第21話 昭和15年10月、深まる戦時色

 今日は珍しく香織ちゃんがやって来た。昨年の12月15日に出産した長男の和雄くんと一緒に、ちゃんと婚家のおしゅうとめさんに許可をもらって。


 生まれてすぐの頃に抱っこさせてもらったけど、あの頃のフニャフニャした感じではなく、今ではしっかりした赤ちゃんらしい体つきに成長していた。もう生まれて8ヶ月。首も腰もわっている。


 蔵の居間にいるけれど、赤ちゃんが一人いるだけで楽しくなる。そのかずくんはちょこんと座った姿勢で、一生懸命にテーブルの上に手を伸ばそうとしていた。

 つかまり立ちは、まだ無理みたいだね。


 香織ちゃんが微笑んで、

「はいはい。和くん。これね」

と言って、私が作ったキルトのクッションボールを持って、「ころころころ」と口でいいながら和くんのところに転がしてあげていた。


 ギュッと無造作にそのボールをつかんだと思ったら、半開きの口からよだれを垂らしたままでカプリとかみついた。……いや、まだ歯は生えそろってなかったか。

「あー」


 満足したのか、今度はエイヤッと腕を上げる。その手の先からボールが落っこちて、ころころと転がっていく。それを見てまた手を伸ばす和くんに、香織ちゃんがまたもボールを転がしながら渡してやる。


「かわいいね」

 ボールに口をつけている和くんのほっぺたを、指を伸ばしてさわる。桃のようにうっすらと産毛が生えているけれど、羽二重餅はぶたえもちのように柔らかい。

 思わずニンマリとしてしまう。


 まだ赤ちゃん語もしゃべれないみたいだけれど、随分とおとなしいし、人見知りもしないようだ。


 また転がったボールに手を伸ばそうとして、バランスを崩してゴロンと転がった。

 そのまま見守っている私と香織ちゃんの顔を見上げ、うつ伏せのままで両手と両足を上げて飛行機のポーズを取る。


「あれ? 前にはいはいしてたよね」

「ええ。そうなんですけど、妙にこのポーズが好きみたいで」


 ふうん。……えへへ。こいつめ。


 指で脇腹をツンツン突っつくと、キャッキャッと笑いながらあわてたように仰向あおむけになった。

 ほほう。まるでまな板の上のこいのようじゃあないか。料理してくれと言わんばかりの期待した目が、ニコニコしながら私を見ている。


 手をワキワキさせながら、ゆっくり近づけて、途中からガバッと脇腹に押し当てて、こちょこちょとくすぐった。

 笑いながら身をよじる和くん。鈴が転がるような笑い声を上げている。

 や~、かわいいなぁ。もう何時間でもこうやって遊べるよ。


 ニヤニヤしながら私を見ている香織ちゃんの視線が気になりますが、今はまだ自分が産めない分、ほかの赤ちゃんを愛でているのですよ。

「こんな事を訊いて失礼かもしれないですが、お子さんは、その……」


 他の人は遠慮して、面と向かって言ってこなかったことだけど、ずばっと訊いてきたね。まあ私と香織ちゃんの仲だから、心配してくれているんだろう。


「別にどっちかが悪いってわけじゃないんだよ。説明がしにくいんだけど、まだ子供を宿す時期じゃないっていうか」

「そうでしたか。旦那様と奥様には大恩がありますから、気にはなっていたんです」

「ふふふ。香織ちゃん。心配してくれて、ありがとうね。

 普通なら気になる年齢になってきたけど、大丈夫よ。たとえ40になっても私はちゃんと産めますよ」

「そう、なんですか?」


 なぜに疑問形なのかわからないけど、この時代だと不思議なんだろうね。子供ができないことが離婚の原因になりうるわけだし、生めよ育てよという時代だからってのもあるのかな。

 単純に、私と夏樹には年齢の問題はまったく当てはまらないわけで、それがまた説明しにくい。


 ちょっと気まずくなったところで、香織ちゃんが和くんを膝の上に抱っこした。

「そういえば、お米が変わったじゃないですか。……あれ、上手くけなくて困っているんですが、何かコツってありますか?」

「ああ、なるほどね」


 昨年の12月に白米禁止令がでて、7分づきのお米でないと販売しなくなったんだ。

 おそらく米どころの農家ではそんなことは無いと思うけど、あいにく松守村は畑作中心。必然的に白米生活より玄米よりの生活となっている。もしくは麦飯とか。

 聞くところによると、東京のデパートや料理屋でも白いお米を出すのが禁止になったらしい。お店の人も大変だと思う。


 7分づきのお米は、今までの白米を炊くのとは勝手が違って、水切りが悪いというか……。

〝はじめチョロチョロ中パッパ、赤子泣いてもふた取るな〟とは言うけれど、実はもう一手間必要で、最後にちょっとだけ火力を強くして、余分な水分を飛ばさないと美味しくできないんだよね。


