第31話 昭和19年1月、春香、黒磯の映画館
夏樹が出征してから1年と半年が過ぎた。
あれから私は清玄寺の奥の離れで生活をしている。
恵海さんと美子さんが心配してくれたってこともあるんだけど、1人で蔵にいるとどうしても寂しくなっちゃうから、甘えさせてもらうことにしたんだ。
今日は、雪も深まっている昭和19年の1月17日。
清玄寺の広間で開かれている隣組の
「――ということで、皆さまには再三再四のお願いですが、国債の分担をお願いします」
隣組の組長である石川さん、の奥さんがそういうけれど、いつもはおしゃべりで騒がしい他の人たちは目線を合わせないように下を向いていた。
その気持ちもわかる。
どこも借金だらけでとても国債を買う余裕なんてないんだから。
国債の割り当てが隣組に課せられてくるんだけど、政府ではこんな農村では負担が重すぎることくらいわからないんだろうか。
誰もが返事をしないし、隣組組長さんもそれがわかっているんだよね。だから本来は旦那さんが言うべきなのに欠席しちゃって、奥さんのまささんに言わせているってわけ。
お互いにお互いの事情がわかっているだけにねぇ。まささんも言いにくいけど、言わなきゃしょうがない。辛い立場だと思う。
恵海さんが皆の様子を見てため息をついた。
「しょうがない。うちに持って来なさい」
とまささんに言うと、まささんは、
「いつもすみません」
と頭を下げていた。
この光景ももう何度も見ていた。
で、清玄寺にもお金がなくなってきているから、国債のお金は、結局うちからこっそり出すことになる。
恵海さんが申し訳なさそうに私を見た。
……まあ、しょうがないよ。
そっと微笑んで小さく首を縦に振る。大丈夫。これくらいの負担は、夏樹だってわかってくれる。
だるまストーブに乗せた
昨昭和18年の11月5日から6日にかけて、東京で大東亜会議が開催された。
東京に、ビルマ、満州、中華民国、タイ王国、フィリピン、インドの各国代表が来て大東亜共同宣言をしたわけで、それを新聞で知った皆はいよいよアジアの独立に意気揚々、……とはならなかった。
農村も農村の松守村では、それよりも日々の生活の方が大切だった。なにしろ男手がどんどん減っているのだから。表面上は特に何もないけれど、内心では早く戦争が終わって欲しいと考えている人も増えてきつつあるように思う。
もっともあの大東亜会議には諸刃の剣の一面がある。
6ヶ国政府といっても、私自身、日本が独立させた国は
たとえ傀儡でなかったとしても、結局のところは対立をあおるだけ。もちろんそれが狙いなんだろうけど。
それに戦況は、新聞で書かれていないようだけれど、次第に敗色が濃厚になっているのが透けて見えた。
昨年の5月の下旬だったろうか。山本五十六元帥の戦死が報道され、村内も一時騒然としてショックを受けている様子だった。
ガダルカナル島だって「転進」って書いてあったけど、実際は敗走していたはず。
それに10月には、とうとう
学徒出陣だけではない。女性の社会進出といえば聞こえは良いけど、鉄道員や運転手、軍需工場で働く女性が増えていて、段々と戦争末期の様相を呈しはじめているように感じた。
いずれ子供たちも工場へ働きに出ることになるだろう。
敗戦まであと1年半。
きっと夏樹も戦場で色んな嫌なものを見ているだろうし、それを思えば私も泣き言はいえない。
その日の夜。
離れで1人、夏樹からの手紙を読み返していた。
〝お前を連れてきたいと思っている〟と書かれている言葉に、そっと微笑む。
どうやら地元の人たちとは上手にコミュニケーションがとれているみたいだし、変化に富んだ風土のようだ。
優しい人たちか……。ビルマね。
きっと膝の上で書いたんだろう。いつもの夏樹の文字よりは形が崩れている。
一体どんなところにいるんだろう。何を見て、何を考えながら書いていたんだろう。軍隊生活ってどんな風なんだろう。他の人と上手くやっていけているんだろうか。
