人携行が12日分、行李こうり部隊運搬うんぱんが1人2日分計算の糧秣りょうまつ、そして、輜重隊で1人6日分の糧食を連隊分ごとに輸送することに決まった。


 各人の携行量は米だけで10キロ、外套がいとうや携帯天幕を入れると40キロの軍装となる。さらに歩兵銃や弾薬、手榴弾しゅりゅうだんなどを装備すれば60キロの装備。……60キロだぞ。

 高校生男子を常に背負っていると想定すればその重さがわかるだろうか。一度座ってしまえば、1人で立ち上がることも厳しい重さだ。




「どうやら準備ができたようだな」

 増田の声に、我に返って前を見ると、にわかに笹原連隊の動きがあわただしくなっていた。

 ゴムボートが川に乗り出され、そこへ歩兵がワラワラと集まって乗り込んでいく。


「敵影はなさそうだ。戦闘機の音もしない。――頼むから、俺たちが行くまでこないでくれよ」

 祈るような増田のつぶやきに、俺も黙ってうなずいた。


 数日前にも、夜間に敵の爆撃機の大軍が俺たちの頭上を通過していった。

 制空権を握られている俺たちにとって、行動できるのは視界の効かない夜だけ。……そう。今の、この時間だけなんだ。

 幸いに敵飛行機の影はない。最後まで来ないで欲しい。



 ゴムボードが静かに対岸に向かって進んでいく。

 漆黒の川を行く仲間たち。その姿は俺の目に、伝説のアケローン川を渡る船のようにうつった。


 冥界の川ステュロス憎悪の支流であるアケローン悲嘆川。

 その川を自由自在に渡れるのは、エレボスニュクスの息子である渡し守カロンのみだという。


 かの『神曲』の一節が思い浮かぶ。


 ――天を見るを望むなかれ、我は汝等をかなたの岸、永久とこしへの闇の中、熱の中、氷の中に連れゆかんとて来たれるなり。



 今、俺たちは、六文銭も1オロボスも持たずに、亡霊のごとく渡河の順番を待っている。そして、自分たちの力で暗黒の川を渡ろうとしているのだ。

 果たしてこのうち何人の将兵が、生きてこの川を渡って帰れられるのだろうか。


 気がつくと、俺は右手をお腹に当てていた。そこには春香が何日も何日も街角で頭を下げてくれた千人針がある。


 俺たちを守るは、妻や母の願いの結晶である十五の守りのみ。

 春香の祈りが俺を守ってくれる。そう信じている。――だから行こう。


 たとえあの川の向こうが地獄であったとしても。俺の女神が守ってくれるなら、恐れるものは何もない。ただこの戦争を、この先の戦いをこの目で見届けてこよう。

 どんなに苦悩にさいなまれようと、何が待ち受けていようと、俺には春香がいてくれるんだ――。


 地の底を流れる川を、影絵のような一団が渡っていく。

 ただビルマの黄金こがね色に輝く月だけがそれを見守っていた。



――――

ダンテ『神曲』山川丙三郎訳 第3歌85-87

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