 ただこの加減が難しい。ガラスぶたってわけじゃないから中も見えないし、油断をするとげちゃう結果になる。

 きっと香織ちゃんのところも、下手に焦がすよりは多少はゆるい方がいいと妥協するか、もしくはお焦げを美味しく食べる方法を探すかだったのだろう。お湯に戻してお塩を振るとか、そんな風に。



「最近は節米、節米って言われるんですけど、どうすればいいのかわかんなくて」

「わかるわかる。でも節米は悪いことじゃないんだよ」


 昨年は朝鮮で凶作となったため、国内のお米の流通量が減っている。それもあって節米っていわれているんだけど、実は栄養の面からすれば悪いことではない。


 今まで多くの家庭の食事では、こんもりとご飯を多めにして、副食は少し、お漬物つけものとお味噌みそ汁という食事になっている。

 だけどこれって、ビタミン不足になるんだよね。で、ビタミン不足になると脚気かっけになってしまう。これはかつての大航海時代と同じだ。


 そこで節米して他の栄養素を取る。玄米にはビタミンも豊富に含まれているから、身体も強くなるというわけで、にはかなっているんだ。

 問題は、お金がかかるということと、玄米は手間がかかるということだね。


 そういえば今度、お寺の美子さんが講師となって代用食の講習会をするとか言っていたっけ。そういう説明もするんじゃないかな。


 それはともかく、

「節米には3つの方法があるよ」

「3つですか?」


 オススメは1つだけだけどね。


「あれれ? ああいう雑誌とか見てない?」

「……そのう。うちは貧しいので」

「あっ、ごめんね。1つは混ぜご飯や、おかゆにして量を増やす方法。混ぜるのは大豆とかサツマイモとか」

「それってかてめしですよね。うち、普段からそれです」


 予想はしていたけど、やはり既に当たり前のご飯だったか。


「うちもやってるよ。夏樹なんかそら豆ご飯とか、さつまいもご飯とか好きなんだよね」

 もっと貧しい時代もありましたからね。私たちも平気ですよ。こういうご飯は。


 右手の指を2本立てる。

「気を取り直して2つめ。代用食だいようしょく

「代用食?」

「そう。たとえば……」


 そう呟きながら、窓辺の机から『主婦之友』『婦人倶楽部くらぶ』を適当に手に取った。ページを開いて香織ちゃんに見せながら、


「ええっと……、しパンとかうどんか。小麦粉を使ってすいとんなんかも、上手にできたら美味しくなるんじゃないかな」


 けれど香織ちゃんは浮かない顔をする。

「これって結構お金がかかりそうな気が………」

 はいそれ、正解。


 そもそもお米は安い主食だったわけで、それを節約しようとして、より高い主食に替えるのは難しいだろう。


 というわけで3つめ。実はこれをオススメしたい。


「……3つめ。献立こんだてを工夫する」


 香織ちゃんは何を言われたかよくわかっていないようだ。しかし、栄養バランス的にもこれが一番いいと思っている。


「おかずを増やすんだよ。それで代わりにお米を減らすの」

「おかずですか……、でもそれも難しいような」

「ちっちっちっ。香織ちゃん、メニューのレパートリーを増やせば、上手に節約できるんですよ。これが」

「はい。……あまり自信はないですけど」

 むしろ今までがお米に偏ってたんだしね。


 そのままパラパラと2人で雑誌をめくっていると、香織ちゃんが、

「あ、これなんか面白いですね」

と言って、記事をまじまじと読みはじめた。


 ……ああ、それは確かに面白かったな。

「東京8大デパート戦時食料献立の腕くらべ座談会」


 それぞれのデパートが節米メニューを紹介したわけだけど、高島屋の枝豆ご飯とか良さげで、今年の夏にさっそく作ったよ。夏樹には好評だった。


 再び別の雑誌を見ていて、香織ちゃんが首をかしげた。

魚粉ぎょふんをパンに入れるんですか? おいしいのかな?」

「ああ、興亜こうあパンね。それ、生臭なまぐさくておいしくないよ」

「ですよね。興亜奉公日だとまあ、そういう食事もありなのかもしれないですけど……」


 最後は言葉を濁した香織ちゃんだけど、気持ちはわかる。