辛い目に遭っていないかな。哀しくて理不尽なことに、怒りを覚えていないだろうか。
……夏樹は自分でため込んで、私以外の人には相談しないタイプだから心配になるよ。
持って行った私の人形は、役に立っているだろうか。
最後の〝愛してる〟の文字を指先でそっと撫でる。
細い線の文字だけれど、そのインクが温かい。この文字の先に夏樹がいる。それが指先に感じられるような気がした。
あたたかくて優しいあの声が、また聞きたい。あのまなざしに見つめられたい……。
息を深くはいて、そっと目を閉じる。今は
それがまた孤独感をつのらせる。
……ああ、駄目だ。こんな夜は心細くなってしまう。もう寝た方がいいかも。
手紙を畳んで机の上に置き、部屋の明かりを落として布団に入った。
あらかじめ入れておいた湯たんぽのお陰で、中はほんわかと温かい。私は夏樹枕を抱き寄せて、そっと目を閉じた。
顔に太陽の光が当たっている。
そっと目を開けると、満開の桜が天蓋のように私を覆っていた。重なった花々の間から、木漏れ日が、キラキラと射し込んでいる。
大きな桜の木。この木は……、そうだ。
子どもの頃、よく遊びに行った裏山のお寺。街を見下ろす高台にあった桜の木。
そして、夏樹が私に「春香が好きだ。誰よりも愛している」と告白してくれた場所だ。
忘れたことなんてない。けれど遠く、少しおぼろげになってしまった記憶。
ああ、ここから見える景色はこんな風だったな……。
懐かしさに目を細めた時、さあっと一陣の風が吹き抜けた。
桜の花びらが、はらはら、はらはらと一斉に舞い降りる。
どこからともなくパンパイプの音が聞こえてきた。遊牧民の奏でる風の歌のような、素朴な音色。
このメロディー……。これは旅の合間に、夏樹と一緒に作った曲。私たちだけの、私たち2人をうたった歌。
自然と唇から言葉がこぼれていく――。
嵐が過ぎるまでは 岩陰でやりすごそう
雨がやんだら 立ち上がり 再び一緒に歩きだそう
どんなに辛い道のりも
あなたがそばにいてくれるなら
……ああ。そうよ。夏樹がそばにいてくれるなら、どんな辛いことも我慢できる。
貴方がいない切なさが、愛しさが、胸の底からこみ上げてきた。目元が涙でにじんでくる。
その時、夏樹の声が聞こえてきた。
――私は歩いて行ける 勇気をくれるあなたと だから
振り返ると中学生の時の夏樹がそこにいた。懐かしい学ランを着て、まだまだ幼い子どもの顔でそっと微笑んでいる。
夏樹の歌声に重ねるように、私も一緒に歌おう。
いくつもの時を超えて
その先へ その先へと 2人で行こう
風に吹かれ 虹の向こうに
風に吹かれ 空の果て
どこまでも 一緒に行こう
歌っているうちに、夏樹はまるで早送りの動画のように大人になり、着ている服も結婚式の時の礼服に変化していった。
気がつくと、私もあの日のウエディングドレスを着ている。
歩み寄ってきた夏樹が私に手をさしのべる。その手を取ってほほえみかけると、私と夏樹の間を、桜の花びらが風に乗って通り過ぎていった。
これは夢だ。
それはわかっている。目が覚めたらきっとまた、1人。
それでも、今は。この夢の中だけでも、貴方を感じていたい。
そっと胸に飛び込んで抱きしめる。夏樹はそっと私の髪を撫でてくれた。
――ヒンヤリとした空気に目が覚めると、そこは眠りについた離れの部屋だった。
もう見慣れてしまった天井に、冬の冷たさ。
ああ、朝が来た。来てしまった。
あなたのいない一日が、また始まる……。
寝ているうちに泣いてしまったんだろう。濡れた夏樹枕が妙に冷たかった。
けれどもそのまま顔を押し当てて、匂いをかいだ。
もちろん、夏樹の匂いなんてない。それでも、少しでも夏樹を感じたかった。
どれくらいの時間をそうしていたかわからないけど、ようやく起きる気になって、枕元に置いておいた普段着のもんぺを布団の中に引き込んで、そのまま着替えてしまう。
布団の外は寒いから、これくらいはいいよね。