 今、毎月一日が興亜奉公日っていって、神社にお参りに行ったり、ぜいたくは禁止して質素な日の丸弁当を食べようってことになっているんだ。

 前線の兵士の苦しみを、銃後じゅうごの私たちも知ろうという趣旨らしい。銃後っていうのは戦争に行っていない国内の生活みたいな意味ね。


 ただ日の丸弁当にはお米を大量に使うわけで、節米にはそぐわない。その代わりにと提案が出ているのが興亜パンだ。

 魚粉だけでなく、海藻かいそうの粉末だとか大豆の粉も入れた蒸しパンで、一度作って見たけど味がねぇ……。カロリーメイトみたいな味なら食べる気にもなるけど。もう二度と作るつもりはない。

 味は度外視した栄養重視のパンだろうけど、あれは絶対に普及しないと思う。


「あ、おらししてる」

 香織ちゃんが急に戸惑った声を上げた。私は笑いながら、

「お風呂場で替えてきたら?」

と勧めると、「すみません」といいつつ替えの布おむつを持って、そそくさとお風呂場に入っていった。


 泣きだした和くんをあやしながら、おむつを替えている香織ちゃんの声が聞こえる。私は肘をつきながら、昔のことを思い出していた。


 ……碧霞へきかも最初はこうだったなぁ。


 かつて育てた女の子も、私たちの所に来た時はちょうど和くんくらいの歳だ。お漏らしもしたし夜泣きもしたし、なんだか懐かしい。


 あの子が結婚して孫の顔も見られて、私たちは人並みの幸せを味わうことができた。

 ただ心残りなのは……、私たちが中国を離れている間にいくつもの戦乱があったようで、再び訪れたときには、あの子の子孫がどこに行ってしまったのか、わからなくなっていたんだよね……。


 あれから2500年以上も経っているから、さすがにもう難しいかもしれないけど、どんな形であれ生き延びていて欲しい。

 というか、私たちと因縁のある一族だから、きっとまたどこかで会える。なんとなくそう信じている。


 抱っこしながら戻ってきた香織ちゃんと再びおしゃべりをしていると、いつのまにか和くんが眠りこけていた。

 2人してその寝顔を見て笑みを浮かべる。子供が寝ちゃうと急に部屋が静かになる。

 寒くないように毛布を掛けてやり、香織ちゃんと対面してお茶を入れてあげた。


 お茶を飲んだ香織ちゃんが、

「……ふう」

とため息をつく。うれいを帯びた表情に、

「お疲れさま」と声を上げると、苦笑いを浮かべていた。


 一番最初の子供。家事に加えて初めての子育てとあっては、色々と疲れもまっているのだろう。


 少しの間、会話が途絶える。

 この辺りでは、もうあと一週間もすれば、麦の種まきの時期を迎える。その前のほんのひととき。

 蔵の窓から差し込んだ陽光が、やさしく和くんを包み込んでいた。そして、それを見つめる香織ちゃんも。

 まるで聖母のような柔らかい笑み。慈愛に満ちた母親の目をしていた。


 ふと、その香織ちゃんの視線が動いた。窓辺の机に放り投げてあった新聞が気になったようだ。


 あれは先月ので、とうとう日独伊三国軍事同盟が結ばれたと華々しく報道されていたものだ。


 ドイツではすでに北部フランスを支配下に置いている。それに呼応するように、ソビエトもイタリアも軍事作戦を開始しているとか。――ヨーロッパに放たれた火は、着々と燃え広がりつつあるのだ。


 ヨーロッパは、私たちと夏樹が旅をしてきた土地でもある。知り合ってきた人々は大丈夫だろうか。


 日本でもドイツとフランスが休戦協定を結ぶや、ベトナムやラオス、カンボジアあたりを植民地としているフランス領インドシナ、通称仏印ふついんに軍隊を駐留ちゅうりゅうさせた。

 蒋介石しょうかいせきを援助するルートの1つ、通称、仏印ルートをつぶすために、現地政府に軍隊の進駐しんちゅうを認めさせたのだ。


 日支事変は、すでに徐州じょしゅう武漢ぶかんといった中国の中部を抑え、南部地方に手を伸ばしているところ。南部の海岸沿いを抑えて、これまた列強れっきょう諸国が蒋介石を援助するルートをつぶすという意図があるらしい。


 国内の生活にも影響が出ていて、去年の10月には価格統制令という法律ができて、お店の商品についている値札にはマル公とか、○協という印が付くようになった。物価が固定されて変動しなくなったのだ。


 便利なように見えて便利じゃない。利益を上げるために闇市やみいちに商品が流れ込んでいくだろうから。結果、ものすごく高くても買わざるを得ないだろう。


 7月には抜き打ちのように、贅沢ぜいたく品の生産や取引、販売が禁止された。突然の発表と施行で、都会ではショックを受けた人も多かったらしい。

 アメリカがくず鉄の対日輸出を全面的に禁止したというから、そのうち金属類の回収が始まると思う。


 こんな生活の中だけれど、来月には皇紀こうき2600年で盛大に祝うという。


 神の子孫である初代天皇・神武天皇が即位してから2600年。

 私たちは残念なことに、その頃に日本にいなかったから即位の真実はわからない。

 ただ、その2600年という歴史の重みだけはわかっている。歴史を歩んできた私たちだからこそ、その重みがわかる。


 ――それでもだ。

 私にとって皇紀2600年の祭りは、厳しくなりつつある生活への不満を、違うベクトルに逸らすための行事にしか見えない。……口に出しては言えないけれど。



 しばらく手にした湯呑ゆのみに視線を落としていた、香織ちゃんが静かに話し出した。

「――年明けには、秀雄さんが兵営に入ります」


 そうか。今年の徴兵ちょうへい検査で甲種こうしゅ合格だったんだよね。

 入営が決まったときに挨拶に来てくれたけれど、確か所属は弓6823部隊。兵営先は宇都宮と聞いている。


「私、どうしたらいいのかわからなくて……」

 そうつぶやくように言うと、それっきり香織ちゃんは目を閉じた。


 急にその姿が、はじめて家に来たときの、迷い子のように弱々しく見えた。

 なんて声をかけてあげればいいのか。

 どう言ってあげればいいのだろうか。

 私にはわからない。


 ……それでも、できることはある。


 そっと手を伸ばして、小さく震えている手を包み込むように握る。顔を上げた香織ちゃんの目尻は、ややうるみかけていた。


 まっすぐに目を見つめ、

「泣きたかったら泣いていいんだよ」

 きっと誰からもこんなことを言われていなかったんだろう。はっと目を見開いた香織ちゃんが、泣き笑いのような表情をした。

「は、い……」

 絞り出すような声。私の胸も締めつけられるように苦しい。


 そばにいって、横からそっと腕の中に抱き込んであげた。かつて義娘むすめの碧霞にしてあげたように。

 とたんにせきを切ったように泣き始める香織ちゃん。


「わたし。心配させると――、いけないから。和雄にも」

 まっている感情がほとばしり出るように、ぐずりながらもしゃべっている。


「いいのよ。今のうち、たくさん泣きなさい」

「結婚したばかりなのにっ。和もまだこんなに小さいのにっ」

「うん。わかってるよ」


 背中をさすってあげるけれど、気休めのような言葉しか出てこない。でも、香織ちゃんはそんなことお構いなしに、胸の内をさらけ出すようにしゃべり続けた。


「お義父さまもお義母さまも我慢しているんです。秀雄さんだってっ。……それなのに、私がっ。――私が泣くわけにいかないじゃないですかっ」


 そうして私は、泣きつづける香織ちゃんを抱きしめてあげた。


 どれくらい経ったろうか。やがて落ちついた香織ちゃんが、私の腕の中で小さくうなずいた。

「奥様、ありがとうございました。……もう大丈夫です」

と小さい声で言いながら、顔を上げた。


 抱擁ほうようをといて、すぐ隣に座る。香織ちゃんは涙を拭きながら、健気けなげにも私に向かって微笑んだ。

「変なところをお見せしちゃって――」


 言葉の途中で和くんが泣き出した。突然、火が付いたように激しく。

 香織ちゃんが立ち上がり、抱っこしながらあやす。


 まだ目もとがれ、泣いた跡が残っているけれど。和くんの頭に自分のほほをてながら、身体をゆっくりと揺り籠のように揺らしている。


「香織ちゃん」

「はい」

「いつでもうちに来ていいからね」

「……はい」


 先月隣組となりぐみが組織された。配給や月に一度の常会がメインだけれど、戦争反対のようなことを言えば、すぐに特高に通報されてしまうだろう。

 だけど、ここなら。蔵ならばその心配は無い。言いにくいこともすべて私が聞いてあげる。それも女神の役目かも知れないし。


 にっこり微笑んだ香織ちゃんからは、先ほどまでの弱々しさはもう既になかった。

 覚悟をしたかのような、それとも母としてのかわからないけれど、しっかりとした力強さを感じたのだった。

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