のろのろと起き上がって障子を開けると、朝日の光に、凍りついた木々の枝や積もった雪がキラキラと輝いていた。
――ああ、会いたいなぁ。
◇◇◇◇
その日の午後、冬装備に身を包んだ香織ちゃんがやってきた。
「奥様! 明日は映画館に行きませんか?」
そう言う香織ちゃんのほっぺは、外の冷気で赤くなっている。
「え。どうしたの?」
なぜかキラキラした目をしている香織ちゃんに戸惑いを隠せない。
せき払いをした香織ちゃんが、
「私も他の人から聞いた話なんですけど。――日本ニュースでビルマが出ているらしいんです」
ああ、なるほど。
日本ニュースってね。
占領地の様子や国内のニュースを動画で流すニュース映画なんだけど、内容は戦意高揚のためのプロパガンダ的なものだ。
……夏樹が出ているってことはないよなぁ。おそらく香織ちゃんも、秀雄くんが出ているかどうかも知らないとは思う。
それでも見たいんだろう。その気持ちはわかる。
秀雄くんが今どんなところにいるのか知りたいんだよ。少しでも同じ空気を感じたいんだろう。私もそうだもの。
「――そうだね。じゃあ一緒に見に行こうか」
こうして約束を交わした私たちは、明くる日、黒磯の映画館に向かった。
戦時中ではあっても、今のところ映画はそれなりに上映されている。この日は去年の正月に封切られた『姿三四郎』を再上映しているらしい。
久しぶりの映画館で少しドキドキしている。香織ちゃんもうれしそうに隣の椅子に座っていた。
東京以来だものね。映画を見るのは。
やがて会場の照明が暗くなり、正面が四角く明るくなる。
―第189
スクリーンに文字が浮かび、ラッパの音が流れ出した。続いて「脱帽」「
前の席の人がかぶっていた帽子を取った。
「大東亜戦争下、3度迎える陸軍
捧げ
つづいて「
白黒の映像だけれど、まるで夏空のように白い雲が浮かんでいる。山野を背景にした鉄道の線路。
あの鉄道は、最近完成したという
「――ビルマの空は
ああ……、あれがビルマ。あそこに夏樹がいるんだ。
「空との戦い、ジャングルとの戦い、そして不足をしのぶ補給の戦いである。陸の精鋭の労苦を思い、健闘をいのるや、
上半身はだかになったビルマの人たちが、荷台に荷物を載せている。
トラックを運転する兵士。
揺れるトラックから前方の道を移すカメラ。BGMといい、このシーンは妙に冒険映画みたいな撮り方。まるでインディ・ジョーンズシリーズの映画の一コマのようだ。
そのままトラックは森の中に入っていく。
林の中にひっそりと建物がたたずんでいった。その傍には木々に埋もれるように車が隠してある。
宿舎らしく、中のテーブルで将兵が何かを書いていた。
そして画面は変わり、平野に集合したチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が行軍している映像となった。
「1月7日、スバス・チャンドラ・ボース氏は、自由インド仮政府をひきいてビルマに進んだ」
次の映像は……、爆撃を受けた寺院だろうか。
崩れた
「――彼らの言う『敵に与えた大損害』とは、かくのごときものである」
再びコントラストの強い空となり、モクモクとした大きな
「見よ、敵機
最後に映し出されたのは、上空から見たビルマの山河だ。あの大きな川はイラワジ川だろうか?
その向こうには
ふと気がつくと、いつの間にか口元がほころんでいる。
遠いビルマの風景。ビルマの人々に、将兵たち。
ほんの僅かなショートフィルムだけれど、確かに夏樹と同じ空気を感じていたと思う。
戦争の映像なのに、なぜかそれがうれしかった。
――――
日本ニュース189号(NHK戦争証言アーカイブス)
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300317_00000&seg_number=002
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